雨の水曜日堂 5
「………すみません」
「いいえ」
フュラニに出来ることと言ったら、とりあえず謝ってしまうことだけでした。
何故といって、急な眩暈をやり過ごしたと思ったら、突然がくんと椅子から落っこちて、その落っこちた先には更に椅子があって、幸か不幸かその椅子には先客がいたのだから、謝る以外どうにも出来ませんでした。
「あの、すまないついでにちょっと……降ろして頂けますか」
「はい、お安い御用です」
フュラニは今、仰向けに身動き取れなくなっていました。想像するに、自分はどういうわけか、椅子に座るこの眼鏡の青年の上に(本当にどういうわけか)降ってきてしまって、それでもお尻が痛んだりしないのは青年が絶妙に受け止めてくれたからで、そんなこんなで椅子の上で抱っこされたような格好になっているのでした。しかも、口の中に飴玉が入っているせいで、お願いする言葉もちょっぴりおかしな発音になっていて、フュラニにしてみれば恥ずかしさはたっぷり大盛りといったところでした。
その人は「はーい、どうぞ」とのんびりした間で小さく言いながら、そっと立たせてくれました。
「重ね重ね、どうも」
「いえ。どうぞお気になさらず」
ほんわかと、いかにも害のない笑顔で笑う眼鏡の奥その表情には、ナナシとはまたすこし違った無邪気さがありました。
「ええと、もしかして、薬屋さんですか」
フュラニは飴玉を口の中で片側に押しやって、おずおずと尋ねました。
その場所は、普通に考えればどう考えても本屋か図書室か、という場所でした。同じ棚だらけでも雨の水曜日堂とは大違いで、すべての棚に整然と本が並んでおり、居間と書斎を合わせたような部屋でした。ちょっとしたところに、硝子の兎や一輪挿しなどのちょっとしたものが飾ってあるので、ちょっとおしゃれな事務所のようにも思えました。ただ、今までの経験から考えて、単なる本屋とはとても思えませんでした。
「ご存知でしたか。そう言うあなたは、雨の水曜日堂からいらしたようですね?」
「どうして知っているんですか!まさか、ナナシさんが言いふらしてるんじゃあ……」
ナナシとキーノのやり取りを思い出して、あんな調子で触れて回られたらたまったものではないと、フュラニはちょっと慌てました。
「いえいえ、そうではなく。甘い香りがします。エランベリ味を召し上がっているようなので」
「……?あ、こ、これは」
エランベリとは何だろうと思いましたが、味と言われれば心当たりはひとつしかなく、思わず片頬を膨らませていた飴玉を口の真ん中に戻しました。変な顔になっているのではと気にしたのでした。
「その味は、雨の水曜日堂から夜の屋根裏堂、表口へ直通ですから」
「……魔法ですか」
「ですよ。本当によくご存知ですね。どうぞ、折角いらしたんですから、ゆっくりしていってください。帰りはココロン味を召し上がればいいだけの話ですけれど、どのみちエランベリ味を食べ終えるまではお帰りになれませんからね」
フュラニはその言葉に甘えてすこしの間、お邪魔することにしました。唐突の出会いももう三度目、だいぶ腹が据わってきたのでした(ちなみに、横へやれば頬が膨らんでしまい真ん中にすれば喋りに難の出る飴玉についても、この際、もう、諦めることにしました)。
店主は「さあ、私もすこし休憩にしましょうっと!」と、開いたまま置いてあった本をぱたんと閉じてから、改めて向き直りました。青年の雰囲気が、あんまりのんびりして柔らかいので、フュラニはちょっぴり可愛いと思ってしまいました。
可愛いと思ったのは、見た目からも大きく影響を受けていました。というのも、この店主は、ふわふわと波打つ茶色い癖っ毛をしていて、白いシャツに小花柄のベスト、きれいに折り目のついた細身のズボンという服装でした。ベストは落ち着いたベージュ色の地に、桃色や水色や黄色の小さな花が葉っぱと一緒に散らされて、シャツの襟や袖口には、よく見ると、小鳥の繰り返し模様の刺繍があしらわれていました。まるで可愛らしいお人形さんの男の子のような服装でしたが、やや長めの髪、眼鏡、何より本人の雰囲気と相まって、不思議と似合っていました。
「そうですねえ。暇つぶしは沢山ありますよ。レース編みや刺繍はお好きですか?」
店主が引き出しを開けると、そこには糸や編み棒や小さい布切れなどが、こまこまと入れられていました。フュラニは思わず目を輝かせて覗き込みました。
「わあ……いえ、でも、わたし、不器用で。そういう細かいの、苦手なんです。可愛いとは思うけど」
「そうでしたか!うんうん、でも、そうですよねえ、自分でやるのは面倒かも知れませんけど、可愛いですよねえ。私、レースとか、フリルとか、大好き」
「へえ……あっ、わたし、この前、金の風切り羽根堂で、とっても可愛いの、着せてもらいましたよ」
「わあ、どんなのです?」
「あのね、薄い青色で……」
フュラニはすっかり女の子の友人とでも話している調子で、盛り上がってしまいました。飴玉を頬の横っちょへ追いやって、身振りを交えながらドレスのことや空中庭園のことを話しました。
「ああ、嬉しいな!いえね、こういう話をしたくても、水曜日堂はさっぱりだし。金の風切り羽根堂の店主と話をしても、彼は可愛いドレスより、可愛いドレスを着た可愛い子が好きなんですよ!なんというか、価値観の相違ですよねえ。きれいな服を見ても、どんな子に着せたいとか、こういう子に似合うだろうとか、そんなことばっかり。私は純粋に、可愛いものが好きなのに」
「へえ。確かに、そんな感じしました。でも、それより、可愛いものが好きなら、あなたももっと可愛くしちゃえばいいのに」
青年は、えっ、と、目を瞬きました。
「もっと、レースとか、フリルとか、リボンとか、沢山ついたのを着ればいいじゃないですか。淡いピンク色なんか似合うと思います」
「そうかな」
「そうですよ」
「似合うと思う?」
「はい」
店主はちょっぴり身体を縮めて眼鏡を直してから、そっと引き出しを閉めて、はにかみました。その仕草は何とも少女的で、見ているフュラニも一緒に頬が赤くなりそうでした。
「ありがとう。他にもね、ほら、これは押し花でしょ。これはお菓子のレシピ。これは、いろんな小さい瓶と、いろんな蝋燭。いろんな判子。あと、いろんなお菓子の缶。あっ、あのお花は、これで作るの」
店主は次々に引き出しを開けて、趣味で集めている小物を見せてくれました(最後の引き出しの中身は針金や薄い布、接着剤などで、フュラニはそうと言われるまで、さっき見た一輪挿しの花が造花だと気が付きませんでした)。
「それから……本が、たくさん」
そして最後に、嬉しそうに両手を広げて、壁を埋め尽くす本棚を示しました。
「ねえ、お近づきの記しに、どうです?良かったら、この中から何か選んで差し上げましょうか」
この、とは、勿論、ずらっと並ぶ本たちを指していました。フュラニは思わず「わあ!」と声を上げました。活字を読むのは好きな方だし、それもこれだけの数の中から、自分の好みの書物を選んでもらえるというのは、特別な贈り物をもらうようでわくわくした気持ちになりました。
「色々ありますよ。恋物語は好き?詩集や、画集なんかも」
小説、論文、伝記、旅行記、絵本に、図鑑に、指導書の類に…とあれこれ挙げるのを聞きながら、フュラニは書架の前へ行って、きちんと並んだ本の背表紙たちを、なんとなく眺めました。不思議なことに、題名の書いてある本が一冊もありませんでした。これでは目当ての本など探しようがないように思えましたが、反対にどうやってこの中から一冊を選び取るのか、興味が湧いてきました。そしてそう考えているうちにふと思いついて、
「じゃあ、ハウ…リゼンの、『悩める音楽の肖像』は、ありますか」
と、いつかナナシが言っていた短編集の題名を言ってみました。ナナシが夢の中で出会ったという作家の作品が、本当にあるのかどうか、ちょっぴり気になったのでした。
「『悩める音楽の肖像』ですか!ありますとも、ありますとも。品揃えが自慢ですからね。ハウリゼンといえば『楡の木陰に棲む獣』が人気作で、初めて読むなら『ペンと便箋の憂鬱』が読みやすいんですけれど、初期の短編集まで読む人はなかなかの通ですよ。そこを突いてくるとは意外だったけれど、うん、ちょっと嬉しい」
───あるんだ!
フュラニはどきどきしてきました。
「いえ、あの……他の作品も、読んだことはないんです、すみません。ただ、ナナシさんのお店に、オ…スロニー?…式?の、時計があって、その短編集の中の話に出てくるって言ってたのを思い出したから。それでナナシさん、夢の中で会った作家の書いた小説だなんて言って……」
「なるほど。本当にあるのかどうか、確かめたかったんですね。うん、そういうことなら……恐らくあるでしょうけど、ないと言えばないですし、ちょっと難しいですねえ」
えっ、とフュラニは首を傾げました。
「恐らく、って?何なんですか。さっきはありますって言ったのに」
「ええ、でも可能性としては、ないという可能性も否定できないんですね。だから、あると言い切ってしまうのは憚られます」
(『夢であって、夢でない』)
眼鏡の青年の言いようは、先日、金の風切り羽根堂で、鏡を覗き込んだキーノの言葉を彷彿とさせました。
(なんだかちょっとわかってきたわ)
フュラニは口元に手を当てて、ふむと考えました。
どうも魔法使いというのは、断定することを拒む性質があるらしいのでした。相手に勝手に名前をつけることといい、呼び名を相手につけさせることといい、キーノやこの店主の物の言い方といい、どうも肝心なところをぼやかして、煙に巻いてしまいました。
「ねえ、あなたの名前を教えて」
「どうしました、急に……そうですね、色々呼ばれているもので、あなたにもお好きに呼び名をつけて頂こうかな」
「やっぱり!」
フュラニは肩を怒らせました(言った拍子に飴玉が口から飛び出しそうになったことは、寸でのところで誤魔化しました)。
「もう!なんなのかしら、魔法使いって!ナナシさんも、キーノさんもそうだった!どういうわけで、そうやって何でもかんでも曖昧にしたがるの……魔法使いにはそういう掟でもあるの?それともなあに、組合っていうやつの決まりごと?」
「おっと、これはこれは。本当にあなたはよくご存知。まさか組合のことまでお耳に入っているなんて」
笑って言いながら夜の屋根裏堂の店主は歩いてきて、フュラニの横に並び、書架を見ました。ナナシやキーノと比べると小柄で、フュラニよりすこし背が高いくらいでした。
「ええ……悩める音楽の……」
無地の背表紙を、色白の人差し指で端から辿るようにしながら、たまに行ったり戻ったりして、最後に臙脂色の布張りの一冊に辿り着きました。短編集というからあまり厚くない、小ぶりな本かと思っていたのに、それは見るからにずっしりと分厚くて、読み応えのありそうな本でした。
店主はしばらくその臙脂色の上で人差し指を留めて、やっと、
「───ありました。見つけましたよ」
と、その一冊を棚から引き抜きました。
ほら、と見せられた表紙には金の箔押しで題名らしきものが書かれていましたが、フュラニには読めないどころか、何処の文字かもわかりませんでした。
「それ、何語ですか。中もその文字で書かれているなら、わたし、読めそうにない」
「大丈夫。あなたにも読めますよ、文字なんか些細な問題です。お気になさらずに。では……そうですね、この椅子をお貸ししましょうか。さ、ここに座って」
背中を押されて、最初に店主が掛けていた椅子に座らされました。
「些細じゃないわ。知らない文字を読むなんて」
「大丈夫、大丈夫。で、これが栞です。絶対に失くさないで。大変なことになりますからね」
小さなこどもを脅かすようなやり方で目の前に差し出された栞は、縦長の薄い金属のような板で出来ていて、蔦の飾り枠の中に小鳥の絵が描いてありました。上の真ん中に小さな穴が開いていて、紺色のリボンが通っていました。
「きれいな栞ですけど……これ、くれるんですか?なぜ?大変なことって、なんですか?」
確かに本は分厚いので、一度に読むのは大変そうでしたが、読み始める前から意味深に栞を渡される意図がわかりませんでした。フュラニはちょっぴり警戒しました。
「さあ?突っ返したいなら、どうぞ。でも、返してしまったせいで何が起こっても、私は責任を負えませんし、あなたを大変な目に遭わせるのは忍びないですから、出来れば持っていて頂きたいです」
にこにこと笑う眼鏡の奥の瞳を、フュラニは疑わしげに見つめました。絶対に、何かある。この本を読むと、何かが起きる。そう思いました。
けれど、起きるだろう何かに興味もありました。キーノの店で体験したような不思議なことに、もう一度出会えるのかも知れないと思うと、ちょっぴり心惹かれました。ここで読んでおかなかったら、次の機会が訪れるかどうかわからないし、この青年の何かを仄めかすような言い方が、妙に心を擽ったのでした。
「あの……この栞を失くすと、大変なことが起こるのね?」
「その通りです」
「じゃあ、失くさなければ、大変なことは起こらない?」
「まあ、そういうことになりますか」
フュラニは栞と、謎の文字が躍る表紙とを見比べました。何度か目を往復させて、それからどこともなく目をきょろきょろさせて、結局、僅かに頬を上気させ、
「読みます!」
宣言しました。最後は好奇心が勝ってしまったのでした。怖い思いをするとわかっていて、わざわざお化け屋敷に入るのと同じような気持ちでした。
「ええ、どうぞ」
ごゆっくり、そう続いた夜の屋根裏堂店主の声が、表紙を繰るのと同時に、すうっと遠のきました。
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2009.09.29 公開