ピィチィピリリヒピ



「だからハロンナはおばかさんだと言うのよ」
 ミローマローメルは言いました。
「そうなのかしら」
 ハロンナは項垂れて答えました。
「そうよ、ああ、可愛いおばかさん!あなたは勘違いしているの、物事の根幹たる部分を」
「そうなのかしら」
 ますますハロンナの頭(こうべ)は垂れました。
 ぱんぱんに膨らんだ黄金色の穂先よりも、もっと地面へ向いていました。
「いいかしら、ハロンナ?あのね、世界というのは概念なのよ」
 ハロンナとミローマローメルは並んで話をしていました。
 背中を丸めたハロンナは緩慢な動きで顔だけ上げて、ミローマローメルに目をやりました。
「世界というのは概念なのよ」
 もう一度、ミローマローメルは言いました。
 偉い先生のようでした。
「いいこと、これは地面。土。それは木よ。あれは岩。草。虫。わたし。あなた。どれも本当の物よ。物なの。わかる?
 それらは全て物なのよ。この世界にある物なのよ。この世界にある物ではあるけれど、この世界そのものではないわ。わかる?
 例えば、そら、その葉っぱを御覧なさい。それは何?葉っぱよ、当たり前。その葉っぱがここにあるのは本当のことよ。けれどそれだけじゃ、世界があるってことにはならないわ。ただ物があるってだけ。まだ世界じゃない。わかる?
 さあ、じゃあ、それに触(さわ)れる?触れる、当たり前よ、だって葉っぱだもの、ここにある。そうよ、当たり前。けれど、それこそが世界というものよ。十把一絡げに現実だとかなんだとか言っているけれど、そこに物があることと、その物を見たり触れたり、その物のことを考えたり出来ることは、全く全く違うのよ。もともと此処にあるのは、ただの物ばかりなの。それを世界にしたのはあなたよ。わかる?
 けれどね、その葉っぱよ。そう、その葉っぱがここにあるのは確かに本当のことだけど、本当というのはとても厄介なのよ。本当ほど嘘のようなものは、他にないわ。本当というのは本当は嘘かも知れないのよ、いつだってね。まあ、ほらご覧なさい、本当って本当に厄介だわ。本当って幾つも幾つもあるのよ。嘘みたいにね。それに、嘘っていうのは、本当と呼ばれて涼しい顔をしていることも出来るのよ。嘘は嘘として嘘呼ばわりされなければ、本当の本当でなくても本当で良いの。それが本当よ。わかる?
 だとしたら、あなたとわたしの見ているものが本当の本当に同じだなんて、どうして言えるかしら?ねえ、晴れた日のお昼の空は何色?ほら、この空よ。青い?青ってどんな色?誰に教わったの?何て教わった?空を指差して、あの色は青ですよと教わったんじゃなくって?だったら空は青いわ。だって空が青いんじゃない、空の色が青なんだもの。青って、本当に青かしら。誰にとっても青かしら。怪しいわ。わかる?
 けれどね、あなたとわたしの本当はよく似てるのよ。似た本当を持っていて、似た言葉を喋るから、比較的意味が通じ易い。だからこうして会話だって楽しめるわ。つまり、裏っ返すと、てんで違う本当を持ってる物とはコミュニケーションが取れないの。わたしとあなたは本当と本当が似ているから、こうして言葉を交わせるのよ。たまに嘘を生んだとしたって辻褄が合ってるんだから、そう、例えばあなたには空が赤くたって、それは沢山ある本当の、姿のうちのひとつなのよ。けれど本当と本当が本当に相容れないとき、会話なんて出来ないの。言語の問題じゃないわ。わかる?
 それは世界が違うからよ。わたしとは、あなたとは、異世界の物だからよ。つまり、結局、世界というのはそういうものなの。わかる?
──わからないって顔をしてる」
 最後にハロンナの顔を確認したミローマローメルは、大きく息をつきました。
「そうかしら」
 ハロンナは首を傾げて、顔をぺたぺたと触りました。
 わからないって顔をしているかどうか、確かめているらしいのでした。
「もう、おばかさんね。そんなだから、わたしの本当の名前を知りたいなんて言い出すんだわ。わたしはミローマローメルよ、それは本当のことよ、間違いのない。それで良いじゃないの」
「そうかしら」
 ハロンナは、もう一度首を傾げました。
「そうよ。わたしとあなたはまるきり同じでないとしても、少なくとも似た本当を持ってるのよ。それだけで充分だわ。わたしに名前がいくつあったって、それを全部知ってたって知らなくたって、そんなのは関係ないじゃない。こうして会話を交わせるんだから。
 あなたが、ねえねえ、ミローマローメルとわたしを呼べば、はいハロンナ、何かご用と答えるわ。わたしがハロンナであなたがミローマローメルだったとしても、おんなじことよ、何も困らない。ねえねえハロンナ、はいミローマローメル、何かご用。ほらね、ただそれだけ」
「そうかしら」
 ハロンナは少しゆっくり、呟きました。
「しかたないわね、ハロンナ。いいこと、よくお聞きなさい。わたしはね、………よ。それをあなたがた流に言うと、ミローマローメルっていう風になるのよ。意味は同じよ。でも違ったって、大したことじゃないけれどね。どっちにしたって、あなたには発音できっこないのよ。できるものなら囀(さえず)ってご覧なさいまし」
 ミローマローメルはそういうと、自慢の黄色い羽根で、どこかへ飛び去ってしまいました。
 その名前は、ハロンナにはピィチィピリリヒピと聞こえました。
 しかし、
「ピィチィピリリヒピ」
 と、口に出して言ってみると、やはりミローマローメルの言うのとは違うのでした。
 ミローマローメルの言う通り、発音できっこありませんでした。
 ハロンナは少しのあいだ、そのままじっとして何か考え込んでいました。
 たっぷりしばらくたってから、
「けど、あなただっておばかさんだと思うわ」
 のんびりと言って、空を見上げました。
 それからハロンナは、ピィチィピリリヒピと囀る練習を始めました。
 空は抜けるように真っ青な色をしていました。


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2004.04.16 公開