午睡



 ネリー・ノエリー・メル・ティティアンは、その中をゆっくりと走っていました。
 その空間は真っ白い色をしていました。
 空気の色が白いのでも、遠く彼方に白い壁だの、足元に白い床だのがあるでもないのに、どう見渡しても間違いなく真っ白なのでした。
 真っ白なのに、濁ってなどおらず、どこまでも透明だと感じるのでした。
 走る感覚はまるで浮いているようでした。
 体重などというものは、どこかへ忘れてきてしまったのでした。
 あるのかどうかもわからない地面をつまさきが捉えて、くっと蹴ると、まるで時間に悪戯をして流れるのを少しばかり遅くしてしまったかのように、ふうわりと身体が踊り、髪が舞いました。
 するとその顔に、腕に、脚に、胸に、あらゆるところに何千、何万もの小さな小さな丸い粒がぶつかって、しゃぼんを砂にしたようなそれらがお互いを弾きあいながら、きらきらと音を立てて笑うのを、目には見えず耳には聞こえずとも確かに感じるのでした。
 そして気紛れに一層の高みを求め、脹脛をほんの少し使ってやると、身体はゆったりと美しい曲線を描いて上昇し、やがて頂点を通過し、ゆうるりと下降し始め、早くもなく遅くもない丁度良い時に、何かにそっと足を揃えて降り立つ格好になりました。
 それは透明で七色に輝く、割れない薄氷でした。
 ネリー・ノエリー・メル・ティティアンは、きらきらの粒が名残惜しげに消えていく笑い声を聞きながら、何の不安もなく、そこから足を踏み出しました。
 するとまるで最初からそこにあったのをわかっていて足を出したように、なんにも不自然なく、次々と透明な薄氷は現れて、階段のように少しずつ高い場所へと続くのでした。
 靴の踵と薄氷は、何か秘密の約束でもあるかのように、触れ合うたびに様々な音階でシャーン、コーン、ピカーン、と音を鳴らしたので、ネリー・ノエリー・メル・ティティアンはそれが鍵盤であることに気がつきました。
 音は何にも遮られることなく、どこまでもどこまでも自由に広がっていき、いつまでも尾を引いて別れを惜しみました。
 その姿のない後姿を見送りながら、ネリー・ノエリー・メル・ティティアンは、ネリー・ノエリー・メル・ティティアンにさえわからない何処かへと、その足に連れられていくのでした。
 両腕が自然に伸びて、鳥が風をつかまえるような格好になって、あるいは踊り子が始まりの合図を待つような格好になって、揺れもしないのにバランスを取って、少しずつ少しずつ、足元から発せられる音と一緒に自分が広がっていってしまったような感覚に身を任せながら、ネリー・ノエリー・メル・ティティアンは世界をのぼっていきました。
 どのくらい上があり、どのくらい下があるのかもわからないその場所で、相変わらずトーン、シャリーン、パーンと音は鳴り、歓喜を噛み締めるかのように足は進んで、しかしあるところで不意にそれは止みました。
 ネリー・ノエリー・メル・ティティアンは、そこで何が起きるのかを既に知っていることを感じ、大変喜ばしい気持ちで、広げた手を静かに前へと持っていきました。
 すると、少しも違和を感じることのないきっかけで、何も無いところからひとりの男性が現れ、その手を取りました。
 それはまるで、男性はずっとそこにいたのに、今になってようやく目に見える姿をとったように、そして、ネリー・ノエリー・メル・ティティアンはそれを承知していて、そのためにここまでやってきたように見えるのでした。
 男性はとった両手を大切そうな様子で口元に引き寄せて指先に口付けをし、そのままその手を引いて宙へと浮かび上がりました。
 つられるようにしてネリー・ノエリー・メル・ティティアンの足も、そこに地面を感じることをやめ、ふたりはゆったりと漂いました。
 昇っているのか降っているのか、若しくはどちらでもなくただ浮かんでいるだけなのか見当もつかないけれども、見当をつける必要のないことはわかっていました。
 そうしているうちに、男性が穏やかに笑っていることに気付き、ネリー・ノエリー・メル・ティティアンもまた安らかに笑みました。
 ふたりは磁石のように引き合って、指と指を絡め、腕と腕を引っ付けて、顔と顔をあわせ、それからふわりと、唇と唇を寄せ合いました。
 しかしその時、男性は急に何かに慌てたような素振りを見せ、何か言いたげな眼差しでネリー・ノエリー・メル・ティティアンを見たと思うと、その姿はふいと掻き消えてしまいました。
 ネリー・ノエリー・メル・ティティアンは、驚いてあたりを見回し、どこにもいないことに狼狽して、するとその途端、さっきまで完全だった世界は急に不完全になり、安定していたものは全て不安定になり、色んな方向にぐるぐると回り始めて、何がなんだかわからなくなりました。
 落っこちてしまう!と思ったその時でした。
 全く同じその瞬間のことでした。
 ネリー・ノエリー・メル・ティティアンは、もともと浮いてなんかいなかったことを悟りました。


 * * *


「こんなところで寝ていたの。待ち合わせにやってきたのに、どこにいるかすっかりわからないから、探してしまったよ」
 噴水の淵に身体を横にし、午睡に落ちていたその人は、友人の声で目を覚ましました。
 午後の日差しは麗らかで、水の音は心地よく、地べたに構わず座り込んで玩具の楽器を練習する子供の姿など、とても心休まるものでした。
「悪かったよ。あんまり気持ちが良いものだから」
「そう」
「そうさ。とても素敵な夢を見ていた」
「へえ、どんな?」
「真っ白い世界の夢だよ。その世界では、僕には不思議な名前があって、遠くからきれいな音が響いてくるんだ。そうして素敵な女性と出会うのだけどね、君が邪魔してくれたんだよ」
「それは申し訳なかった!ふうん、きっと運命のひとだ」
「君の言う通りなら、近いうちに再会しなきゃいけないね」
 二人は笑ってそんな話をしながら、どこかへ歩いていきました。
 ちょうどその時、噴水の反対側では、ひとりの女性が鞄を小脇に抱えなおし、顔にあとがついてやしないかしらと心配しながら、足早に立ち去っていくところでした。
 悪戯好きの午後の日差しが、運命までどうにかするほど力持ちかどうかは、誰にもわからないことでした。



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祢莉ちゃんへ ふうより 2004.10.04 公開