雨の水曜日堂 2



「やあ!来ると思っていたよ」
 ようこそフュラニ、と、カウンタに凭れた青年が笑いました。
「良かった、間違えなかったみたいだね!『夜の屋根裏堂』とか、『金の風切り羽根堂』と間違えたらどうしようかと思って、すこしはらはらしていたんだ。ああ、無論、一番厄介なのは『碧の硝子堂』なんだけど。ところでオルゴール貝は気に入ったんだね、こうして来てくれたわけだから。ああ、嬉しいなあ。こうなると思っていたよ。いや、本当さ。ああ、待って、いま、お茶を淹れようね」
 相変わらず冴えない風貌の店主は、お客の話も聞こうとせずに捲くし立てるだけ捲くし立てて、いそいそとカーテンの向こうに消えました。フュラニ、と呼ばれたお客は、渋いような苦いような顔をしましたが、短く溜め息をつくと、きょろきょろと辺りを見回しました。座れるところがないかと探しているのでしたが、十日と何日か前に始めて此処へ来たときと同じく、椅子にも卓にもどっさりと物が山積みで、とても腰掛けられそうにありませんでした。
「お待たせ。ああ、いい香りだ!トロシュ産のメリンの花茶に、ギスリンの雫をすこうしね。うん、やっぱりこの組み合わせが最高だ。メリンにはカラルの露だって言う人もいるけれどね、僕は断然ギスリンだよ。この、ちょっと癖のあるのがいいんだ。カラルはなんと言うか、悪くないけれども、平凡だからね。特にトロシュ産のメリンには、カラルではねえ、負けると思うなあ。ギスリンは主張が強すぎるっていうのがカラル派の言い分なわけだけれど、メリンとギスリンは決してぶつからないから。互いの個性をより引き立たせる、この上ない取り合わせだよ。ああ、椅子がいるね」
 見慣れない柄の入った茶器らしいものを盆に載せて戻ってきた店主は、メリンの花茶とやらについて一頻り講釈を打ってから、ようやくそれをカウンタに置き、フュラニの為に裏のほうから脚の長い椅子を出してきました。上機嫌で、饒舌でした。
「はい、どうぞ。召し上がれ」
「…ありがとう」
 お客の、今日この店に入ってから初めての言葉がそれでした。脚長の椅子に腰掛け、膝の上に鞄を置きました。カウンタを挟んで店主と向き合い、差し出された茶器を覗き込みました。普段ティーセットと呼んでいるものと、びっくりするほど形が違うわけでもないのに、やはり茶器という言い方がしっくりくる器の中でほやほやと穏やかな湯気を立てているのは、薄っすらと青みがかったきれいな緑色の茶で、まるで南の海を切り取って注いだようでした(温かいのが違和感のもとでしたが)。
「………美味しい」
 それはやんわりとした香りで、遅れてほんのりと、今までに味わったことのないすこし変わった甘みがきて、最後に爽やかさが残りすうっと抜けていきました。
「こんなお茶は、はじめて」
「だろうとも」
 店主はこともなげに答えて、自分もひとくち、お茶を味わいました。「ああ、上手く入っていてよかった」 女学生はそのまま黙って、もう何口かお茶をご馳走になりました。実は言いたいことや聞きたいことが山ほどあって、ここへ辿り着くまでに些細な言い回しまで完璧に質問を練り上げてあったのでしたが、頭の中で散々言ってみたそれらは、いざとなるとなかなか口から出てきませんでした。
「頭痛はどうなったんだい」
 そのうちに店主から話題をつくってくれたので、お客の方は内心安堵しましたが、それに反してつっけんどんな物言いをしました。
「治りましたけど。お蔭様、かどうかは、わからないんですからね」
「ふふふ、はいはい。で、オルゴール貝はどうしたの」
「ここにあるわ。叩き割ったりしてませんから、どうぞご安心召されまし!」
 鞄から件の薄桃色の貝を取り出すと、カウンタの上に置いて見せました。店主から手渡されたときのままの、美しい貝がそこにありました。
「あれから聴いてみたかい」
「………まあ、聴いたけど」
「今日は、返品に来たのかな。それとも代金を払いに」
 女学生は逡巡しました。躊躇って、口ごもって、結局お茶を飲みました。
「うん、やっぱりその様子では、僕の解釈だと、買い取りに来てくれたようだけれど。もしかして値段について迷っているのかな。好きに決めていいと言ったのに」
「だから迷うんでしょう!貴重なものだと言っていたじゃないの。第一、相場がわからないんじゃ、値のつけようがないわ」
「ほら、まただ!きみはそうやって、右へ倣えしたがる!いいかい、あのねえ、この場合、売り手は僕だよ。きみの好きにしていいと言っているんだ、この僕が。なら何も迷うことないじゃないか。高くたって安くたって誰も、何も困らないんだから」 そうは言っても、と、まだお客はまごまごしました。
「じゃあ、あなたがこれを手に入れた時は、いくらで仕入れたの」
「うーん…まあ。これくらいかな。読めるかい」
 店主が算盤で示した額を見て、お客は思わず咽そうになりました。
「じょ、冗談じゃないわ!そんなの払えっこない!高価じゃないって言ったくせに」
「だから、それは関係ないと言っているのになあ。分からず屋さんだね、フュラニは」
 慌てるフュラニを見て、店主は暢気に笑いましたが、本人は口を引き結んで考え込んでしまいました。それを微笑ましげに眺めながらしばらく優雅にお茶を飲んでいましたが、随分長いこと悩んでいるので、終いには苦笑して言いました。
「じゃあ、いま、きみのお財布に入っている硬貨を全部貰おう。それでいいよ」
「そんなのって!」
「駄目なのかい?聞き訳がないなあ」
 女学生はもう、先ほど目にした金額にすっかり囚われていました。
「ならどうする。返品するの」
「えっ、そ、それも嫌だ…」
 この十日と何日かで、女学生はオルゴール貝をすっかり気に入っていました。貝から流れる音色は穏やかで、美しくて、ひとりの少女に手放したくないと思わせるには充分すぎるほど魅力的でした。それに店主の言ったとおり、繰り返し聞いていると、いつの間にか嫌な頭痛のことなんか思い出しもしなくなったのでした。
「ああもう!わかった、じゃあこうしよう。とりあえず今日は、さっき言ったとおり、持ち合わせの硬貨だけ貰っておこう。そして、残りの分として…きみをこの店に置こうか。どうだい。ちなみに、なかなかの名案だと僕は思う」
 目を瞬かせて女学生は店主を見ました。
「このお店、手伝いがいるほど流行ってるの?」
「失礼だなあ。最初に言ったはずだよ、その筋ではどうしてなかなか、評判が良いんだって。手伝いくらい、いくらでもあるけど。きみがやってくれると言うんならね。さあどうする」
「………わかったわ」
「決まりだ!じゃあ、お祝いに乾杯しよう」
 店主はメリンの花茶をそれぞれにもう一杯注いで、笑いました。促されるままに器を合わせて、南の海のようなそれを一口飲みました。さっきよりもやや冷めて飲みやすくなっていたので、女学生はそれをごくごくと飲み干しました。が、
「よし!誓いの杯も交わしたことだし、これで晴れてきみは僕のものだ!」
なんだかとんでもないことを急に言い出した店主に、今度こそ本当に咽て、フュラニはカウンタに身を乗り出しました。
「─な、なにをっ、ごほ、っからない、ごほん!─ううん!…何をわけのわからないことを、言い出すのよ!誓いの杯って、ただお茶を飲んだだけじゃないの!それにわたしは此処の手伝いをするって言っただけで、あんたの─…その、花嫁か何かになるって言ったんじゃないのよ!」「落ち着きなさい。ほら、顔が真っ赤じゃないか。知らないのかい、花茶で乾杯は誓いの証だよ。シェブロップでは子どもでも知ってる。それに僕はこの店の主人で、きみは売り物になったんだから、やっぱり主人のもので間違いないじゃないか」
「全然違…!」
 違う、と言いかけて、彼女はなんだか不穏な言葉に気がつきました(この際、シェブロップという謎の単語については聞き流しました)。
「ちょっと待って。今、なんて言ったの。わたしはここで、手伝いをするのでしょう?雇われたのでしょう?」
「うん?何を言っているんだい。たったいま、君はこの『雨の水曜日堂』の目玉商品になったのさ」
「手伝いだと言ったわ!」
「フュラニ…、話をちゃんと聞いていなかったね?僕はきみを、店に置くと言ったんだよ。手伝いは、きみが手伝うと言うならあるにはある、と言っただけさ。なあんだ、勘違いしていたのか。でも残念だ、もう誓っちゃったしね」
 悪びれもせず店主は笑いました。その手にはいつの間にか一枚の書面がありました。良く見るとそれには、契約書、とあって、一番下に紛れもない彼女の筆跡で、その名の署名がありました。フュラニは面食らいました。その字には見覚えがありました。この十日と何日かの間、勉強をしながら一度だけ隅っこにフュラニ、と書いてみたことがありました。契約書の署名は、間違いなくその時の字なのでした。
「どういうことなの!」
 立ち上がって叫びました。「おかしいわ!こんなの、まともじゃない!」
「ふふふ。なんだい、今更。最初に来たときにきみ、言ってたっけ。胡散臭くて、奇天烈で、あと、変人だったかな。まともじゃないってわかっていて、もう一度来たのはきみじゃないか」
「詐欺師じゃないって言ったのは、あんたよ!」
「うん。詐欺師じゃないよ。僕はただの嘘つきな魔法使いだもの」
 にっこりと笑顔で言われ、フュラニはぽかんとしました。カウンタに手をついて、店主に食って掛かった格好のまま呆気に取られましたが、そのうち沸々と怒りがわいてきて、ばんとカウンタを叩きました。
「魔法使いですって!それこそ詐欺じゃないの。信じられない!」
「でもきみが信じようと信じまいと、ここにきみの署名はあるわけだし」
「どんな手品を使ったのよ!」
 その顔はますます真っ赤になっていました。どんな手段で店主が自分の署名を手に入れたのかも気になりましたが、フュラニの名を密かに綴っていたことが知れているのかと思うと、恥ずかしさの方が勝りました。
「ああ、もう!わかった、わかったよ。なら、賭けをしようか。きみが手品の種を見つけられたら、この話は無効にしてあげる。オルゴール貝も僕の奢りで、契約書も燃やしてしまおう。それまできみは、好きなときに好きなだけ、ここにおいで。そうだな…そして十回目の水曜日が来るか、きみが僕は魔法使いだと認めるかしたら、そのとききみは僕のもの。それでどう?…ちなみに、勿論、断ったっていいんだよ。きみにはその自由がある。だって最初から勝敗の見えている賭けだからね。手品に賭けたきみが負けるに決まってる。何故なら僕は、本物の魔法使い。さあ、どうする!もっとも、この賭けを降りるって言うなら、僕が本物だと認めたことになるけどねえ」
 店主はカウンタに肘を着いて指を組み、そこに顎を乗っけました。顔に浮かんでいるのは、不敵な笑みというよりも、ちょっと小ばかにしたような、揶揄するような、そんな笑みでした。フュラニは思わずむっとして、「勝ったらオルゴール貝をただでくれるのね?本当でしょうね」ともう一度確認しました。店主は、その通り、と頷きました。
「なるほど、今度こそ決まりだね」
 店主は満足そうに頷きました。
「ああ、十回目の水曜日が楽しみだなあ」
「あんたがこんな人でなしだったなんて!」
「ふふふ、人でなし、か。魔法使いを人でないと言う人もいるね。そういう意味ではあながち外れてもいないかな」
 もう一杯、とか何とか言いながら、店主は茶器を手に一旦カウンタの奥に引っ込みました。フュラニはむうとした顔をして、ちょうど足の届くところにある物が満載の小卓を蹴っ飛ばしてやろうか、さぞかし大変なことになるだろうなどと物騒なことなど考えていましたが、突然あっと声を上げました。
「そうよ、名前!名前を聞いてない!」
「うん?」
 もう一度お茶を注ぎながら、店主はきょとんとした顔をしました。
「あなたの名前よ!この前、今度って言ったじゃない」
「うーん、そうだったっけ。言ったような、言ってないような」
「何よ、教えないなら、名無しって呼ぶんだから」
「わかった、わかった。ふふふ、じゃあ言うよ。…僕の名はナナシ。ナナシさん、で良いよ」
 呆気にとられたフュラニが我に返り憤慨して異議を申し立てるより早く、ナナシは「やあしまった、ギスリンの雫を忘れていたよ!」と半分笑いながら、またカウンタの奥に引っ込んだものだから、飛び出したらさぞかし威勢の良いだろう言葉は行き場を失って、開けっ放しになった彼女の口にはりついていました。
 そうしてフュラニは二月と半分ばかりの時間をかけて、雨の水曜日堂店主「魔法使いのナナシさん」と賭けをすることになったのでした。



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2007.08.09 公開