雨の水曜日堂 4
「ぎゃあ!」
本人にしてみれば非常に切羽詰った、しかし聞いている方にはどうも間抜けで可愛げのない奇声が上がりました。
そして直後に、
「痛あ!」
「あははは、どじだなあ」
ごちん、という音に、裏返った声と笑い声が続きました。
「わたしはどじじゃない!ナナシさんが引っ張るから……あれっ、な、なあに?──ああそうか、お隣だったの。それにしたって、何もクロゼットの中なんて繋げなくていいのに!」
頭を押さえて蹲ったフュラニが顔を上げると、そこはそろそろ見慣れてしまった雨の水曜日堂の店内でした。
「お隣だって?ふふふ。ならこちら側のクロゼット、は、どこでしょう」
フュラニが床にべったり座り込んでいるというのに、ナナシは何食わぬ顔で肘を着いてカウンタに寄りかかっていました。転がるように倒れこんだフュラニの腕をたった今まで掴んでいたはずなのに、とてもそうは思えないほどすました様子だったので、フュラニは自分ばかり痛い思いをさせられたのかと、ちょっぴりむっとしました。が、言われたことが気になったので、後ろを振り向いてみると、そこにはいつも通り、壁一面、物がいっぱいの棚なのでした。そう言われてみれば最初っからそれが当たり前で、お隣と行き来できるような、出入り口に相当するものなど、どう考えてもあるわけがなかったのでした。
「えっ?どうして?なら今、どこから出て来たの?隣じゃないなら、なんでわたし、お店を間違えたの?どういうこと?路地が一本違ったのかな。でもそれなら今、どうやって帰ってきたのかしら」
「ふふん、フュラニ。僕が何者なのか、忘れてないかなあ」
思わずそこらをぺたぺたと触って確かめているフュラニに向かって、ナナシは得意げな顔で顎をさすってみせましたが、
「ちょっと、表、見てくる」
「ええっ!ま、待ちなさいって、聞いてないの、僕の話?」
言われた方はまるきり無視しました。本当にお隣でないのかどうか外から確かめに行こうとしたフュラニを、慌てたナナシがばたばた追いかけて、両手で肩を掴んでとめました。ばたばたといっても狭くて物が多い店内のことなので、妙におっかなびっくりの、ちょっと滑稽なばたばたでした。
「あのねえ、ちょっと酷くないかい。さっきだって、僕の言ったの無視したでしょう、あいつにはちゃんと返事したのに。そもそもだよ、フュラニは、なに、ああいうのがいいの、あの気障な中年が?だめだよ、騙されちゃあだめだ!絶対後悔するんだからね、ああいうろくでもない男に関わると」
「なあに、その言い方!ひどいのね、ナナシさん。キーノさんはあなたと違ってとても紳士的だったし、あなたみたいに野暮ったくなかったし、あなたに比べたらずっと、ずうっとまともでした!」
密かに同類だと思っていたことは心の中にそっと伏せておきましたが、それでも「比べればまとも」などと少々失礼なことが口を吐いて出てしまうのはどうにも出来ませんでした。実際、ナナシとの比較でなければ、キーノ店主もどうしてなかなか、充分変人の類でした。つまるところ遠まわしに五十歩百歩であると言っているのでしたが、百歩のナナシが五十歩のキーノを笑うのは間違いであると、その点だけははっきり主張しておきたいフュラニなのでした。
「ああ!フュラニったらどんどん口が悪くなる。かなしいなあ」
「もともとです。お生憎さま」
降参とばかりに両手を挙げたナナシの手から逃れたフュラニは、相変わらず喧しい鈴を鳴らして一旦外へ出、程なく難しい顔で店内に戻ってきました。
「やっぱりお隣じゃないのね。ああ、もう、どうなってるの」
「だから言ったでしょ。それにねえ、不思議に思うべき点は他にもあると思うけど。例えば、フュラニ、君はいつの間に着替えを済ませたんだい」
えっ、とフュラニは下を見ました。そこには馴染んだ制服を着ている自分の身体がありました。
「あれっ。本当だ……わたし、ドレスを着ていたのに、元に戻ってる」
「おかしいなあ?不思議だねえ?どうしてだろうなあ?」
にやにやしながらわざとらしく大袈裟に首を傾げるナナシを、フュラニはちょっと睨みつけました。
「種はまだわからないけど、随分手の込んだ手品で楽しかったわ」
「ああ、あ。そうかい。そいつはよかったよ」
やれやれと肩を竦めて、ナナシはお茶の準備をしに奥へと消えました。
残されたフュラニは店内を改めて見回しながら、金の風切り羽根堂のキーノ店主の言ったことを思い出していました。
(まあ、一言で平たく表現すれば薬屋なんですがね)
薬屋!
「これが薬屋ねえ」
いつもの椅子に腰掛けながら呟きました。
(ええ、まあ、薬にも色々あるわけでしてね。薬は色々あって然るべき、それは良いのですが、)
「色々…」
キーノの言う色々というのは、粉末だとか液体だとか、どうもそういう色々では収まらないようでした。何しろキーノ本人も、薬を処方するといってドレスを着せたのですから。
(あれはどうも、わたしは好みません。なんと言っても店主に華がない。あれでは説得力に欠けます)
「そこは同感」
「何が同感なの」
「華が…えっ、ううん、何でも。…ところで、それ何」
ぼんやりしていてうっかり暴言を吐くところだったフュラニは、慌ててそれを引っ込めて話題を変えようとしました。が、わざわざ頭を捻ることもなく、新しい話題の種は目の前にありました。
「うふふ。びっくりした?今、ローレネスの貴婦人方はこれに夢中でね。手に入れるのに苦労したんだよ」
ナナシが運んできたものをフュラニの前に置くと、まるでカウンタの上に遊園地が乗っかっているように見えました。硝子の管があっちこっち走ったり、滑車のようなものがついていたり、シーソーらしいものがあったり、何をするものなのか謎でした。
「見て見て。ここから水を入れて、この部分に溜まると、仕掛けが動いて点火するでしょう。そうすると、湯が沸いて、この管を通って、こっちの器に入る。この印までくると、見えるかなあ、こう傾いてティーポットに落ちる!ポットには予め、お茶の葉を入れておくという寸法だよ。それで、お湯が落ちたら、この硝子玉入りの筒をこっちの端のところに差し込むと、中から硝子玉がひとつずつ出てくるんだ。これがねえ、このレールの上をあっちへ行ったりこっちへ行ったりして。全部の玉が終着点に辿り着く頃に、ちょうどお茶が飲み頃ってわけだよ。素晴らしいじゃないか!ちなみに、名前は『ミジェルのティーケトル』。ミジェルはエルネミラ硝子で有名なエルネムに住む十二歳の女の子でね、彼女が考案して、硝子職人の叔父さんと一緒にこれを作ったんだけど、この遊び心が受けて、あっという間に大人気!とはいっても、元々売り物のつもりじゃなかったし、ひとつひとつ時間をかけて手作りしなきゃいけないし、そうこうしているうちに模倣品も出るしというわけで、本物を手に入れるのは骨折りだったなあ」
例によって相槌を打つ暇もないくらい饒舌に語るナナシは、にこにこと上機嫌で、色んな角度からミジェルのティーケトルとやらを眺め回しました。
「おほん。ではお茶を淹れよう!まず水を…こう…はい。じゃあ次、火を点けるよ…よし、点いた!あとは、お湯が沸くまで少し待つ!…あれ、どうしたの」
子どものようにはしゃいでいたナナシは、いまひとつ反応の悪いフュラニに気付くと、不思議そうに首を傾げました。
「君はこういうの、好きそうだと思ったんだけど。気に入らなかったかい?」
「…ねえ、ナナシさん。ここは薬屋なんだって、キーノさんが言っていたけど」
「うん?そうだよ。今さらだなあ。君に頭痛薬を出してあげたじゃないか。表にも書いてあったろう、処方箋受付って」
「キーノさんのお店も薬屋なの」
「そうだよ」
「じゃあ魔法使いって薬屋のことなの」
「それは違う。僕らは薬屋だけど、そうでないのも沢山いる。僕らは薬屋の組合員なんだよ」
「キーノさんは姉妹店って言ってた」
「同じ組合に所属してるってことさ。どうしたんだい、急に」
お湯が沸き始めました。
「別に。ちょっと気になっただけ。それより、ナナシさんてどうやって生活しているの?このお店、ちゃんと収入があるの?どこで仕入れをしてるの?」
「うーん。それは秘密」
「じゃあ家族は?兄弟はいるの?友だちは?」
「それも秘密!強いて言うなら組合員はみんな仲間。そんなことより、見て見て」
沸いたお湯が宙返りの管を通ってティーポットに注がれました。硝子玉の筒を差し込むと青い玉がひとつ出てきて、歯車を回したり小さな鐘を鳴らしたりしながらレールの上を転がり、「ほら、面白い!」と子どものようなナナシのはしゃぎ声が上がりました。
「組合には他にどんなお店があるの?」
「もう、拘るなあ。どうしちゃったの、本当に。ははあ、さては、あんな体験しちゃったもんで、魔法使いを信じちゃったのかなあ。いいよいいよ、隠さなくても。その気持ちはようくわかるから」
「違、い、ま、す!その、組合っていうのの他のお店も見てみれば、手品の種がわかるかも知れないじゃない!」
ふうん、とか、へえ、とか言いながら、ナナシはにやにや笑ってフュラニを見ました。
「まあ頑張ってね。応援するよ」
その顔が癪に障り、フュラニはむうっと口を引き結んで、ぷいと顔を背けました。すると、たまたまその目の先の棚に、瓶の中に入れられた飴玉があるのに気がつきました。相変わらずごった返しの中、物と物の間にちょこんと居座っているそれは、縞々や水玉の色とりどりの包み紙にくるまれていて、とても魅力的に見えました。
「あっ!こらっ!」
小ばかにされた腹いせに、フュラニは素早くそれに手を伸ばし、飴玉をひとつ、取り出しました。売り物を勝手に食べることと、折角これからお茶を飲もうと準備しているのに飴玉なんか食べ始めることと、二重の嫌がらせのつもりでした。
「それは駄目なん…」
が。
飴玉を口に入れると、ナナシの引き止める声を最後まで聞かないうちに、自分がぐるっと回転しているような、強烈な眩暈に見舞われました。
「ああ、あ。………行っちゃったか。まったくもう!仕方ないなあ、あの子は」
それっきり、雨の水曜日堂には、困ったように額に手を当てるナナシと、ティーケトルの硝子玉の仕掛けがキンコロカンコロ鳴る音だけが残されました。
【 前頁 / 目次 / 次頁 】
2008.09.20 公開