雨の水曜日堂 6



 自分がすごい速さで飛び出したかのように、あるいは周りの何もかもを冷ましかけの飴にして一気に引っ張ったかのように、びゅうんと景色が流れたのを感じて、フュラニは顔を上げました。
 驚きました。そこはもう、さっきまでの室内ではありませんでした。
「(何、これ!)」
 フュラニが平衡感覚を取り戻すと、そこは朴訥とした田舎道の真ん中でした。と言っても、そもそも端とか真ん中とか区別する必要もなさそうな、ちょっと轍の跡があるくらいの道でしたが。
 道の両側はだだっ広い野っ原で、やや背の高い青草が生い茂り、吹き抜ける風が足跡を残していきました。遠く向こうは連なる山なみが地平線を塞いでいました。
「懐かしい」
 口に出してから、あれっと思いました。どうして懐かしいなんて思ったのか、まったく心当たりがありませんでした。
「ああ、美しい。此処はちっとも変わっていない」
 またしても、あれあれっと思いました。自分の言葉の意味が自分でわかりませんでした。
 怪訝に思っているうちに、なんとなく自然に歩きだしました。道の先に目をやると、ちいさな一軒家が見えました。
 と、次の瞬間、まさに瞬き一度の間に、遠くに見えたはずの一軒家の入り口前に立っていました。板造りの古めかしい粗末な家で、表札はありませんでした。
 フュラニは扉を見つめながら、帰ってきた、と、思いました。そっと把手を取り引っ張ってみたけれど開かず、もう一度強く引いてみました。それでも開かないので、ちょっぴりむきになってがたがたと両手で揺さ振ってみたら、ばきっ、がこん、と音を立てて蝶番が壊れ、戸板が外れてしまいました。
「仕方のないおんぼろめ」
 これはいよいよおかしい、と、フュラニは思いました。今のはどう考えたって、自分の台詞ではなかったのでした。
 台詞?……台詞か!ははあ、さてはそういうことね!
 フュラニは内心で、うんうんと頷きました。
 つまり、今、「悩める音楽の肖像」を、読んでいるんだ!
 下側の蝶番で辛うじて繋がっているだけになってしまった戸板をなんとかかんとか引きずり開けて中に入ると―――。

「妙にきれいだ。どういうわけだ」
 整然と片付いた部屋は私がこの家を後にしたあの時そのままであった。……いや、そのままではない。逆である。埃の膜を被るでもなく、蜘蛛の巣が張るでもなく、まるで一晩留守にしていただけのような顔で、家は再び私を迎え入れている。こんなことはおかしいのだ。
 然程大きいでもない手荷物を無造作に置き、更に部屋を検分する。

 ───フュラニは今までずっと手荷物を持っていたことに、今気がつきました。

 粗末な台所の片隅では、なんと洗った皿が乾かしてあった。手にとって、ためつすがめつ眺めてみる。しかし、もっと驚いたことには、鍋の中にスープが残っているではないか。掬って匂いを嗅いでみたが、腐っている様子はない。どころか、良い具合に野菜が煮崩れて、非常に旨そうである。意を決して一口啜ってみた。なんということだ。これは私の味付けだ。間違いようがない。
「いったい何なのだ、これは!私は5年もここへ帰らなかったんだぞ!」
 思わず大きな声を出してしまった。はっと我に返るが、こんなところにぽつんと立つ一軒家でのこと、先日までの都会暮らしのように、敏感になることはない。第一、少しばかり張り上げたところで、低いばかりで通りにくいこの声のことだ、さしたる害もなかろう。

 ───そう言えば、この声は自分の声じゃあなかったな。そのことも、ここへきて漸く意識しました。
 と、そのとき、壊れて開きっぱなしになっていた扉から、ひらりと何かが部屋に入り込みました。気配を感じて振り返ってみると、一匹の黒猫が───。
「えっ?わあっ!」
 猫がいた、と思うか思わないくらいのとき、どういうわけか目の焦点が合わなくなって、すべての輪郭が、ゆらっと二重にぶれました。と、抜群の跳躍力で、黒色のそれが飛び掛ってきました。驚いて思わず仰け反って、そのまま勢いよく後ろにひっくり返りました。
「痛あ!ちょっと、きみ、私は鼠じゃないんだからあ……」
 横に転がって四つん這いになり、お尻と腰からジンと響いた痛みをやり過ごしつつ文句を言ったら、
「見ればわかるわよ。ふん、馬鹿な小娘!」
 思いもよらず返事がありました。ハッとして顔を上げると、つんと澄ました黒猫が、見覚えのあるものを銜えていました。
「ああっ!ちょっと、それ、わたしの!」
 それは手放したら大変なことになると念を押された例の栞でした。
「そうよ。あんたの大事な栞。それがどうかした?」
「どうもこうも、失くしちゃ駄目って言われてるの!」
「知ってるわよ、だ・か・ら・盗ったんじゃないの!あ〜いやだ、おばかさんねえ。悔しかったら取り返してごらん!この、むちゃごらけ!」
「はあっ?」
 言葉の意味はまったく謎だけれど、どう考えても悪口としか思えないそれを捨て台詞に、黒猫は素晴らしい俊足で逃げていってしまいました。
 フュラニは一瞬呆気に取られましたが、そうそうぼんやりしているわけにいきませんでした。
「あ!ま、待って!」
 猫を追いかけ表へ出ようとして、壊れた扉越しに外を見ると、そこには何故か、さっきまでの風景とは似ても似つかない、
「……お花畑?…───えっあっわ、わああっ!」
 色とりどりの花、花、花が咲き乱れていました。
 そして、暢気に綺麗だなと思ったのも束の間、地震のようにがたがたっと床が揺れたかと思うと、たった今まで周りを囲んでいたはずの壁が、屋根が、組み立て式の玩具の部品のようにばらばらに吹き飛び、ばねで跳ね上げたかという調子で一気に宙に投げ出されました!
 フュラニは、ぽーんと宙に舞って、何が何だかわからないまま、落っこちました。どうやら空中ででんぐりがえって、何か柔らかくて安定の悪いものの上にどさっと着地したようでした(勿論、きれいに足からとはいきませんでした)。
「あっ?」
 どうもお尻の下がむずむずすると思って見回すと、柔らかいものの正体は、さっき見た花々でした。地面がなくなって、代わりに色も形も様々な花が犇めき合い、絡み合って絨毯になり、その茎がぐんぐんにょきにょき凄い速さで伸びて、フュラニを上へ上へ運んでいました。
「な、何これ」
 花はとにかく眼に入るだけずっと、地平線まで続いていて、絨毯を波打たせながら、とにかく競いあって伸び続けていました。美しいと言えば美しいけれど、気持ちが悪いといえば気持ちが悪い光景でした。
「あっ!猫!こらあ!」
 なす術もなくおろおろして、このまま伸び続けたら空を越えて宇宙へ届いてしまうかも、と、ちょっぴり心配し始めた頃、果てしない花の波の中、花びらの飛沫をあげて黒色が跳ねているのを見つけました。フュラニは立ち上がって走ろうとしましたが、こう地面が波打っているのでは全くままならず、赤ん坊の這い這いと同じ要領で進むしかありませんでした。
 一方、腹の立つことに猫のほうは全く軽快で、波に飛び込んでは飛び出し、飛び出してはまた飛び込むという調子は、飛び魚と兎を足したような小気味良さでした。時折宙返りまで見せる余裕振りで右へ左へ、時にはとんぼをきって後退して見せるなど、明らかにフュラニをからかっているのでした。
「猫ー!栞を取り返したら、ひどいんだからね!」
 悔し紛れに思い切り声を張り上げたフュラニは、おや、そう言えばいつ自分の声に戻ったっけ、と、ふと気を逸らしました。
 ───途端!
「う、あ、あああー……!」
 さっきまで地面だと思っていた花の絨毯が、ぐいっと90度回転して、聳え立つ壁になってしまいました!
 上と思っていたのが横になり、前と思っていたのが下になり、つまり、フュラニは果てしない落下を始めてしまったのでした。
 猫も一緒に落ちているらしく、自分より下に小さな黒色が見えました。
「───…!」
 最初こそ悲鳴をあげたものの、落っこちていくと胃が捩れるように気持ち悪くて、声なんかすぐに出なくなりました。猫に文句を言うとか、誰かに助けを求めるとか、なんとかしたいのに、口だけ開いているもののどうにもなりませんでした。
 そうこうしているうちに、右手の遠くにぽつり、ぽつりと影が見えて、ぐんぐん近づいてきました。
 鳥だ!
 それは特大の燕のような鳥でした。
 次の瞬間、先頭の一羽がびゅうっと横切るとき、小さく見える黒猫は、何でもないようにその背中に着地して、得意げにこっちを見ながら遠ざかっていきました。
 それを横目で見て「ずるい!」と心の中で叫んだフュラニは、あっという間にちょうど良い(悪い)高さに差し掛かり、真横からやってくる巨鳥の群れに突っ込みました。
 視界が黒い羽だらけになり、あちこちぶつかって揉みくちゃになりました。そうなりながらも、手当たり次第しがみつこうと頑張ってみましたが、跳ね返り跳ね返り、あっという間にぽいっと群れから吐き出されてしまいました。
 また果てしなく落ちていってしまう!───そう思ったのも束の間、今度は背中が突然何かにぶつかって、トランポリンさながら、ぽーんと跳ね返りました。
「わ!わ!わ!」
 手を振り回し、向きを変えながら、ぽん、ぽよんと何度か弾んで、やっと落ち着いてみると、またしても何かの上に乗っかっているようでした。しかし、どう考えても何かの上に乗っかっているとしか思えないのに、その何かが全く目に映りませんでした。空中にいきなり座る格好になっていて、はるかに続く下方がまる見えでした。
「こ、今度は何?」
 フュラニは、ぶよっとした目に見えない何か、を、ぐにぐに突っついて確かめながら、慎重に身体を起こしました。ぶよぶよはどうも、柔らかいだけでなく、表面が濡れているような感触で、ちょっぴり気持ちが悪いのでした。
 しかも、浮いているには浮いているものの、だんだん下がっていっている気がして、大丈夫なのかと心配になりました。
「この際、何でもいいけど、落っこちないでね……」
 ───と、
「ひゃあっ!」
 ゆっくり下がっていっていたものが、急に、ふよっふよっふよっ、と、小刻みに上昇しました。
「わ、と、あ、わっ」
 突然のことに思わず青ざめ、両手を広げてバランスを取ったフュラニは、
「こんにちは」
「ひっ!」
 いきなり後ろから声をかけられて更に驚きました。
 冷や汗をかきながら体勢を整えて、振り返ってみると、フュラニより十近くは年嵩に見える女性が、ぷかんと宙に浮かんでいました。
「まあなんて可愛いレディかしらでもあなたお困りのようですのね!」
 女性は、まさに貴婦人といったいでたちで、豪奢なドレスに日傘を差していました。しかし外見に似合わず、喋り方は妙に早口で、ちょっと聞き取りづらいくらいでした。立ち姿のまま、ふよっふよっふよっ、と、どこかで見たことのある気がするリズムで小さな上下を繰り返しながら、フュラニの方へ寄ってきました。
「珍しげにしてらっしゃるわ空くらげは初めてですの?」
「そ、空くらげ?」
 と、いかにも素っ頓狂な声で聞き返すと、
「それですわ今あなたがお乗りのそれ!」
 フュラニの座る下を指差しました。
「それと言われても……ぎゃっ!……あ、あれ?」
 フュラニが思わず可愛げのない悲鳴を上げてしまったのは、ちょうどそのタイミングで、自分の乗っかっている何かが、またしても、ふよっ、と上昇したからでした。と、真っ透明で何もないように見えていたお尻の下が、何か、つやっと輝いた気がしました。不思議に思ってよくよく目を凝らすと、急に、
「く、くらげ!」
 フュラニも図鑑や何かで知っている、海の生き物としておなじみのくらげが(しかもビーチパラソルを広げたくらい大きなくらげが)見えました。巨大燕の次は巨大くらげが、フュラニと貴婦人の乗っている二匹だけでなく、そこらじゅうに、大小さまざま、大量に浮遊しているのでした。
「ですからたった今そう申し上げましたでしょほほほほ!」
 早口な貴婦人は楽しそうに笑いました。
 浮いていると思ったその女性も、本人が浮いているのではなく、くらげが浮いていて、それに乗っているのでした。
「くらげちゃんたちは喋りこそしませんけれどお利口さんでよく言うことを聞きますのよ可愛いでしょうところで貴女このような場所で何をしていらしたの?」
 話している間にも、くらげは、ふよっふよっふよっ、と、時々動いていました。
「ええ、まあ、可愛いといえば可愛いくないこともない気がしなくもないような……ああ、そうでした!わたし、猫を追いかけていて」
「まあ猫を猫ってあの猫ですわね耳が二つ足は四本尻尾は一本で生きている動物の!」
「そ、そうです、その猫です。わたしの栞を奪っていっちゃって」
「あらそれは大変ですこと一大事ですこと!」
 貴婦人は目を丸くしました。
「でその猫とやらは今どちらに?」
 フュラニはハッとして、先ほど鳥たちが飛び去った方を見ましたが、空の青のほかに見えるものは何もありませんでした。
「ど、どうしよう!見失いました!」
「まあまあまあそうなの残念ねでも落ち込まないで頂戴良いことを思いつきましたわ素敵なことを思いついてしまいましたわ私が貴女を助けて差し上げましょうね小さなレディ!」
 貴婦人は悪戯な顔で笑うと、さっと日傘をつぼめて両手で持ちました。
「さあくらげちゃん!……失礼」
「はい?」
 ふよっふよっふよっ、と空くらげを操って後ろへ回ったかと思うと、
「くらげちゃんたちは可愛いけれど動きの遅いのが難点ですわわたくしも常日頃もっと今の二十六倍くらいの速さで動いてくれないものかと思っておりましてよたまに靴の踵で突いてやりますのですからくらげちゃんにそのまま乗っていっても追いつけませんわそれでつまりこれが今カバンズの貴族界で流行の競技ですの───そうれ!」
 いきなり傘を振りかぶって、フュラニの乗っている空くらげを思い切り打ちました。
「えっ?わああっ!」
 空くらげはフュラニをへばりつけて、物凄い速さで回転しながら飛んでいきました。
「いってらっしゃいまし!……すこし狙いがずれたかしらまあ嫌だわ次はもう少し腕を上げておきますわ!」
 早口貴婦人がそう言って手を振ったことなんか、フュラニには知る由も在りませんでした。



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2011.01.14 公開