異界を渡る物語 第一章 第一話



 その場所は、神界、と、呼ばれていました。
 見上げれば、非の打ち所のない完璧な蒼穹が、そこにありました。
 その空は、まるで他の色など一切忘れてしまったかというほどに、ひたすらに一途な青を湛えていました。この世で青と呼ばれる色の美しさをすべて集めて溶かし合わせたような、あるいは、この世で青と呼ばれる色の美しさはすべてこの青を親としているような、震えるほどに綺麗で、果てのない、じっと見ると魂が飛び立って青の一部になってしまうのではないかというほどの空でした。
 下へ目を転じると、一面の白が広がっていました。見渡す限りの無垢な白は、ほやほやと沸かした乳からあがる湯気を僅かに纏っていて海のようにも見えましたが、それはまごう事なき大地なのでした。雲のようで雲でない、土のようで土でない大地は広大で、終わりなど想像も出来ませんでした。
 恐ろしいほどの青い空と、不思議な白い大地。青と白の、完全なまでに美しく調和した世界がそこにありました。
 さて、その白い大地にはいくつもの、大きな城とも神殿とも見える邸が建っていました。色とりどりに咲き乱れる広大な花の野に囲まれ壁という壁に蔦の這う邸、迷路のような水の道が複雑に巡らされ大小の噴水がいくつもきらきらと輝いている邸、あらゆるところに色とりどりの宝石が数え切れないほど鏤められた邸など、それぞれがまさに荘厳華麗でした。
 更にそれらの真ん中に、ひときわ輝く白い巨大な神殿が鎮座していました。まるで聳え立つ神殿そのものがひとつの都であるかのようでした。触れたら割れてしまうのではないかと思うほど美しい滑らかな屋根、技を凝らし透かし編みのように緻密な細工を施した尖塔、入り組んだ棟を繋ぐ硝子のような渡り廊下など、息をするのを忘れるほどの見事な美の集合がそこにありました。
 ここに、純白の衣を纏い月の光色の豊かな髪をゆるりと流した美しい乙女が、光を浴びて燦然と輝く神殿から外へと出てきました。塔門から正面の入り口へ続く列柱の間を歩くその姿の麗しいことは比類なく、金とも銀ともつかない柔らかな長い髪は淡く輝き、紫水晶の瞳に絹のような肌、ふっくらとした薄紅の花びらのような唇、更にはしなやかで且つ柔らかな丸みを帯びた肢体の甘く爽やかなことときたら、一歩足を踏み出すごとに光を振り撒いて世界を歓喜させるかのようでした。
 乙女は、空を仰いで大きくひとつ伸びをすると、何も持っていない掌をすいと宙に差し出しました。そして自然に手を握ると、いつの間にかそこには一本の長い杖が現れていて、しっかりと手の中に納まっていました。杖を手癖でくるりと回し、その先で軽く地面を打つと、高い、けれども細くはない澄んだ音が響き、光の線で不思議な紋様を描いた円が波紋のように広がりました。その途端、足先が大地を離れ、小柄な身体はふわりと浮かび上がりました。
 心地よい風に吹かれながらゆったりと空まで昇っていったところで、乙女は手にした杖を後ろへ回して、腰掛けるような格好になりました。そしてそのまま滑るように飛行を始めました。髪がなびき、衣の裾は翻り、美しい白い神殿が見る見るうちに遠ざかりました。青と白の世界の、より青に近いところを、ひゅうと風を切って乙女は飛びました。まるで真昼の流れ星のようでした。
 石英の結晶のような邸を越え、炬火の赤々と燃える邸を過ぎると、遠く、真っ白な色をした館が見えてきました。乙女はそこを目指していました。外壁から門扉から何もかも真っ白な、清らかなその建物は、白の館と呼ばれる乙女の住まいでした。
 白の館は巨大な神殿と造りこそ全く違うものの、どこか似通った雰囲気をもっていました。それもそのはずで、神殿は始まりの神のおわす場所、そして乙女はその娘でした。
 乙女の名はニーロニィといいました。陽のもとにあっては透き通る新緑の清々しさや風渡る野辺の小さな花たちを思い起こさせ、夜の闇にあるならば月光の優美な儚さや夜露に濡れた蕾を思わせる、そんな楚々とした美しさを全身に纏っていながら、しかし裏腹に少女のように無邪気な顔で空を翔るこの乙女こそ、神の娘ニーロニィなのでした。
 館にはぐるりと守るように白の外壁がありました。しかし彗星は止まることもせずに、同じ速さのまま滑らかに降下しつつ、遠くから一声、
「帰りました!開けて!」
 と、大きく片手を挙げました。
 その声は放たれた矢のように翔けていき、門番の耳に届きました。気付いた門番が慌てて開門すると、まだ僅かにしか開いていない隙間をひょうとすり抜けて、
「ありがとう!」
 と、上体だけで振り返ってもう一度手を振りました。
 門をくぐると、館の入り口へと真っ直ぐに伸びた白い石の道を、それに沿って飛びました。両側は一の庭と呼ばれる美しい庭で、流れ星の乙女は胸を清々しくさせる爽やかな緑を背景に、風と翔け抜けていきました。
 門の内側では揃いの青い服を着た従者たちが、それぞれに仕事を負って歩いていましたが、乙女の姿に気付くと皆、「お帰りなさいませ、我が主ニーロニィ!」、あるいは「我らが神の娘がお戻りになられた!」と、立ち止まって神界式の礼をしました。
「ご苦労様!」
 乙女は声をかけながらも先を急ぎ、立派な玄関から館の内へ入りました。両側に白い円柱の並ぶ廊下を通り抜けると、大きな真っ白い広間に出ました。天井の高い吹き抜けの広間の先には、左右から伸びて合流する上り階段の踊り場に、弓形の門がいくつも並んで口を開けているのが見えました。そこは二の庭と呼ばれる内庭に臨む露台への出口でした。規則正しく並んだ門から外の明るい光が入り込んでいて、その前を横切る従者の姿が影絵のように見えていました。乙女はそこから通り抜けていく算段で、まっすぐそちらへ向かいました。
「あっ!ごめんなさい!」
 途中、行く先に気を取られた乙女は、知らずに歩いてきた従者のひとりに危うく激突しかけましたが、器用にくるりと回転して避けました。その従者は驚き、わあと声をあげて尻餅をつきましたが、乙女が笑って謝り、
「お仕事頑張って、ローイ!」
 と、名前を呼んで励ましたので、従者は自分の持っていた荷物に埋もれながら「は、あ、ありがとう存じます」と礼を言いました。その声が届くか届かないうちに門のひとつから外へ飛び出ると、内庭を越えて更にその向こう、従者たちの住まう「次の館」へ向かいました。
 次の館の入り口付近で連れ立って歩くふたりの従者を見かけた神の娘は、宙に浮いたまま、すい、と止まると、
「こんにちは、フェニ、リリッサ!ねえ、ラハトハスはどこ?」
 と声をかけました。
「ご機嫌麗しゅう、主ニーロニィ。ラハトハスならば先ほど三の庭で、デューセリンとファルニエルに稽古をつけておりましたわ」
「ありがとう!」
 フェニと呼ばれた女が応えるや否や、すぐにまたひゅうと飛び出して、三の庭、つまり次の館の向こう側の従者たちの為の庭へ向かいました。後ろで二人が礼をしていました。
 建物を迂回して回りこむ途中、見慣れた従者の顔を見つけ、
「エルシル!」
 破顔してふわりと地に降り立ちました。杖は自然に消えました。
 着地した勢いのまま、小走りに前へ進むところへ、
「ご機嫌麗しゅう、主エルタリク」
 ちょうど通りかかったその従者は、立ち止まって目を細めました。
 とても背の高い物腰の柔らかそうな男で、白い、丈の長い衣に、上から同じく白い布を羽織るようにして、腕には何やら書物を抱えていました。
 神の娘の足取りがあんまり軽かったので、長身の従者は神の娘ニーロニィをエルタリク、つまり「ニーロニィの足音」と呼びました。それは「足取りの軽いニーロニィ」と呼んだのと同じことで、この場合には、「我が主の足取りがこれほど軽やかということは、即ち心身ともに曇りなく健やかであらせられるご様子で、素晴らしいこととお喜び申し上げる」という意味合いも含んでいるのでした。乙女はいつもこのように様々な名で表されました。名前のはじめに主とつけるのは、自分の従うべき者へ呼びかける際の決まりで、そのほかの神には肩書きをつけるのが決まりでした。
 エルシルと呼ばれた従者は人界の出身で、従者たちの間では「背高のっぽのエルシル」と呼ばれていました。彼はかつてニーロニィによってこの神界へと導かれた者で、特に彼女を慕っているひとりであり、またニーロニィからも親しく接されていました。あだ名の通り非常に背が高く、どこに居ても探すのに困らないと言われるほどでした。人の中に混じっても、その肩までに少し足りない長さで揃えられたきれいな銀の髪が、いつも見えているからでした。
「何か喜ばしいことでも」
「ええ」
 エルシルが尋ねると、乙女は笑って答えました。白い館、白い衣、そして白い肌にその髪の輝きが華を添え、宝石の双眸を細めて笑う顔は一層麗しく見えました。
「ファメルとカスクの仲違いが、漸く円く収まったのですって。ですから、このあと久し振りに、人界を見に行こうと思っているところです」
 ファメルとカスクとは夢の神と復讐の神で、ある悲しみに打ちひしがれた者に、夢の癒しを与えてやるか、復讐する気力を与えてやるかで長いこと揉めていたのでした。神の娘はそれを知ってずっと気にかけ、心砕いていたので、つい先ほど和解を聞き及び、ようやく晴れやかな気持ちになったのでした。
「それはようございましたね」
 神の娘があんまり嬉しそうに言うので、思わずこちらも深い笑顔になりながら従者は応えました。
「ほんとうに。おふたりとも、頑固でいらっしゃるから。なんでも運命のログニオネが、ごく近くして件の者に転機が訪れようと、耳打ちされたのですって。珍しいこと!あの方が予言めいたことを口にされるなんて」
「和解されましたなら、何よりです」
 背の高い従者が小柄な主を見下ろすようにして会話する様は、おかしなやり取りのようでもありましたが、神の娘は傅かれるよりも親しみを持って接されるのが常で、当人もそれを好んでいました。乙女は始まりの神の唯一の娘であると同時に、皆の娘であり、妹であり、そして姉であり、母でありました。
「でも人界へは、やはりいつものようにお目付け役が必要なのです。ねえ、あなたが来てくれますか、エルシル?」
 ニーロニィは悪戯な顔で従者の顔を見上げました。
「それは神のご意向でしょうか、それともあなた様のご一存でしょうか」
「わたしの一存です。神は常にラハトハスを、と」
「でしたらそのように。『白狼ラハトハス』ならば、あなた様のお供に相応しいでしょう。強く、逞しく、真面目で融通が利かない。必ず神のお言いつけに従い、決められた通りの刻限にあなた様を連れ帰ります」
「だからあなたに来て欲しいと言っていますのに!」
 拗ねたような言葉に、エルシルは目を細めました。
「ご自愛なさいませ、主ニーロニィ。慎めとは申しませんが、無茶をなさらぬよう、恐れながらこのエルシル、お願い申し上げます。ですから同行者がわたくしであっても同じことかと。ついつい甘やかして差し上げたくなるのは山々ですが、それが御身の安全に関わるとあらば、わたくしとて優しいことばかりは申しませんよ」
 それを聞くと、神の娘ははにかむように俯きました。ニーロニィとエルシルは、もとは母と息子のようでしたが、時を過ごすうち兄と妹のようになっていました。
「ありがとう、エルシル。お仕事の途中でしたね?引き止めました。ごめんなさい。続きを頑張って」
「ありがとう存じます」
 エルシルが頭を垂れると、ニーロニィはその場を後にラハトハスを探しに行きました。次の館を越えると探し人はすぐに見つかりました。三の庭は周囲にぐるりと木々が立ち並び水場など設けられていて、そこでは暇を楽しむ者達が寛いでいましたが、開けた真ん中には稽古用の剣を手にした者達がいました。
 大柄な、限りなく白に近い銀の髪を持つ男が、金の髪と茶の髪、ふたりの少年を相手にしていました。幾度か剣を交えていましたが、怒号のようなものが聞こえたかと思うと、ひとりは身体ごと後ろに倒れこみ、ひとりは踏み止まったものの剣を弾かれてしまいました。
 肩で息をするふたりに、白銀の男が何やら身振りで指導しているところへ、乙女は近寄って声をかけました。
「精が出ますね、三人とも」
 すると三人はぱっと神の娘の方へと向き直りました。倒れこんだまま座っていたひとりも慌てて立ち上がり、姿勢を正しました。
「お見苦しいところを」
 白銀の髪を後ろへ流しひとつに括った男が訓練用の剣を鞘に収め礼をすると、ふたりの少年もそれに倣いました。
 男は白い服に白い布を肩掛けにきっちりと巻きつけたいでたちで、少年らはともに青い上着に白い下穿きを身につけていました。
「いいえ、ラハトハス。剣の稽古ね。ファルニエル、デューセリン、疲れたでしょう?」
「はい……いいえ、主ニーロニィ」
「大丈夫です。剣の稽古は大好きです。僕も早く、白い衣を纏いたいと思います」
 金の髪のファルニエルは緊張したのか言いよどみ、赤茶の髪のデューセリンははきはきと答えました。
「ですって。教え甲斐がありますね」
「は。ふたりとも有望です。良い使い手になるでしょう」
 ラハトハスは汗だくのふたりとは対照的に涼しい顔をして、声も落ち着いていました。
 彼はたまごの実から生まれた従者で、今は人の姿を取っているものの、本来の姿は空を駆ける大きな白い狼でした。うっすらと銀に輝く白い毛並みは、見るものを惚れ惚れとさせる見事なものでした。白狼と呼ばれるこの男はかなりの古株で、日の浅い従者たちの面倒見もよく信頼を集めていましたが、堅物で冗談の一つも言わないため、愛想がないと敬遠されることもしばしばでした。
「そう。期待しています。頑張って、ふたりとも。剣が上手に扱えるようになれば、いつかふたりを供に人界へ行きたいわ」
「はい!光栄です!」
 乙女の言葉を聞いて、デューセリンは顔を明るくしました。一方ファルニエルはその隣で曖昧に頷くばかりでした。
「何かご用がおありだったのでは」
「ええ、ラハトハス。あなたによ」
 用があってわざわざ来たのだということがわかると、デューセリンは一歩下がり神の娘に礼をしました。
「では僕たちは、下がらせて頂きます。主ニーロニィ、御前を失礼いたします。白狼ラハトハス、稽古をありがとうございました。……ファー」
 先輩であり剣の師である白狼にも挨拶をし、一緒に礼をしたものの戸惑っている友人を突付くと、利発な少年はその場を去っていきました。大人しい少年は慌ててそれに続きました。ラハトハスはその後姿を目で追い、小さく溜め息を落としました。
「良い子たちですね」
 気付いたニーロニィがくすくす笑うと、
「確かにその通りですが……ファルニエルは少々、覇気の欠けるところが気にかかります」
 と言って、従者は主へと目を戻しました。
「ならば気にかけてあげれば良いではないですか。まだほんの少年ですもの、彼らを頼みますよ。そう、それで、わたしはあなたを呼びに来たの」
 言いながらニーロニィが歩き出したので、ラハトハスもそれに続きました。
「は。……主よ、失礼ながら、ひとつ伺いとうございます。月狐ヤトはいずこに。本日はあなた様の護衛を勤めているはずと記憶しておりますが」
「あら、ヤトなら今日は暇を与えましたよ。今頃休んでいるのではないかしら。そうね、二の庭あたりで」
 木陰で憩う何人かの従者がこちらを見守っているのに気づいて、笑顔で手を振りながら言われたそれは、まったく何事もなかったかのような口ぶりでした。生真面目な男は眉を寄せました。
「それはつまり、護衛の者にそのお力で眠りを与え、お一人で外出されたと」
「だって行き先は神の臥所、白の神殿ですよ。危険などありません。それにヤトは優秀だけれど、もう少し早く走ってくれなければ。彼の足では、行って帰るだけで日が暮れてしまいます」
 ラハトハスの肩の向こうで、手を振られた従者たちが揃って姿勢を正し、礼をしていました。
「ならば何故わたくしをお召し頂けないのです。この白狼ラハトハス、天駆ける足をもってして、瞬きほどの間に白の神殿までお連れ致しますものを。そもそもこれまで何も起きなかったからと、この先も永遠に安全であろうなどというお考えでは困ります。いざ危険に見舞われてからでは遅いのです。あなた様のお力は存じておりますが、お一人で行かれるなど」
「ええ、ええ。そうです、ひとりで行くなと言われるから、呼びに来たのですよ。さすがに人界へは気が引けます!」
 言うが早いか乙女がぱっと駆け出すと、同時に手の中には杖が現れ、杖の先が軽く地を打ったかと思うや否や、光の紋様を残してそのまま空へと舞い上がりました。
「主よ!」
 ラハトハスがそれに続き助走をつけて大きく跳躍すると、その姿は大きな白い狼へと変化し、神の娘の後を追って空へ昇りました。
 三の庭で寛いでいた者たちは、その様子を見上げ、あるいはやれやれと呆れたように、あるいは変わらぬ日常を喜ぶように、それぞれ笑みを浮かべました。



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2008.05.17 公開
2009.03.07 修正