ベンチ



 紳士はそれをとても不思議に思っているのでした。
 その見知らぬ女性はもうずっと、ながいことその白いベンチに座っていて、誰かを待っている風なのに、一向に何者も現れる気配がないのですから。
 世界はもうノベンバーなので、今日のような薄曇の日は、空気がひんやりしています。
 公園は海沿いなのだから、風だってよく吹いてゆきます。
 女性の格好は、随分寒そうであると、紳士には見えました。
 赤と水色の大きな格子縞のスカートを履いて、黒い筒襟の上には、サクランボほどもある赤いきらきらしたネックレスをし、レースタイツの足を包む茶色いスエードの長靴には、フリンジがひらひらとついているのでした。
 とてもお洒落なようだけれども、いかんせん寒そうであると、やはり紳士は思うのでした。
 あの女性が一体誰を、あるいは何を待っているものか、紳士はひどく気になりました。
 待ちくたびれた風でもなく、苛々する風でもなく、かといって諦めたようにも見えず、ただ時折、本当に思い出したように腕時計を見ては、また顔を上げて、そのベンチに座り続けているのです。
 そうして紳士は、素敵なことに思い至りました。
 あの女性と言葉を交わすのです。
 話をするのは、きっと素敵なことに違いないと、そういうことです。
 それから紳士はベンチの方へと、出来るだけ普通に歩いて行きました。
 心の中は、様々な予感で溢れかえりそうだったのに、上手いこと普通に歩けたようでした。
「やあ、こんにちは」
 と、紳士は声を掛けました。
 女性は座ったままで紳士を見上げ、
「ええ、こんにちは」
 と返事をしました。
 そこで紳士は、
「失礼だけれども、あなたはここで、一体どなたを待っておられるのです」
 と尋ねました。
 もう少しなんでもないことを話してからにしようと思ったのに、どうやら気が逸ってしまったらしいのでした。
「私はここで、恋人を待っています」
 と女性は言いました。
 ああ、と紳士は思いました。
 ひどくがっかりした気持ちになりました。
 まるで当たり前のようなことです。
「そうですか。しかし、それはひどい。ええ、ひどいですとも。あなたはずっと、ながいこと、ここに座って待っているのに、あなたの恋人はまったく現れない。待ちぼうけです」
 紳士はそう言ってやりました。
「ええ、待ちぼうけです。でも、私はそれをあらかじめ知っています。何にもひどくないのです」
 女性は笑っているような、いないような顔で、紳士を見上げたまま言います。
「何故なら私には恋人がいないのだから」
 紳士は驚きました。
「ははあ、成る程、それは道理です。来るはずがない」
 そう答えるまでに、少しだけ時間が要りました。
「いいえ、違うのです。そうではなくて、私は来るかもしれないと思ったのです」
 紳士は何だろうと思いながらも、相槌を打って先を促しました。
「私は今、私に恋人がいないことを知っているけれど、これから先も一生涯恋人がいないことを知ってはいないのです。承知していないのです。だから、待っていたのです、恋人がここに現れるのを」
 紳士はまた、少しの間考えてから返事をしました。
「それで、恋人は」
「見ての通りでないですか」
 女性は少しだけ唇の端を上げました。
「確かに筋が通っていましょう。しかし、待っている間、あなたはそれが退屈でないのですか」
「退屈なんかであろうものですか。とてもとても、楽しいことです」
「何もしないことが」
「とんでもない、私は楽しく遊んでいました。ほら、あの空が見えますか。うすぼんやりと曇っているでしょう、あの灰色をこうして掴んで、ひっくり返すと、そこには私の国があるのです。私は私の国で、いつも遊んでいるのです。カップサ森の奥深く、ニルゲの大樹を越えた辺りに、きれいなお池があるのです。私はいつもその池で、水草に絡まったり、抜け出したり、また絡まったりして遊びます。しばらくすると飽きるので、小さな庵で焼き菓子を焼きます。悪戯なマロイたちが、甘い匂いを嗅ぎつけて、必ず盗んでいくのです。そうして食べて、ああ不味かった、不味かったと言いながら、次にも必ず盗むのです。早く焼けよと言うのです。それだものだから、私はマロイが可愛くて、茸を叩いて演奏してやります。するとマロイばかりか、ダーダルダもキシュカトも出てきて、大勢で歌って踊るのです。そんな風にしながら、私は恋人を待っていたのです」
 紳士は大層感心しました。
 女性の言うことの殆どが、紳士の理解の範疇でないのだけれども、どうした訳か、いかんともしがたい感動がありました。
「それは素晴らしい。大変素敵なことですとも」
「ええ、素敵です、間違いありません」
 女性はさっきよりももう少し、笑ったように見えました。
「ところで、今度は私があなたにきいても良いでしょうか」
 女性がそう言うので、紳士は何を質問されるものかと、俄かに気持ちが高揚しました。
「ええ、何なりと」
「ありがとう、ではききましょう。あなたは私の恋人ですか」
 紳士は面食らいました。
 まさか、そう尋ねられるとは思いも寄らないことだったからです。
「わたしですか。それは難解な問いです。わたしは今、あなたの恋人でないことを知っています。けれども、この先も一生涯、あなたの恋人でないと、どうして言えましょう」
 しかし紳士は機転を利かせて、先ほどの女性の言い様を少し真似して答えました。
「そうです、その通りでしょうね!」
 今度こそ女性は笑いました。
 どうやら紳士の言うのが、気に入ったようなのでした。
「ああ、素敵です!ねえ、私たちキスをしませんか」
「キスをですか」
「キスをです。とびきり清らかで、誰にも真似の出来っこないキスです」
「あなたはわたしと、キスがしたいと」
「そうです」
「それならば、わたしたちはキスをしましょう。きっとそれが良い」
「ええ、ええ!」
 女性は嬉しそうに、目一杯に笑って、はじめて白いベンチを立ちました。
 紳士は女性の頬に両手を宛がって、女性が本当に嫌がっていないのを念入りに確認してから、唇にキスをしました。
 それからそうっと手を放して、両手を挙げたまま、女性が目を開くのを待ちました。
「素敵です、とびきり清らかです、誰にも真似出来っこない!」
 女性は興奮したように、たった今のキスを評しました。
「ああ、なんてこと。リットルコに教えてあげなければいけない。今日、キスをしましたと!」
 リットルコとは誰だろうかと思いながらも、紳士は女性が踊るように喜ぶのを、幸せに見ていました。
「ああ、本当に素敵でした、ありがとう!」
 女性は紳士の手を取って、大きくゆすって言いました。
 そうして紳士が何かを言う間もなく、
「それでは、ごきげんよう!」
 と声高らかに言って、あっという間に手を放し、どこかへと駆け出しました。
 紳士は咄嗟に手を伸ばしました。
「どこへ行くのです!」
 手は届かずに、しかし女性は少し行ったところで、立ち止まって紳士の方を向きました。
「ドレンディンと話をします。ご心配なく、またすぐにきっと会えます。あなたは明日も同じように、あの黄色いベンチで恋人を待てば良いんです。今日と昨日と一昨日と、その前とも同じように!」
 女性は可笑しそうに言いました。
 ああ、と紳士は思いました。
 もう一度、ごきげんよう、と元気良く叫んで、女性は走り去りました。
 明日は名前を聞かなくてはと、紳士は思いました。


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2003.11.07 公開