アロアニーラとサーテリオン
彼女が何故にそんなことを言い出したのか、彼にはさっぱりわかりませんでした。
「あなた、サーテリオン、あなたはわたくしの一体どこを愛してくださるの」
「はてさて、全体どういうことなのだ、アロアニーラ」
ふかふかの寝床の上で、一糸纏わぬ姿のまま、二人は抱きあっていました。
彼女の言いようは、ついさっきまでの睦言と、どうやら趣を異にしているのでした。
「私(わたくし)が、お前のどこを好いているかと」
「わたくしのどこを愛しているか」
彼女は彼の腕の中に納まったまま目だけを上向け、じいと見つめて答えを促しました。
これはどうやら答えないことには仕方なく、彼は髭に囲まれたその口で、ふむ、と、ひとつ唸ってから言いました。
「先ず、お前のその愛らしい顔立ちだろうか。そして輝く髪、光る肌、麗しい声」
「それではもしもわたくしが階段から転げ落ちて顔がひしゃげてしまったら、その時はあなたはわたくしがお嫌いなのね。髪を焦がしてしまったら、肌が病気になったなら、喉を潰してしまったら」
咎立てする風でもなく、彼に確認するように、また自身が咀嚼するように、彼女はそう呟くのでした。
それを聞くと彼は、声をより丸く落ち着かせました。
「アロアニーラよ、そんなことはない。先ずと言ったではないか。私はお前の優しい心根も好いているのだ。いや、そちらが本当だろう、私が思うに」
「心根!心の根っこ、心の底。それはすなわち、わたくしの性質(たち)のことを仰るのね」
「その通り。しかし、何故こんなことを問う気になったのだ」
「例えば、」
彼の言うのを全く無視して彼女は言いました。
「何かの秘術でわたくしをもうひとり拵(こしら)えます。わたくしと同じ顔、同じ声、同じ性格がもうひとり。そうしたらば?」
「それでも私の好いているのはお前だけだよ」
「何故ですか。あなたは今しがた仰ったばかり。私の顔が、髪が、肌が、声が好きだと。心根を好いていると。全てが同じものなのに、片方は愛して片方は愛さない。それは一体何故なのですか」
彼は少々戸惑いました。
「私は生涯をかけて、アロアニーラと運命を共にすると誓った」
「では誓う前ならどうですか。出会った時から、わたくしがもう一人いたのなら。まるきり同じわたくしです」
彼はもう少々戸惑いました。
そして思わず、
「詮方ないことを」
と、こぼしました。
「詮方ない!…ああ、わからなくなってしまった。あなたが二人とも愛するのだと仰れば、わたくしは合点がいきましたのに」
「二人とも!」
「そうです、二人とも。だって同じものなのだから。そうしたら、あなたが私を愛してくださる理由が、納得できたところです。この顔だから、髪だから、肌だから、性格だから、あなたはわたくしを愛すると。けれどそうでない。わかりません、わかりません、サーテリオン」
彼女は彼の胸に頬を当て、猫がするように摺り寄せました。
「アロアニーラ、私の可愛いアロアン。何を不安に思うことがあろう。お前がお前でいる限り、私はお前を好いているのだよ」
彼はすがりつく彼女に優しく諭しました。
「ああ!サーテリオン、それではあなたはいつか、わたくしを捨てるのだわ」
「何を言うか!」
彼はぎょっとして彼女の顔を見ました(実際には頭頂部しか見えませんが)。
彼女が大それたことを言う理由がわからないからでした。
「何を言うかと、本当を言うのです、サーテリオン。わたくしたちはいずれ、然るべきときに別れを迎えるのだわ」
彼女の声は、悲しい声でした。
「滅相もない事を。然るべきときとは一体、どのときを言うのだ」
彼は心の底から疑問に思いました。
たった今甘い言葉を捧げたばかりの女が、そんなことを言い出したのだから、それも当然のことでした。
しかし彼は怒(いか)らずに、優しく彼女の髪を撫でてやるのでした。
「それは、あなたがわたくしを好かぬと思うときです」
彼女が答えると、彼は笑いました。
逞しい胸が揺れると、そこへすがっている彼女も揺れました。
「それなら心配は要らぬ。私はお前を嫌わない」
「嘘を」
「嘘ではない」
「いいえ、いいえ」
彼女は被りを振りました。
「わたくしは確かにアロアニーラです。けれど、あなたは一体どんなアロアニーラをご存知ですか。
優しいわたくし、可愛いわたくし、陽気なわたくし、健やかなわたくし。他に何を?」
「泣き虫なお前、我が儘なお前、自由なお前に気高いお前も知っているとも。それに、陰気なお前すら」
「ほら!たったそれだけです。あなたはたったそれだけで仰る、わたくしがわたくしでいる限りなどと。それはつまり、あなたがご存知の、優しく可愛く陽気で健やかで、泣き虫で我が儘で自由で気高く、そして陰気なわたくしでなければならないということでしょう。それ以外のわたくしを知ったら、あなたはこう思われるのだわ、アロアニーラは変わったと。だって、あなたはそれだけのわたくししかご存じないのだもの!」
彼女はいやいやをしました。
彼は少々くすぐったく思いながらも、大きな手で彼女をあやしてやりました。
「あなたの未だ知らない、凶暴なわたくしに、愚かなわたくしにあなたが触れたとき、わたくしたちは別れるのだわ。ああ、サーテリオン。恐ろしいこと、口惜しいこと」
彼はもう一度笑いました。
「恐れずとも良い。嘆くことなどあろうものか。そんな日は来ないのだよ。私はどんなお前にも、驚いたりはしないのだから。どんなお前ですらも、今日と変わらず好いていようとも。ああ、きっと好いていようとも」
彼はその逞しい腕で彼女を抱きしめ、髪にいくつもキスをしました。
太陽のようなキスでした。
彼女は黙りました。
それきりすっかり黙りました。
「ようやく腑に落ちたと見える」
彼はおおらかに笑んで、小さな子供が縫い包みにするように、一度ぎゅうと彼女の身体を抱きしめました。
彼女はされるままに身を任せました。
そうしてやっと、
「抱いてください、サーテリオン」
と言いました。
「わたくしは、あなたを、愛しているのです」
彼女の声はとても小さな声でした。
彼女がどんな顔をしているのか、彼には見えませんでした。
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2004.02.01 公開