異界を渡る物語 第一章 第二話
「まさかとは思いますが、あの、お祭りプレアスタンの影響なのでは」
大きな輝く狼は、その背に主を乗せて空を行きながら、そうぼやきました。見事なまでのしなやかな肢体が、果てなく続く青の中を駆けていました。
「何が、です」
艶やかな白銀の毛並みにその身体を預けた神の娘は、ほんの少し身を屈めるようにして顔を寄せました。靡く髪が一筋、下を向いた拍子に目の前にかかったので、片手を離してそれを避けると、すぐさま、あまり動かれませんように、と白狼の注意が飛びました。
落ちたって自分で飛べるもの、と笑いが返されました。
「……先ほどの問いですが。あなた様の、ここ最近の振る舞いのことです。主ニーロニィ、プレアスタンのようなお調子者は反面教師にこそなれ、あれに素行を学んではなりません。あの者にはいつか灸を据えてやらねばと前々から思っておりました」
「真面目ですね、ラハトハス。……でも、お祭りプレアスタンとは、誰がはじめに呼んだのかしら。賑やかで楽しい彼にぴったりの名前!」
ニーロニィは彼の者のことを思い出したのか、くすくすと笑いました。花が零れるような笑いでした。
「……良いですか、我が主。わたくしはあの者を嫌ってはおりません、しかし」
「嫌いでないなら妬んでいますか、人気者のプレアスタンを。堅物ラハトハス、生真面目とか、石頭なんていうのもありましたね。生まれたばかりの従者たちはあなたの顔を見て、おっかなびっくりですよ」
面白そうに言葉を遮った主に、ラハトハスは口を噤みました。
「ほら、今どんな顔をしています。目に角を立てないで。わたしも怖いわ、好きですけど。……ふふふ、ごめんなさい、意地悪を言って。けれどあなたったら風貌から誤解されやすいでしょう。プレアスタンも同じことです。飄々として、時に調子のいいのはその通りですけれど。情に篤い、快活な良い青年ですよ。意外と思慮深くもありますし」
「……それは承知しておりますが」
白狼の声の調子が落ちたのを聞いて、その主は愛しげに目を細め、抱きつくようにして毛並みに身体を沈めました。
「好きですよ、ラハトハス。心配させてごめんなさい。でも怒るなら、わたしに腹を立ててちょうだいね。わたしが何かするのは、みんなわたしのせいです。そうだわ、今度わたしとあなたとプレアスタンと、三人でお茶を飲みましょう」
その提案にラハトハスは、返事をするにしては長い沈黙のあと、小さく「御心のままに」とだけ答えました。神の娘は笑って、うんうんと何度も頷きました。そして手を伸ばすと毛並みを分けて首の後ろ辺りをくすぐるように撫でてやりました。気持ちが良いかと訊くと黙ってしまったので、その様子を見て声をあげて笑いました。
「……越えます」
低い声がそう宣言するとともに、見えない何かを突き抜けると、先ほどまで青と白ばかりだった世界は、眼下に広がる緑という色を加えました。神界から人界へと、界を越えたのでした。
ニーロニィが、越える瞬間に閉じた目を再び開くと、太陽の光は人界でも同じく輝いていました。肥沃な大地がそれを受けていました。眼下には風渡る平原や深緑の森、連なる山々、そして遠く、きらきらと光を反射する海が見えました。それらの中に、人の住まう都がありました。雄大なまでに蛇行する川沿いに栄えた都や、海の恵みを享受する沿岸の都、山々の谷間にも、湖の畔にも、砂漠にも人の都はありました。
また、駆ける獣の周囲では、きらきら、しゃらしゃらと小さな笑い声が起こりました。それは風の精霊たちでした。風は形を持たず、姿こそ見えずとも、世界中に満ち満ちていました。
「さあ、もう少し降りましょう」
「ならばお姿を」
「はいはい」
狼が足を緩め、乙女がすいと腕を横へ上げると、その手の中に杖が現れました。くるりと回転させながら前方を指し示すと、杖の先から見えない不思議な力が迸り、狼の足の向かう先に光の紋様が浮かび上がりました。同時にひときわ大きく跳躍した白い身体が、火の輪潜りのようにそれに飛び込むと、神の娘と従者の姿はきれいに掻き消え、お互いの目に映るのみとなっていました。
神の娘は改めて身を起こしました。先ほどまでよりもゆったりとした動きで走る狼の背で風を受け、ニーロニィはつい今しがたまで杖を持っていたはずの白い手で髪を押さえて、気持ち良さそうに目を細めました。
人界は相変わらず色鮮やかで、美しいものでした。あちらこちらの都の上を通り過ぎて見て周り、都同士で大きな争いなど起こっていないことを確認しました。
「よかった。安心しました。平和と言って差し支えないでしょうね」
「……そのようです」
「ねえ、今日こそ人々に姿を見せて、手を振ってみましょうか」
いいことを思いついたというように、ニーロニィは悪戯に笑いました。間髪を入れず「なりません」と返ってきました。
「あら、どうして」
「掟により禁じられておりましょう」
足を止めずゆったりと走り続ける白い獣の返事はいかにも堅苦しい、すっぱりとしたものでした。
「知っています。あーあ、何故そのような掟があるのでしょう」
神界には、人界においてみだりに姿を見せてはならぬという掟がありました。
神の娘は残念そうに溜め息をついて、狼の背にうつ伏せに寝転がるような格好になり、片足を折りました。ラハトハスは、はしたない、と軽く咎めてから足を緩め、律儀に問いに答えました。
「平たく申し上げれば、品格に差し障りが。かの泉からご誕生の神々は地の民を導くことを本分とされる方々に相違ありませんが、地の民が創ったものではなく、また地の民の為の存在なのかと問えば、応えは否です。人界と呼ばれるに到った地の為に神々は誕生しました。人の為ではない。人界の、世界の為です。世界の為に、人への手助けが不可欠であったのです。人に求められれば、その度合いに応じて手も貸しましょうが、時には厳しく突き放すこととて必要です。だからこそあなた様もこのように、人同士が始める争いに特に敏感であられる。自業自得の災いであれば、赤子をあやす様にお守をしてやるとは限らないと、理解しておいでだからでしょう。その災いにより均衡が保たれることもまた事実。その点はおわかりのことと存じますが」
白狼の言葉はどこまでも淡々としていました。
「また近しくなりすぎれば、神を神とも思わぬ輩を生むことにもなるのです。あるいは甘えることを覚え、堕落するやも知れません。いずれにせよ導く者は常に上に立つべきです。尊ばれ、崇められなければなりません。神と人は同列であってはならないのです。従って安易に姿を見せることは慎むべきでしょう」
澄んだ紫の瞳は不満げに細められました。
「あなたの考えは何度も聞きましたよ。けれどわたしは彼らがそんなに愚かとは思いません。それに神が高等で人が下等とは高慢だと思いませんか。勿論、始まりの神が世界を生み、生命を生み、だからこそ人は誕生し、栄えることが出来たのです。けれども人は自らの力で繁栄したのですよ。神に授けられた言葉を操り文明を築いた唯一の種、それに感銘を受け、始まりの神は人と同じ姿を取ったと聞いています。ならばいま在る我々も根源を辿れば人に行き着くということではありませんか。人が賢く力強い種であったから、始まりの神は数多の神々を生み、たまごの樹を創ったのですもの。それを侮るとは不遜です」
「ならばあなた様は、悪戯に綻びを作ることを望まれますか」
「そうではないわ。ただ疑問に思うだけです。……それにわたしはもっと、地の民のことを知りたい」
先ほどからの厳めしい顔をそのままに、従者は主の呟きを聞きました。彼は主が地の民を好いていることを知っていました。人界を、そして人を愛する神は多くいましたが、神の娘の右に出るものはいないと思われるほどでした。それほどに神の娘は、人という種を殊更に愛していました。
神界に生まれた者の中で始まりの神を除いては唯一、人の為に生まれたのでない存在の神の娘が誰よりも人を愛するのは、ある種の憧れではなかろうかとラハトハスは思っていました。神の娘が、神界に生きるものの中で、最も人から遠い存在だからでした。
「ああ!仕方がありませんね。姿を消したままで我慢しておきます」
「このまま戻られましても差し支えないかと存じますが」
ラハトハスは尚も難色を示しました。
「飛び降りて好き勝手に行くのとどちらが良いのです。あなたの目を眩ませることも出来ますよ」
「なんというお方だ!」
「もうそろそろ承知していたかと思いましたけれど」
鋭い歯の並んだ大きな口から溜め息が吐かれました。それを了承と見て取った神の娘は、
「さあ行きましょう。ほら、ちょうど都が見えます」
と笑いました。
神の娘の見る先には、周囲を河といくつもの茶色い丘に囲まれた高台の上、長い城壁にぐるりと囲まれた都がありました。身を寄せ合うようにひしめく白っぽい石造りの民家の合間を、迷路のように階段と路地とが複雑に入り組み、特徴的なことには、いくつもの高い、美しい塔があちらこちらに建っていました。
「なんてきれい!ねえラハトハス、そう思いませんか。あの塔の群れ!ほら、見えますか、彫刻が施されているのね。まるで美しさを競い合うよう」
「実際、競い合っているのです。あの都に住む者たちは、塔の高さと美しさによって己の富と名誉と権力を示し、他の者よりも優位たらんとして次々に相手を上回ろうとした結果、あのように乱立する羽目になったと聞きます。これと言った機能もなく、いわば欲と虚栄心の現れ。私には、とても我が主の賞賛に値するものとは」
「もう!美しさは罪ですか、ラハトハス?それに、あの塔を建てた者の話を直接聞いたわけでもないのでしょう」
「仰る通りですが──(美しさが罪ならば、我が主は罪の権化であられる)」
「何か?」
「いえ」
最後の呟きは、主の耳には届きませんでした。
「まあ良いでしょう。さあ、早く近くへ行きましょう、そして都の人々の──…」
弾んだ声で言いかけた言葉が、突然ふつりと途切れました。渋々ながらも主の言葉に従おうとした従者は怪訝に思い足を止めて、いかがなさいました、と尋ねました。
「馬が」
ニーロニィの目は、地上を行く二頭の馬に向けられていました。人の目であれば捉えること叶わないであろう距離でしたが、神界に身を置く者たちの目にははっきりと映っていました。
馬が走っているなど特段珍しいものではありませんでしたが、なぜか奇妙に気に掛かりました。都から逃げるように遠ざかる、砂埃を上げて疾走する二頭のその馬は人が駆っており、一頭が前を行き、それをもう一頭が追っているように見えました。
「様子がおかしいわ。降りて、ラハトハス」
白狼は少々渋い顔をしましたが、姿を消しているのだからと重ねて言われたので、それ以上逆らえず、仕方なく空から駆け降りました。
二頭を近く捉えられるところまで来ると、やはりそれは逃げる者と追う者であるのでした。馬を繰る者はいずれも目元だけを出して顔を覆うような布を身につけていたので人相はわからず、けれど競争など楽しんでいるものでないことは容易に知れました。前を行く者は必死に栗毛の馬を駆り、それを追う葦毛の馬に跨る者は手に機械弓を携えていました。
追走者の更に後ろを着かず離れず走る白狼の背中で、神の娘は息を呑んで口元を手で覆いました。追う者が走る馬の背で器械弓を構え、狙いをつけたのでした。
「ああ!」
ニーロニィは思わず声を上げました。
一瞬の出来事でした。
放たれた矢は逃げる者の背中に吸い込まれました。
逃げる男はもんどりうって落馬しました。
栗毛の馬はひとつ嘶くとそのまま走り去り、地面に叩きつけられた男はもうもうと上がった砂埃の中に残されました。
追う男は馬足を緩め、落馬した男に近付こうとしましたが、丁度そのとき上空で大きな鳥が一声鋭く鳴いたのを聞くと、名残惜しそうに振り返りながらも馬首を返し去って行きました。
「降ります!」
神の娘は血相を変えて白狼の背から飛び降りようとしました。
しかし、
「なりません!何をなさるおつもりです!」
と、白狼は身を捩りそれを阻止しました。
「だって、死んでしまいます!」
「助けようと仰いますか。あの者がここに倒れたのなら、それがあの者の運命だったのです。関わってはなりません」
「ならば、わたしがここにいたことも、また運命です!」
言うが早いか、ニーロニィは制止を振り切って、その身を宙に躍らせました。手には杖、地上に現れた光の紋様の上にふわりと降り立つと、砂埃の中へと飛び込みました。白狼は顔を苦くして「主よ!」と叫ぶと、すぐにそれを追って空中で狼から人へと姿を変え、二本の足でどしりと着地しました。
神の娘は砂埃の中で意識をなくした男の上体をなんとか膝に抱え上げ、自分に寄りかからせるようにして、血の色に慄きながらも抱きしめて癒しを与えました。一際強く輝く光の紋様が地面に浮かび上がると、舞い上がる埃がそれを映して一面が光り輝きました。すると男の背に突き刺さっていた矢は何事もなかったかのようにぽとりと抜け落ちて、生命の息吹が舞い戻りました。血に汚れた衣服もまっさらに戻りました。
と、その途端、黙ってその様を見守っていたラハトハスの手が主の腕を取り、やんわりと、しかし強引に立ち上がらせました。男の身体は地面に転がり、
「何を!」
と悲鳴のような抗議の声が上がりました。分別ある忠実にして誠実な僕の無慈悲とも思える行動に、非常に驚いたのでした。
「もう宜しいでしょう。その者は救われました」
ラハトハスの大きな手がそっと華奢な肩を掴み、今にも男を助け起こそうとするのを制しました。
「我が主ニーロニィ、どうぞお聞きを。あなた様は慈悲深いお方であられます。そのお心は尊く美しいものですが、闇雲に情けをかけることが常に正しいとは限らないのです。ご覧ください、彼は赤子ではありません。己の足で地に立ち歩いている者です。過ぎる情けは時に侮辱にもなりましょう。何よりも、この男が何故射掛けられたか、主よ、あなた様はご存知ないのでは」
従者のそれはひどく冷静な物言いでした。対して主は感情的に声を上げました。
「命を救うことに理由が必要なのですか!わたしは嘗て何度も人の子を救ってきました。あなただって、それを見てきたではありませんか!」
「力持たぬ幼子の、善も悪もなく奪われようとする命を救うことに、異論は御座いません。しかし成人した者ならば、己の意志で生きた結果このような目に遭っているのです。ここで死すとも何の理不尽なことがありましょう。この者とてそれは承知のはず。まさか人界からすべての死をなくすおつもりではありますまい。矢傷は癒え、生命の息吹は戻りました。絶望のはずのところへ、希望が与えられたのです。この上は、己の力を持ってして活路を開くべきなのです。あなた様のお役目は終わったのです」
でも、と麗しの声が反駁を唱えんとしたそのとき、男が小さく呻きました。
咄嗟にふたりは仰向けに倒れる男の顔を見ました。
顔を覆い隠す布から覗く両の目が、わずかに震えた後、ゆっくりと開きました。
乙女は、はっと息を呑みました。
目が合ったと思いました。
そんなはずはないと頭ではわかっているのに、しかし確かにそう思いました。
褐色の瞳でした。
何かを渇望するように、ぎらぎらと濡れて光っていました。
衝撃が走りました。
知らない視線、でした。
未だ嘗て、これほどの密度を持った眼差しを向けられたことは、一度もありませんでした。
男の唇が戦慄きました。
自分に向け何かを言おうとしている、乙女はそう思いました。
背筋をぞくりと何かが駆け抜けていきました。
喉がからからに渇き、全身が痺れ、指先どころか睫の先さえも動かすことができなくなりました。
そのとき間違いなく、神の娘は人の男に射竦められていました。
「……!」
ほんの瞬きほどの時間に過ぎないけれども、永遠に続くかとも思われた数瞬の後でした。やがて、ふと、力尽きたように男の瞼が落ちました。
乙女は大きく息を吐きました。烈火の如き瞳が瞼に隠されたことで初めて、乙女は己が息を詰めていたことに気付かされました。
気付いた途端、火に炙られたかのように肌が熱くなり、一気に思考が煮え立ちました。
「戻りましょう、ラハトハス!早く!」
慌てふためき、恐ろしいものから逃れんとするように、細い腕が逞しいそれを取ってぐいぐいと促しました。従者は突然の心変わりに困惑しながらも、言われるままに獣の姿へと変わり、その背に主を乗せ空へと駆け上がりました。
ふたりは互いに訳もわからぬまま、逃げるように神界へと帰ったのでした。
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2008.05.17 公開
2009.03.07 修正