雨の水曜日堂 1



 その女学生が「雨の水曜日堂」を見つけたのは、とある日の午後、家へ帰る途中、に薬局へ寄る途中、のことでした。しとしと雨の降る中、青い傘を差して表通りを歩いていたら、たまたまふっと目をやった路地裏に小さな看板がありました。おや、こんなところにいつの間にやら変なお店が出来ている。いや、もしかしたらずっと前からあったのに気付かずに通り過ごしていたんだろうかと、女学生は不思議に思いました。表通りは何度も何度も繰り返し通っている道なので、昨日までその細い横路がどうなっていたのかを思い出そうとしてみましたが、どうやら無駄なので、まあいいかとすぐに諦めてしまいました。
 看板を良く見てみると、

 雨の水曜日堂 処方箋受付 猫はじめました 煙草やめました

 ─という、ちょっぴりおかしな文句が書き付けてありました。猫と煙草がどうこうというのは後から紙で貼りつけてあって、上手くはないけれども愛嬌のある字が雨で少々滲んでいました。看板の横には小さな屋根つきの扉がひとつあるだけで、ショウウィンドウも何もありませんでした。重たそうな茶色い木製の扉にはガラスが嵌っていましたが、曇っていて中は覗けませんでした。なんとなく厳かで、どことなく如何わしく、そこはかとなく懐古的で、さりげなく胡散臭い、なんだかよくわからない風情でした。開店したばかりにしては随分とうら寂しいし、老舗にしてはちゃちだし、ともかく妙の一言に尽きるのでした。
 さて、そんな変てこなお店でしたが、女学生の目は、処方箋受付、という文句に留まりました。これから寄っていこうと思っていた薬局は、家までの道をすこし外れたところにありました。雨の中、遠回りするのはちょっと億劫だなあと思っていたところだったので、変わったところだけれどもまあ構わないだろう、薬が買えれば良いのだからと、好奇心半分にこの雨の水曜日堂の扉を開けてみることにしたのでした。
 小さな屋根に入って傘を畳むと、遠慮がちにそうっと、すこしずつ扉を開きました。静かに様子を窺いながら身体半分くらい中へ入ったあたりで突然、その仕草にはまるで似つかわしくない大きな音で、カランコロカーン、と喧しく鈴が鳴りました。女学生は吃驚してわあと声を上げ、慌てて中へ入ると背中で押し戻すように扉を閉めてしまいました。カロカロカロ、と余韻を残して鈴が鳴り止むとようやく、今の醜態を店主なりなんなりに見られていただろうかと顔を赤くして目線だけで店内を見回しました。
 やや手狭な印象の店内は薄暗い程度の穏やかな灯りに照らされていました。粗目砂糖を焦がしながら煮詰めたような、よく光るいい色の木製家具が並んでいました。壁中が棚になっていて、本棚もあれば、大小様々の箱がたくさん並んでいる棚、絵や壷や人形や食器や楽器や植木鉢や、なんだかごみのように見えるものまで一緒くたになった、一言で片付けるならばがらくたの棚もたくさんありました。すこし横っちょにはテーブルとおそろいの猫脚椅子もありましたが、テーブルにも椅子の上にも、レースのついた服のようなものやら卵形の置物やら薬缶やら本やら瓶に入った何かの液体やら、どっさり物がのっていて、とても本来の使い方は出来そうにありませんでした。扉から見て正面の奥はカウンタになっていて、その更に奥はカーテンで隠されていました。まあまあ、兎にも角にも物でごった返していて、雑多な店内でした。そしてそのどこにも店主の姿はありませんでした。
 扉の横に傘を立てかけて、女学生は店の真ん中あたりまでそろそろと進みました。薬屋のつもりで入ってきたのに、随分な様子だと女学生は思いました。それともカウンタの奥の見えないところにはちゃんときれいに薬が並んでいるのだろうかと思案もしましたが、それにしてもここは小汚すぎると顔を顰めました。埃を被っているわけではなく、不潔ではないようだけれども、如何せん清潔感というものが全くないのでした。
 薬を買う気はすっかり失せてしまって、と言おうか、そもそもここが薬を売る店だということが信じられなくなって、女学生は腹立ち紛れの溜め息をひとつ、短く大きく吐きました。あれだけの音が鳴って誰も出てこないのだから、商売をするつもりだってないに違いありませんでした。それか、若しくは店主が耳も遠くなったよぼよぼの老人で、だとしたら縦しんばここが本当に薬局だったとしても、置いてある薬が飲めるものなのかどうかあやしいものだと思いました。処方箋なんか持ってきても、こんなに店内をだらしなくしておくようないい加減な性格をした老人の、しかも覚束ない手元で調剤された薬なんか、心配で飲めやしないに決まっていました。
 まったく時間の無駄をしてしまった、この上はさっさと当初の目的どおりの薬局に向かおうと、踵を返したときでした。
「おや、お嬢さん、もうお帰りですか」
 突然後ろから声がするので、女学生は思わず振り返りました。その拍子に手が棚の物にぶつかって、何かがゆらっと落っこちそうになったものだから、咄嗟に両手で受け止めてから、改めて声のした方を向きました。するとさっきまで誰もいなかったカウンタに、老人ではなく青年が、笑って肘を着いていました。
「雨の水曜日堂へようこそ。こう見えて当店は、その筋ではどうしてなかなか、評判はいいのだけどね。ふふふ」
 女学生の不満を見透かしたように肩を竦めてみせた青年は、頬杖のまま首を傾げて笑いました。浮かべている笑顔は人好きのするものなのに、あんまり冴えない風貌で、服装も前時代的なので、女学生は思わずいぶかしむ様な目で見てしまいました。
「落とさないでね。大事な売り物なんだから」
 そう言われたので、女学生は目を転じて、今じぶんが受け止めた何かをよくよく見てみました。
「…なあにこれ」
 それが何かと言えば、置き型の振り子時計であるというのが尤も腑に落ちる答えでしたが、問題はその造りでした。第一に、文字盤の本来十二時があるところに、一〇八時がありました。普通の時計が十二時まで刻まれているのと同じように、この時計らしきものは一〇八時まで刻まれていました。更に見慣れた時計には二本ないし三本であるはずの針が、九本もありました。長針、短針、秒針どころの話ではなくて、一番長いのから順に、すこしずつ短く太くなりながら、九本の針があっちこっちを指し示していました。目盛りがやたら細かい上に、針まで無闇に多いものだから、もうどの針が何時を指しているものなのかも、目を凝らしたって滅多にわかりませんでした。
「何って時計だよ。見てわからないかな」
「わ、か、り、ま、す。だから、どうしてこんな冗談みたいな造りなの」
 謎の振り子時計を両手で持ったまま、女学生は店主に突っかかりました。小ばかにされているように感じたからでした。
「冗談とは、それこそ冗談だよ。ひどい言い草だなあ。オスロニー式は初めてかい、向こうではこれが当たり前なんだけど」
「オスロニーってどこ」
「カバンズの南の方だよ」
「カバンズ?」
「そう。カルサラド大陸の真ん中あたりだね。あの辺はみんな驚くほど神経質かつ几帳面で、時計の針も二本や三本じゃあ足りないんだよ。何事も細かく、細かく分けて、きっちり把握したいんだ」
「…そんな大陸、聞いたことないけど」
「うん?ハウリゼンの小説に出てくるよ」
「………。あの。参考までに、ハウゼリンって」
「ハウゼリンじゃなく、ハウリゼン。作家なんだけど、一昨年の冬頃にちょっと知り合ったんだ。近頃はなかなか筆が進まなかったようだけど、なんだかとても魅力的な不思議な女性と出会ったらしくて。今度はそのことを書こうというみたいだよ。ああ、こんなこと言ってもわからないか。代表作は『楡の木陰に棲む獣』とか、『黄色い林檎』とか、あと『ペンと便箋の憂鬱』。オスロニーが出てくるのは、短編集『悩める音楽の肖像』の中の、『その指先』だね。知らない?」
「知らない。有名なの?」
「さあ。僕も夢の中でしか会ったことがないからなあ。どうなんだろう」
「………」
 返事をするのも馬鹿馬鹿しくなって、女学生はただそうっと時計を棚に戻しました。
「ちなみに南カバンズでは今、青い傘が大流行中だ。最先端だね、きみ」
「そうですか。それはどうも。ところでこの棚、もうすこし整理したほうがいいですよ。この時計けっこう重いのに、ちょっとぶつかっただけで落っこちたもの。よっぽど不安定な置き方されていたのね。がらくたでいっぱいだから、仕方ないけど。じゃあ、わたしはこれで。さようなら」
 言うだけ言ってさあ帰ろうとしましたが、扉の方を向いたら、さっきまでカウンタにいたと思った店主が通せんぼをしたので、女学生は思わずひっと息を呑みました。
「なんてことを!がらくただって!貴重な品ばっかりなんだよ、これらは!ほら見て、これがへんてこ虫の巣、これが竜魚の池の水草の瓶詰め、これが哲学鳥の羽根ペン、それから…ええっと…ちょっと待って!ああ、あった!ほらこれが」
 店主は矢鱈と大袈裟に嘆いたかと思うと、棚にあったものを次々手にとって女学生の眼前に突きつけて見せました。そして最後に、「君の欲しがってた物さ」と、ひとつの二枚貝を両手に乗せて、大切そうにそっと差し出しました。
 二枚貝は薄っすら桃色がかった白をしていて、ふっくらと丸みのある形をしていました。どこにでもあるような当たり前の貝の形でしたが、店主の大きな手にちょこんと大事に乗せられていると、なんだかとても可愛らしく見えました。
「わたしが欲しいのは貝殻じゃないんだけど」
 そう言いながらも、女学生はそれを手にとってみました。
「大事にね、大事に。知ってるよ。きみは頭痛薬を買いに来たんだ。だからさ」
「だったらなんで貝殻なの」
 手にとった貝殻をひっくり返したり、あちこち眺めながら女学生が問うと、店主は「やれやれだなあ」と腰に手をあてました。
「いいかい、きみ。きみはこう思ってる。薬とは飲むものか、塗るものか、さもなくば注射か何かで身体にいれるものだと。だから薬と言ったら、粉か液体か軟膏みたいなものでないと承知できないんだ。…狭い!狭いよ、きみ!それじゃあきみの世界の果てはもうすぐそこじゃないか!海を渡ることも山を越えることも、ひょっとしたら一本向こうの通りを横切ることだって出来ないよ」
「何が言いたいのかわからない」
「開いてごらん。閉じたままでもきれいだけどね、これはオルゴール貝というんだ」
 今ひとつ上手いこと会話が出来ていないと思いながらも、女学生は促されるままに貝を開いてみました。すると貝殻の中から穏やかで優しげな音が聞こえてきました。
「…なあにこれ。どういう仕組みなの」
 貝殻の中はからっぽで、音を奏でるようなものは何も見当たりませんでした。
「仕組みも何もないさ。そういう貝なんだよ。一説に寄ると、その音色は思い出なんだそうだよ。彼らが生きていた頃の。貝殻を閉じておくと、彼らの記憶がその中に蘇ってきて、開いたときに外へ流れ出すんだ。ああ、なんて美しい音だろうね。きっとこの子は優しい、思いやりのある子だったんだ。いろんなことを真っ直ぐに柔らかく受け止められる心根の持ち主だ。ちょっぴり切ないのは慕情かな」
 ふたりはしばらく聴いていましたが、やがてその音色は引き潮のように止みました。女学生はオルゴール貝を手にしたまましばらくぼんやりしていましたが、はっと我に返るとやや乱暴に貝を閉じて店主に突っ返しました。
「こんな気味の悪いもの、いらない。わけのわからないものを売りつけて、お金を巻き上げようなんて、ひどい店!」
「どうして気味が悪いんだい」
 可笑しそうに店主は言うので、女学生は眉間の皺を深くしました。
「だってこんな貝があるなんて、聞いたこともないわ」
 すると店主は今度こそ声をあげて笑いました。
「何がおかしいの!」
「だってきみ。きみは今、この貝を見て、その音色を聴いたじゃないか!オルゴール貝の話を聞いたことがあるかないかなんて、どんな意味があるって?百聞は一見に如かず、という言葉があるね。きみは一見よりも、百聞を重んじると言う。ならきみにとって、世の中の噂話はすべて真実で、きみが見ている風景はぜんぶ虚構だって思うのかい」
 女学生は声を荒げました。
「そんなの言葉遊びよ!問題はこの貝じゃないわ、あ、ん、た、が、胡散臭いから!こんな奇天烈な店で、あんたみたいな変人から物を買うなんて、馬鹿げてるって、わたしはそう言ってるの!」
「…ああ。なるほど」
 怒鳴りながら鼻先に人差し指をつきつけると、店主は拍子抜けするほどあっさりと、ぽんと手まで打って納得しました。
「そうかそうか。なるほど。いや、それは気がつかなくてごめんよ。そうか、そうだな。きみから見た僕は奇人で変人だし、この店はとんでもなく珍妙だ!そうだった、そうだった。いやはや、ねえ。うーん、僕が詐欺師でないってことは、いくらでも話して聞かせることが出来るわけだけど…」
「不審人物の自己弁護なんか信じられない」
「だろうと思った!こういうことに関しては、きみは一見のほうを取るわけだよ。難しいね、どうしたらきみに信じてもらえるかな…」
 店主は本気で悩んでいる様子で、顎に手をあてて天井を仰いでいましたが、何気なく言われた言葉に女学生ははっと息を呑まされました。店主が無意識に言っているのか、わかっていて矛盾を指摘したのか、とにかく恥をかかされた思いでした。
「じゃあ、こういうのはどうだい。そのオルゴール貝を、きみに貸してあげる」
 女学生は思わず「ええ?」と顔を歪めました。
「借りてどうしろって言うの」
「うん、だからさ、貸してあげるから、持って行きなさい。そしてそれが気に入ったら、代金を払いにおいで。値段はきみが好きに決めていいよ」
「そんなこと言って、気に入らなかったらどうするのよ」
「それもきみが決めていい。返品しに来ても、捨てても、叩き割っても」
「高価なんじゃなかったの」
「高価とは言ってないさ。ただ貴重なんだ。僕としても、とても大事にしてる。だから、ただであげるとは言わない。貸すだけだよ」
「捨てても割ってもいいなら、貰ったのと同じでしょ」
「全然違うさ!僕はきみにこれをあげるんじゃない。貸すんだ。ほら、ね。貸してあげる。きみの頭痛薬」
 押し問答の末、貝殻は女学生の手に握らされました。半ば強引に押し付けられたそれを女学生は渋々借り受けることになりました。
「今度頭が痛くなったら、その音色を聴いてごらん。きっと楽になるから。頭痛がしなくたって、いつでも聴いていいんだよ。何度聴いても鳴らなくなったりしないから心配しないで。その貝だって、聴いてもらったほうが嬉しいんだ。そのうちきみの頭痛は治るはずだよ」
「…嘘みたいな話」
「うん、そう思うなら、まずは嘘かどうか試してみたらいい。ふふふ、治らなかったら僕をひっぱたきに来てもいいよ。…そうだ、じゃあ、きみに名前をあげないとね」
 急に脈絡のないことを言われたので、女学生は「名前?」と訝しげに尋ねました。
「よし決めた!僕はきみを、フュラニと呼ぼう」
「………あらそう。それはカルセラド語?」
 女学生はもう半分どうでもよくなって、投げ遣りに言いました。
「いいや、グリスナル・エールの古語だよ。ちょっと難しいけど、ちゃんと発音するととてもきれいだ。ちなみにカルセラドじゃなく、カルサラド」
「で、わたしがヒュラニならあんたは何なの」
「フュ、ラ、ニ、だよ。僕の名は…またの機会にとっておこう。その方が楽しい。でも店の名前は忘れないで。『雨の水曜日堂』だよ。姉妹店が多いから間違えないでね」
「あっそう!じゃあね、今度こそさようなら!」
 たった今フュラニと呼ばれることが決まった女学生は、辟易したとばかりに扉の取っ手に手を掛けました。
「うん、またね、僕のフュラニ」
「誰が!」
 勢いよく飛び出して乱暴に扉を閉めると、入ったときと同じように、盛大にカランコロンカーンと鳴っているのが後ろで聞こえました。にこにこと笑って手を振る店主の姿が、見てもいないのに頭に浮かんできて、とても腹が立ちました。
 そうしてフュラニはずんずんと大股で表通りを歩きました。その頭の中は、結局借りてきてしまったオルゴール貝のことや、おかしな時計のことや、ハウゼリン(正しくはハウリゼンですが)とかいう作家のことや、几帳面な人の住むオスロニーのこと、そして何よりあの変人の店主のことでいっぱいでした。あんな店に姉妹店が沢山あってたまるものか、商売が成り立っているとはとても思えない、そもそも結局のところ何屋だったのか、彼は何歳なのか、ふふふと笑うのは癖なのか、高尚なのか馬鹿なのか、何故名前を教えてくれなかったのか、そう言えば頭痛薬が欲しかったことをどうやって知ったのか、看板の猫と煙草はいったい何だったのか、家族はいるのか、友達は、恋人は、…、…、…。そして突然あっと顔を上げて、悔しそうに叫びました。
「傘を忘れたわ!」
 いつの間にか晴れていた空は、そう言えばあの店主の瞳と同じ色をしていました。立ち寄るはずだった薬局への分かれ道は、もう通り過ぎていました。



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2007.06.11 公開