異界を渡る物語 第一章 第三話
双子の死の神ハイメルエッズとアーメルエッズは、思いがけない訪問者に思わず顔を見合わせました。
「珍しいこともあるものだな、アーメル」
「珍しいこともあるものね、ハイメル」
窓もなく壁を夜空とも見紛うような、ひんやりとした双子の居室、審判の間に、似つかわしくない純白が紛れていました。
「突然お邪魔して、申し訳ないと思っているの」
胸の前に手を組み、おずおずと言った者、それは神の娘でした。慣れない場所に戸惑っているのか、慣れない相手に戸惑っているのか、それとも違う理由からか、容姿のみならず常に輝かしい存在であるはずの神の娘は、どこか遠慮がちにしていました。
「いいえ、構わなくてよ。ただ意外だっただけのこと」
「その通り、構わない。ただ意外だっただけのこと」
死の神は男神と女神の双子で、男神をハイメルエッズ、女神をアーメルエッズと言いました。ふたりは共に自らの身の丈ほどもある白い髪をゆったりと編んでいて、夜空に星が散ったような揃いの衣装を身につけていました。ハイメルエッズは鉄杖を、アーメルエッズは花を手にしていました。
ふたりの役割は、死した者を導くことでした。糾弾のハイメルエッズと慈悲のアーメルエッズ、ふたりの審議をもって判決を下し、死者を、廻りの道か行き止まりの道、いずれかに導くのでした。多くの者は廻りの道を行きましたが、道の長さは様々で、花咲く道を散歩のようにゆったりと幸せに行ける者もいれば、悪夢のような道を行く者もいました。道の果てには次の生が待っていました。大罪人には罰として悪夢の行き止まりが与えられることもありました。またごく稀には、幸福の行き止まりが与えられることもありました。
大きな扉の前、右にはハイメルエッズ、左にはアーメルエッズが立派な椅子にゆったりと座していました。ふたりには五人の弟と五人の妹、合わせて十人の弟妹たちがいて、平穏に生涯を終え自らの死を受け入れた多くの者は、彼らによって死者の道へと導かれていましたが、重い罪を犯した者や、大変な善行を為した者、大きな悔いのある者、迷いのある者などは、この場でふたりに行き先を委ねることになっていました。扉が何処に続いているかは彼らの審判如何で変化するため、死者は己の行き先を知らぬままそれを潜ることになるのでした。
死の双子は神界においても、その司るものの性質からか、他の者を寄せ付け難い雰囲気を持っていました。どんなに明るい光が神界を照らしていようとも、双子の住まう死の館だけは温まることもなく冷えていて、真昼でも暗く、であるので好んで訪ねる者は多くありませんでした。
「して、用件は何であろうな」
「そうね、用件は何でしょうね」
闇と静寂とを愛する威厳に満ちた双子の神にいざ尋ねられ、乙女は少々口ごもりました。その逡巡する姿にふたりの神は顔を見合わせて薄っすらと笑い合い、同時に再び正面を向くと、同じ動作で頬杖をつきました。それは人の親が、我が子の打ち明け話を待つような仕草でした。
「実は……」
細い指先が忙しなく組まれたり離されたりしており、視線もそこに注がれていましたが、そのうちに思い切ったように顔が上がりました。
「実は。知りたいことがあって、来たのです」
「ほう」
「まあ」
双子は薄く笑んだまま顔色も変えずに相槌を打ち、先を促しました。
「何を知りたい」
「何を知りたいのです」
「それは……ある男が、扉を潜らなかったかと」
死の神らは容易いことと、その男の名を尋ねました。
「それが……名前はわからないのです。褐色の瞳で……若い、逞しい男です」
双子は顔を見合わせて、ゆっくりと首を横に振りました。
「神の娘ニーロニィ、残念だが、それだけではわからぬ」
「そう、残念だけれど、それだけではわからない。多くの者は審判の間を通らないのです。我らの妹弟たちが導いた者の中に、そのような容姿の者がどれほどいることか。名もわからぬまま調べることなど、出来なくてよ」
「そう、名もわからぬまま調べることなど、出来ぬ」
やはり、と、小さな肩が落とされました。そのまま力なく礼を言うと、「ごきげんよう、さようなら!」と逃げるように帰って行きました。ハイメルエッズとアーメルエッズはそれを見送ると、顔を見合わせてまた互いに笑みを浮かべました。
「まあまあ。何事でしょうね、ハイメル」
「何事であろうな、アーメル」
「人の男の生死を問うため、この死の館までやってくるとは。彼女はこの場所をあまり好んでいないはず」
「その通り、彼女はこの場所を好んでいないはず。それでも我らを訪ねた、あのように焦り、怯えて」
「ええ、焦り、怯えて。愛らしいこと」
「愛らしいことだ」
死の双子は、同時に目を細めて肘掛に凭れ直しました。
* * *
神の娘の居室は、さながら屋根と床のある庭、といった趣でした。部屋の中央には水盤の下に美しい水中花の咲く噴水があり、滑らかな石で作られたその淵は、腰掛けの役割も兼ねていました。白い柱には蔦が這い、細やかな刺繍を施したようでした。天井は高く、昼は陽の光、夜の帳が下りる頃には月の光が、部屋に降り注ぎました。
噴水の部屋のほかにも、いくつもの部屋が連なるようになっていましたが、さて、そのうちのひとつの、よく光のあたる窓辺の小さな卓に、蜜茶の入った器が並んでいました。神の娘は毎日必ず、従者の中からひとりを招いて、共に茶の時間を楽しんでいるのでした。
「目が合ったの。確かに彼の人の瞳はわたしを見ていました。姿は消していたのですよ。それなのに」
「へえ。そりゃすごいですね。そいつ、見えていたのかな」
昨日の出来事を深刻な、それでいてやや興奮したような面持ちで語る乙女と向かい合って座っている従者は、ややもすると横柄になりがちな態度を気にかけるでもなく、軽い口を利きました。
「あなたもそう思いますか、プレアスタン!」
「主の業が人に見破られるとは思えませんけれどねえ。ああ、何かつまむ物、ありますか。腹が減って」
今日の茶の席に招かれているプレアスタンと呼ばれた薄青の衣の従者は、自らの主である神の娘に向かって、他の者が聞いたら卒倒しそうな言葉を平気で口にしつつ、蜜茶をひとくち喉へ流しました。
「焼き菓子があるわ。わたしも見えたはずはないと思うのだけれど、もしかしたらと思ってしまうの」
プレアスタンがふむと唸りながら長い足を組み替えて、膝に片肘を乗せ前屈みになると、高く結った金茶の髪が彼の動きにあわせて揺れて、動物の尻尾を連想させました。
「例えばの話ですがね。見えてはいなくても、感じたってことはあるかも知れない」
ニーロニィは果物やら花の蜜やらいろいろ載っている別の卓から焼き菓子を持ってきて出してやりながら、興味深げに相槌を打ちました。
「そのとき、主の望みは姿を消すことだったのでしょう。なら、姿が消えていたことは疑いようがない。見えなかったはずですよ、そう望んだのなら。あなた様のお力はそういった類のものですからね。しかし存在まで消えたわけではないってことですよ。気配やら身体そのものまで消したいと思いましたか、主は」
それを聞き、ニーロニィは、思わずあっと声を上げました。
「思いませんでした。姿さえ見えなければいいと。だって、身体そのものを消し去るだなんて、そんなこと。……そうだわ、わたし、彼に触れさえしたのだわ。ただ見えなかったというだけ!ああ、なんてこと、気がつかない方がおかしかったのね!」
両手を頬にあてて狼狽した様子を、プレアスタンは笑いました。
「触れたどころか、わたし、こう、抱え上げたのです、膝の上に」
「そいつはまた大胆な。羨ましいなあ!」
あろうことか主を顎で使うようにして出させた菓子を、遠慮もせずに頬張りながら、でも、と彼は話を続けました。小さなかけらが零れましたが、ひょいと拾うと気にせず口へ入れました。
「そいつ死にかけていたんでしょう。なら多少鋭敏になっていて自分を救った何者かの存在に勘付いたとしても、夢を見たか、奇跡が起きたか、まあとにかく誰かわからない命の恩人にそいつが勝手に感謝するだけで、別段問題ないんじゃあないですかねえ。何だってそんなに気にしてるんです」
「いえ……やはり……ああ!わかっていたのだわ。……実を言うと、わたしはおそらく彼の人から、呪いを受けてしまったのです」
「呪い!」
従者は思わず口の中の菓子を噴き出しかけて、その物騒な単語を思わず鸚鵡返しにしました。
「なぜそう思うんです」
「だって、おかしいわ。うまく言えないけれど、そうでなくてはおかしいのです……恩人に呪いを授けるなんて、とても信じられないけれど」
そう言って乙女は絡めた指先をじっと見つめました。
「心配するほどのことはないような、然程危険ではない呪いのはずなの。それはわかっているのよ。何故なら───先ごろ死のおふたりを訪ねたのです、もしや彼の人が扉を潜ってはいないかと思って。でも、名すらわからないのでは確かめようがないのだと……彼の人の生死はわからなかったのです。そのとき、おふたりは呪いについて、何も触れませんでした。あの方たちはそういったことに特に敏感なはずなのに。それに、始まりの神だって、未だ何も。神々が何もおっしゃらないのなら、気に留めるほどのものではないはず。人間の業なのだし、神の娘であるわたしが負けることはないでしょう。けれど……ああ!何と言えば良いのか」
聞きながらぱくぱくと残りの焼き菓子を口へ運び、蜜茶で流し込んで腹を満たしたプレアスタンは、親指と人差し指をぺろりと舐めて、そんな主の様子を眺めました。そして、勝手にもう一杯蜜茶を注ぐと、程よい温度になっているそれをぐいと一息に飲み干しました。
「……そんなに気になるのなら、呪いを授けた本人に聞いてみたらどうです」
「えっ!」
半眼でずいと顔を前に出したプレアスタンに気圧されるように、ニーロニィは上体を引きました。
「だってそうでしょう。ここでいつまでもそうしていたって、何もわからないまま。本当に呪いなら、解いてもらわなければ」
「そうですよ。わかっています。でも……そう、きっと始まりの神が解いてくださるわ」
神の娘は取り繕うように言って、ぷいと横を向きました。
「たった今その口で、神々は何もおっしゃらないのだと!……それに、もし始まりの神が解いてくださるのだとしても、それで良いとは思っていないでしょう。だから俺に話したんだ。ははあ、さては後押しして欲しかったかな」
「プレアスタン!」
顎に手をあててにやにやと口の端を上げる従者に向かい一喝するも、主の声音は厳しさに欠け、むしろ慌てたようで、全く効果はありませんでした。
「ははは!うん、しかし、呪いはともかくとして、白狼殿の言いようには心当たりがなくもない。彼は厳しいですからね。子どもには甘いが、成人した者に対しては非情にすら見えるくらいだ、傍目には。今までずっと目を光らせていたんでしょう。大事な主に悪い虫がつかないように!」
「悪い虫ですって」
「そうですよ、悪い虫。だから俺のことも良く思っていない!最近はもう目の敵です。ひどいもんだ。白狼殿は古株ですからね、彼から見たらまだまだ新参の部類に入る俺がこの態度では、まあ、気に入らないだろうなあ」
言いながら器を置いて向こうへ押しやると卓に肘をつき、プレアスタンはだらしなく身体を預けました。
「それ以上に、俺が主を誑かしているとでも思っているかも」
「誑かすとはどういうことです。あなたが悪事を企てていると言うの!」
「ほらね。そうそう、それで良いんです。それが白狼殿の望みで、今のところ叶っていると、そういう訳ですよ。彼はともかく清くあれと言っているんです。神に……神界に生きる者に必要のないことは、しなくて良いと。そして、しなくて良いことなのに出来る形をしているから問題だと。形については当然ですがね、そのまんま模したんだから。けれどなあ、必要がないということと、意味がないということと、禁じなければならないこととでは、それぞれ少し違うと俺は思うなあ」
最後は殆ど独白になっていました。
「さっぱりわからない」
「それでいいんですよ。俺の言うことはわかっちゃいけない。俺はちょっと異質なんです。いろいろと人の事情をわかっている」
「人の事情?もともと人だった従者たちよりも、ですか」
神の娘は蜜茶の器を弄びながら首を傾げました。
「ええ、もともと人だった者よりも。例えば、背高のっぽのエルシルよりも。彼は幼いうちにここへやって来た。それ以来、神界に住まうものとして、その存在を人から神の従者へと変化させてきたのです。彼は、だから、ある意味では人として幼いままだ。人が、彼の外見と同じ年頃であれば当然持つだろう欲求を、けれど彼が持つことはないのですよ。まあ、そのように肉体が機能していないというか。彼に限ったことではありませんがね、従者として連れ帰ることが許されているのは、純真な人の子だけ……子、だけなんですから、皆そうですよ」
「何のことです。あなたはそれを知っていると?」
「俺は知っています。知っていますよ、たまごの実から生まれたくせに。あなたもご存知でしょう、俺は、言ってみれば失敗作です。たまごの実から生まれた者たちの誰しもが、そのことについては、知らされなければ知らないはず、なんですよ。そして後々、然るべき人格を身につけた者にのみ、決して侵してはならぬ禁忌として明かされるのです。だから従者達は皆、それを知らないか、若しくは知識としてのみ知ってはいても欲求がないので意識しないかのどちらかで……白狼殿は、だから心配なんですよ。俺を地の民と同じものとして見ている。主、あなたに、人を近づけたくないのと同じく、俺も近づけたくないんだ」
プレアスタンは窓の外に目を投げました。ニーロニィは身を乗り出しました。
「ねえ、本当にわかりません。何の話をしているのです。わたしは何を知らないのですか。ほかの神々はご存知なのですか」
「どうでしょうね。そこまでは俺にも。……ああ!余計なことをぺらぺらと!なんていうお喋りな口だ、この口は。これが知れたら、またどやされるなあ。しかしこれだけは言っておきますよ。あなたを過剰なまでに人から遠ざけているのは白狼殿の一存です。勿論、掟は掟ですが、神々は皆ご自分の意志で行動していらっしゃる。掟に触れない程度なら、あなたはあなたの思うままに行動すれば良いんですよ。それこそ姿を消して人の都を見て回ろうが、独断で地の民を救おうが、許される範疇で、度を越さなければ問題ないはずだ。考えてもごらんなさい、夢の神ファメルと復讐の神カスクのおふたりなんか、たったひとりのために仲違いまでなさるくらいですよ。ね、その点について白狼殿に指図される謂れはないのです、彼は従者に過ぎないのだから……ああ、ちなみに俺も単なる従者ですから、俺の言うことを一々真に受けなくたって良いんですからね」
散々喋っておいて卑怯かな、と苦く笑うプレアスタンに、その主は大袈裟に溜め息を吐きました。
「何が何だかわからない。時々思うのだけど、あなたってとても意地悪です」
「ごめん。困らせるつもりじゃなかったんだよ」
プレアスタンは卓越しに手を伸ばして、手の甲で軽くニーロニィの頬を撫でました。空の紫を切り取った美しい瞳が、困ったように細められました。
神の娘はこの従者の砕けた言葉遣いも、こういった行為も許していました。本当は皆にそうされたいと思い、そのように求めていましたが、実際に線を踏み越えて接したのはプレアスタンのみだったのでした。
「あのね、あなたはラハトハスが嫌いですか」
「嫌いじゃないよ、主メイリス。そんな目をしないで。ただ少し考え方が違うというのかな」
主の双眸に寂しげな光を見たプレアスタンは、眉尻を下げてやんわりと笑いました。
「それに、どちらかというと、嫌われているのは俺の方だと思うなあ。こういう口を利くようになってから、茶の席に呼ばれることが増えたでしょう。もう随分になりますがね。白狼殿は心配性だし、案外子どものようなところもあるらしいから。まあ、好き嫌いじゃなく、何とはなしに相容れないというのかな」
「……三人でお茶、というのは、だめかしら」
「素晴らしい!俺は賛成だな、色々と面白そうですよ、色々と」
その笑みにどこか挑戦的な色を感じ取り、ニーロニィはまた溜め息を吐きました。
「さてと、じゃあ、今日はそろそろお開きかな。あんまり寛いでいると煩いのがいますからね。ご馳走様。……ああ、俺が下げるんだった」
卓に預けきっていた身体を起こして伸びをしたプレアスタンは、立ち上がったところで思い出したように菓子皿を手に取りました。
「蜜茶のお替り、必要かい」
「いいえ、もういいわ。ありがとう」
じゃあこれも下げますよ、と茶器を菓子皿に載せて器用に片手で持つ従者を、主は、
「プレアスタン……失敗作なんてもう言わないでね。わたしはあなたがとても好きよ」
と、見上げました。
言われた者は一瞬ぽかんとした後、思い切り顔を緩め「ありがとう。俺も主が好きだよ」と目を弓なりにしました。
「それと……最後にひとつ。昨夜、眠っていませんね。俺にとって大事なのは、件の男の生死よりも、愛すべき主の御身です」
今度は乙女が一瞬ぽかんとした隙に、では、と最後だけ多少それらしく姿勢を正して、プレアスタンはその場を辞しました。間もなく廊下で誰かに出会ってちょっかいでもかけたのか、驚くような声と笑い声の上がったのが聞こえました。
ひとりになった神の娘は、騒々しさが遠のいていくのをぼんやりと聞いていました。そして、深々と嘆息しました。
指先で唇を弄んだり、手を組んだり、また組み替えたり、しばし落ち着かない様子を見せましたが、やがて立ち上がり、居室の奥に一続きになっている臥所へと向かいました。
部屋の真ん中に鎮座する、天井から薄絹を吊った柔らかな寝床に飛び込むと、突っ伏して動きませんでした。随分してからようやく億劫そうな仕草で靴を脱ぐと、ぽいと放り出し、薄絹の留め紐をひっぱって臥所を覆い隠すようにすっかり下ろしてしまいました。そして赤子のように身体を縮めると、頭から上掛けを被ってしまいました。
【 前頁 / 目次 / 次頁 】
2008.05.17 公開
2009.03.07 修正