異界を渡る物語 第一章 第四話



 ニーロニィが次に気付いたとき、既に神界は闇夜を迎えていました。いつの間にか眠っていたようでした。寝所は夜の青に染まり、月明りが差していました。
 神の娘は薄絹を分けて裸足のままそっと寝床を抜け出すと、夜に誘われるように露台へと出てゆきました。滑らかな、白い、美しい高欄に身体を凭れさせると、ひんやりとして頭が冴えました。
 見上げると数え切れない星たちがきらきらと、月明かりに負けじとばかり、夜空に銀の砂を散らしたように輝いていました。もっと頭を上げれば月が見えるはずでしたが、そのような気持ちになりませんでした。
 彼の人の生死は既に分かたれただろうかと、神の娘は考えました。あのとき乙女の与えた癒しにより、矢傷で命を失う恐れはなくなっていましたが、気を失ったままで荒地に倒れていれば、沢山の危険がありました。運良く何者かの手で救われているか、自ら立ち上がったのか、それとももしや恐ろしい生き物にでも食まれているのではと思うと、腹の底に何かがじわりと滲み出て失われていくような心地がしました。やはり呪いを受けたのだ、と思いました。あの人間は何かの術を身につけていて、あの瞬間、呪いで縛ったに違いない、と考えました。
 神の娘は今までに何度も人の子を救ってきました。親に捨てられた子、病に侵された子、不慮の事故に見舞われた子など様々でしたが、このように心を囚われることなどありませんでした。
 解かねば、と思いました。
 始まりの神も死の双子も何も言わないのであれば、取るに足らないほどの弱い呪いなのか、若しくはあの男が神をも欺くほどの手練れで、それほどまでに見事な技でもってことを為したのか、いずれにせよ、自らの身に呪いがあるのであれば、それは解かねばと思いました。
 そう思い至った途端、どうにもじっとしていられなくなりました。急に胸がどきどきと高鳴って、背筋から頭の芯までがじんわりと焦げるように感じました。爪先がそわそわして、じっとしていられず、露台をぐるぐる歩き回りました。
 突然立ち止まって、勢いよく両手で顔を覆いました。顔を覆ったまま、しばし訳もなく息を詰めていました。が、
「ああ!」
 と、声とも息ともつかないものを吐き出しながら身を捩り、ぱっと顔を上げて高欄へと一歩踏み出しました。
 踏み出しましたが、たったの一歩で踵を返してしまい、両手で柱に縋りつきました。それからまた一歩、踏み出そうとして、引っ込めて、冷たい柱にこつんと額をつけました。
 そんなことをして、からっぽの躊躇いをしていましたが、とうとう、えいと神の娘は意を決しました。
 顔を上げ、今度こそ行こうとしましたが、ふっと何かに気付いたように足を止めました。そして杖の先をこつんと床につけると、光の紋様が浮かび、その姿は掻き消えました。今頃は従者達も皆眠りの中にあるはずなので、このような細工は必要ありませんでしたが、念には念を入れて万が一に備えたのでした。そして、いざ出て行かんとしたところで、またしても思い止まると部屋へ戻り、寝床から一枚の薄絹を取り上げ外套代わりに肩からかけました。そしてようやく今度こそ本当に部屋から抜け出しました。
 高欄を乗り越えて露台からひらりと身を躍らせると、足が着くより早く地面に紋様が浮かび、着地することなくそのまますうと浮上しました。杖に腰掛けるいつもの格好になると、門ではなく外壁を目指しました。
 美しい庭の木々を縫い外壁へと辿り着くと、神の娘はそこへまで来ていながら怖気づき躊躇いました。ちらりと空を見ると大きな月が、悪事を暴こうと意思を持ってこちらを照らしているかのように思えました。しかし、ここで引き返すなら何故出てきたのかと己を叱咤し、更に、姿を隠すのはただ無用の混乱を避け従者たちに心配をかけぬための措置なので、後ろめたいことはないのだと言い聞かせました。また本当に問題があるならば全知であられる始まりの神がその力を持ってして行く手を阻まれることであろう、阻まれぬならば許されている印であると自分を奮い立たせ、とうとうその壁を越え外へと飛び出しました。
 神界の夜は静寂そのものでした。神の娘の耳には、自らの風を切る音のほか聞こえるものはなく、時が止まっているかのようでした。ただ乙女だけが夜を切り裂いて飛んでいました。
 神の娘は、許されている、と思いました。
 白の館を遠く離れても始まりの神による咎めはなかったので、俄かに心が軽くなり、意気揚々と進みました。
 いつも界を越える、いわば姿のない門のような場所へ辿り着くと、高鳴る鼓動が胸を打つのもそのままに、一気に人界へと突き抜けました。止まってはならないような、そんな気がしていました。


* * *


 人界の夜は、神界よりも幾分か暗く思えました。
 神界で見るよりも小さな月は、彼の地ほどの光を届けてはおらず、星々もいくらか少ないように思えました。それでも月明かり、星明りは充分に地上へ届いていましたが、初めて夜の人界を目にした神の娘は、初めて独りで人界を訪れた神の娘でもあったので、上空に留まったまま僅かに身震いしました。
 何もしないでいることが恐ろしくて、神の娘は早速、例の男を探すことにしました。腰掛ける格好を一旦やめて、
「風たち、わたしをたすけて」
 と呟くと、そこかしこから、しゃらしゃらと答える声が聞こえました。
「探し人です。こんな風貌をしているの」
 目を閉じて、彼の男の姿を瞼に描きながら、こつんと杖に額を当てると、風たちが得意げに頷きあう気配がしました。
「ありがとう。お願いします」
 不意にひょうと風が吹きました。それは道案内で、神の娘はくるりと杖を回すと再びそれに腰掛けて、流れるように風に乗り、進路をとりました。
 しばしの後、神の娘はあの塔の都から僅かばかり離れた、ある森へと誘われていました。風たちの導きは、森の深くへ続きました。そして大小の湖が点在する場所へと辿り着きました。空から見るそれは、森の中に突然ぽこぽこと穴が開き、そこから空が覗いているかのように見えました。
 それら湖の畔には、都と呼ぶには小さな、人の集落がありました。それらに灯りはなく、空からはよほど目を凝らさねば見つけられないほどで、どうやら既に何者もそこを住処としていないらしいことが伺えました。風の案内は、しかし間違いなく、その打ち捨てられた集落へ向かっていました。
「此処なのですか、彼の人の居場所は?」
 思わず呟くと、風はくすくす、しゃらしゃらと頷きあいました。
「……わかりました。どうもありがとう」
 神の娘は指先に小さく口付けて風に贈り、そのまま打ち捨てられた集落へと降りてゆきました。ひっそりとした夜の空気にほんのりと浮かぶ、質素ながら不思議に雰囲気を持つ民家の合間に、小柄な身体がふわりと着地しました。風の言うことには、此処に件の男がいるはずでした。
 しなやかな猫のような歩みで、神の娘は辺りを伺いました。辺りは廃墟らしく寂として、月明かりが、えも言われぬ趣を与えていました。
 歩くたび、さり、さりとほんの僅かに足音が立ちましたが、それを何者かの足音として聞くことは困難でした。何しろ夜の森の静寂とは無音ではなく、夜行性の生き物たちの息遣いや、木々や鳥たちの寝息、身を潜めた風の気配、水や土の静かな吐息など、あらゆるものによって構成されているのでした。エルタリク、すなわち愛すべき神の娘の足音は何の不自然もなくそれらに溶け込み、そこには些かの不調和もありませんでした。
 あの男は何故こんな場所に居るのだろうかと、神界の乙女はひとり思案して首を傾げました。崩れかけた家屋に人の住まうものとしての生命の息吹は既になく、ただ沈黙して死骸のようにそこに在り続けていました。埋葬されない死骸はただ朽ちていくのを待っており、緩やかに世界へ帰っていくばかりでした。神の娘の心は役目を失ったそれらを哀れみ愛しみましたが、地に住まう人にとってはそういった感情が必ずしも当然でないことを知っていました。
 もともと僅かばかりだった民家の連なりが終わると、湖の畔が現れました。するとそこには、多くの者が静を感じるだろう光景の中にあって、間違いなく目を引く動の存在がありました。
 男でした。
 神の娘は姿を消しているとは言え、例の出来事を思うと堂々と出て行くのは躊躇われました。見ると、男の斜め後ろ、近すぎず遠すぎず、ちょうど良いところに一本の樹が立っていました。これ幸いと幹に隠れるように身を寄せ、そこから様子を窺うことにしました。
 顔を覗かせて、神の娘はぎょっとしました。
 男は、下穿きはそのままに、上着の袖を抜いて上体を晒していました。どうやら身を清めているのでした。手にした布は湖の水で濡らされており、それで身体を拭っていました。
 肉体が、月明かりに映えていました。成熟した男の筋肉は力強く隆起していて、動くたび、その逞しい上腕に、引き締まった背に、もしも触れたならばどのような触感を味わえるのだろうかという想像を誘わずにいませんでした。そしてその肌が手にした布で濡らされると、僅かばかりの月の光をしっとりと妖しく照り返すのでした。
 更に、ふとした瞬間に見える横顔もまた、神の娘の目を惹きつけました。つり気味の目に、しっかりとした眉、通った鼻筋、厚すぎず、しかし薄くはない唇、そして力強い線を描く輪郭と、精悍と表現するに相応しいそれらによって構成された顔は、決して神々のように優美ではないものの、野生の獣を思わせる美しさを持っていました。癖の強い黒髪が無造作に下ろされ、着衣を取り払った裸の肩にかかっていることも目に付きました。
 ただ人の男の行動を目にしているだけであるにも関わらず、神の娘の胸の鼓動はかつてないほどに忙しなくなりました。急に心臓がその位置をはっきりと主張し始め、指先、爪先はじりじりとして、目を逸らすことが出来ず、何度も唾を飲みました。逃げ出したいような気持ちがするのに、それとは裏腹に強力な何かが身体ごと引き寄せているのでした。
 おそらくこの男は夜に愛されているのだ、と乙女は思いました。月と星の灯りは彼の者の姿を幻のように照らし、顔に、身体に、淡い陰影を作り、その雰囲気はなんとも言えず魅惑的でした。先ほどは神界のそれよりも少ないと思った月の光でしたが、今はちょうど良いと感じました。むしろ神界のように明るくては無粋であるとさえ思えました。
 神の娘にとって、このように何者かの肌を見るのは初めてのことでした。神界に身を置く者は皆、人前で肌を露出することを好みませんでした。神々はもとより、目付け役と言っても良い生真面目なラハトハスや、いつでもきれいに身なりを整えているエルシル始め、従者たちも常にきっちりと襟を正しており、お調子者のあのプレアスタンでさえ胸元を寛げるようなことはありませんでした。神の娘自身もまた全身を包み隠すような衣を纏っていました。人界を訪れれば、地域や部族の習慣により大胆に身体を晒す者もいましたが、間近で目にするようなことはなく(それは自然の成行きのようでもあり、ラハトハスの思惑のようでもありましたが)、この初めての経験が神の娘を惑わせていることは間違いありませんでした。
 これはもしかしたら、酷く賎鄙な行為なのでは、と汚れなき乙女は思いました。何者かの裸を覗き見るなど、そもそもしないことが自然であって、誰に悪い行いだと教えられたわけでもありませんでしたが、良い行いであるとも思えませんでした。しかし罪悪感にも似たその心こそが自らを唆しているのを、同時に感じていました。
 神の娘は己の浅ましさを嘆きました。しかし一方で、男性の裸体とは斯くも美しいものであるのかと、清らかな感動に打たれていることも確かでした。ラハトハスの体躯の見事さには見慣れているつもりでしたが、それはいわば厳重に封をされた包みを見て、その見かけに感嘆していたようなもので、包みを解いた本当の中身を知ってはいなかったのでした。
 覆い隠すものを取り去ったそれを見る行為はひどく背徳的で、甘美な戦慄を齎しました。それらの純粋なものや不純なものが綯い交ぜになって、神の娘の頭の中を満杯にしました。足元の不確かなおぼろげな不安と、身体の内側が熱風に舐められて火傷を負ったような奇妙な焦燥とで、身体中の血が速く巡っていました。
 しかし神の娘にとってひとつの衝撃的な出来事であり初めての経験であったそれも、男にとっては何のことはない行為に過ぎぬようで、見惚れているうちに手際よくそれは済まされました。神の娘は男が衣服に手を掛けたのを見て、つい、溜め息を吐きました。たった今の目の前の光景があまりに美しかったので、芸術品に覆いをかけられるような気分になったのでした。
「何者だ!」
 事態は一転しました。溜め息が零れ落ちた途端、男は神の娘が身を隠している樹に目を向け、鋭く誰何しました。我に返ったように神の娘は息を呑み、ぱっと樹の幹に身を隠しました。姿を消しているのだから、物陰に入ろうと入るまいと変わりないはずでしたが、何故か男には自分の姿が見えるに違いないという確信めいた直感が迸ったのでした。
「そこに隠れているのか」
 男が今どうしているのか、神の娘には見えませんでしたが、代わりにあの時見たぎらぎらと輝く瞳が記憶の中から射竦めてくるのでした。
 実際、男は剣を手に鋭い目で、樹を盾に立ち回ろうとしているらしい相手、を、睨めつけていました。
「姿を見せたらどうだ」
 逃げ出すなら逃げ出せばいいものを、神の娘はその場に留まっていました。何故か、いっそ恐ろしい目に遭ってしまいたいという願望の火種が、心にちらちらと燻って、それが足を縫い付けていました。それどころか、自ら男の目の前へ出て行きたいとすら思わせました。
「出て来ないか」
 男の口から放たれる低い声が、安全や平穏を求める心をあっさりと吹き飛ばしてしまいました。鋭く恐ろしいはずの声でしたが、それが自分に向けられていると思うだけで、叫びだしたいほどに胸が震えました。身体が熱くなりました。神の娘にとって、その声音が己に向けられていること、ただそれだけが苛烈なまでに現実で、そのほかのことすべては急激な引き潮に攫われたように己の世界から遠のいてしまったのでした。
 あの瞳を現実にもう一度目にしたいという逆らいがたい強烈な欲求が間欠泉のように噴きあがりました。ついに、葛藤らしい葛藤もないまま、熱に浮かされるようにして乙女は心の制御を失いました。
 乙女はひらりと躍り出ました。
 その身を庇うものはなくなりました。
 同時、一閃。
 世界が音もなく騒ぎました。沈黙のざわめきが駆け抜けました。愛すべき存在の危機に、風たちは身構え、湖の水は固唾を飲み、土は息を詰めました。
 鋭い切っ先が、白の乙女の鼻先に突きつけられていました。
 神の娘は剣先を──生き物を殺傷することを目的として作られ、そして使われ、今まさにその柔らかな肌を切り裂き血を滴らせたかもしれない武器の鋭利な先端を向けられていながら、傷つけられる恐怖とは全く異なる得体の知れない昂りに震え、
「ああ……。やはり、わたしが見えるのですね」
 と呟きました。
 男がその気になればすぐにでもその刃で胴から両断できるというのに、乙女はまるきり無防備でした。
 己を狙う切っ先など見えていないかのように視線はそれを素通りし、驚愕に染まった男の顔を見つめていました。
「わたしに、見覚えが?」
 尋ねると、男はゆるゆると剣を下ろし、片手で顔を押さえ強く目を閉じて、もう一度目を開きました。幻だとでも思ったのか、瞬いても目の前の者が消えないとわかったら、驚きで詰めていた息を震わせるように深く吐き出し、
「貴女は……」
 と囁くように言葉を零しました。やはり、と乙女は思いました。
 その掠れたような声と、何事かを秘めたような瞳とに、身体の芯が揺らぐような錯覚を感じて、神の娘はごくりと喉を鳴らしました。そのまま見つめ合ってはどうにかなってしまいそうで、とにかく声を発しなければと考えついた途端、思い出したように焦りが湧いてきました。何か話すべきこと、と、動揺しつつ考えると、ここへとやって来た理由を思い出し、
「呪いを、」
 と切り出しました。何かも何も、それこそが目的であったのに、すっかり頭から抜け落ちていたのでした。
 一度深く息をつき呼吸を整えて、神の娘は続けました。
「呪いを解いてください。あのとき、わたしに呪いを授けたのでしょう?ああ……そうだわ、これも、呪いのせいに違いなかったのね」
 なるほどこのどこか正気でない心地も呪いのせいなのだと、まだ熱っぽい頭でそう思い至りました。額に手を当てましたが、熱を冷ますことはできませんでした。そうしながら、ちらちらと男の様子を窺いました。
 男は困惑した様子で、美しい揺れる瞳を受けていました。口を開きかけて噤み、何か思案しているようでした。
「……解けないのですか」
 神の娘はそう訊いてみましたが、なんとなく、このまま解けなくても良いような気がしました。そういう気持ちにさせることさえ呪いの悪質な力のひとつなのだとしたら、自分はすっかり囚われてしまっていると思いましたが、やはりそれも大したことでないような気がしました。
 そのまま双方、黙ってしまいました。
 男は未だ何か思案しているようだし、神の娘は返答を待つほかにどうして良いか見当がつきませんでした。訪れた沈黙に、どこか居心地が悪げに俯いて手をもじもじとしましたが、そうしながら男を盗み見ました。野性的ながら端正な顔や、その黒髪、袖を通さぬまま晒されている身体、衣服や靴、手にした剣など、その男をその男足らしめている要素をひとつでも多く知ることを、頭が勝手に求めていました。
「………見覚えというならば……」
 そうしているうちに、ようやく男は言葉を紡ぎました。
「貴女のその御姿を見紛うなど考えられないことです。しかし呪いとは何のことなのか、私にはさっぱりわからぬ話。そもそも、私からも、貴女にお尋ねしたいことが」
 抜き身で手に握られたままだった剣を慣れた仕草で鞘に納めると、後ろへ下がって片膝をつきました。
「夜の闇の中にあってなお眩いその御姿。神界の乙女よ、私の名はルーウルアウド、または、ラッダと。……貴女こそ、私の名に、姿に、覚えがおありだろうか」
 神の娘はどこか働ききらない頭で首を傾げました。この男はいったい何を言っているのだろうと、目を瞬かせました。神の娘に見覚えがあるというのなら、先日のあの場で見たに違いありませんでした。それならば互いに見たと考えるのが自然で、わざわざ確認するようなことだろうかと思いました。その上、姿を見ただけでは、名前など知れようはずがないのでした。
 不思議そうに考え込む様を否定と受け取ったのか、ルーウルアウドと名乗った男は落胆したように首を振りました。
「やはり……神に名を連ねる聖なる御方にしてみれば、かつて命を救った人の子など、数え切れぬ命のうちのひとつに過ぎぬのでしょう」
「わ、忘れてなど。つい先日のことではありませんか。それに……貴方の名を知る機会はなかったと」
 男はそれを聞くと、瞳を揺らして小さく笑みを浮かべました。
「……ええ。それで、呪いとは」
 男は曖昧に答えました。些か強引な話題の転換だったので、神の娘はますます不思議に思いましたが、質問には逆らわず答えました。
「本当に知らないのですか。貴方がわたしに呪いを……知らない振りをしているのではなく?……違うのですか。そう、ですか。ならばこれは何だと?呪いでないなら、一体?」
 男が問い掛けに静かに首を振ったので、神の娘は途端に何もかも見失ったような気持ちがしました。本当に呪いでないなら、人界までやってきたこと、そのものの意味がなくなってしまうのでした。男の前に姿を現したことの大義名分もなくなってしまいました。
「乙女よ、貴女の仰る呪いとは、どのようなものなのです」
 うろたえだした目の前の乙女に、男は宥めるように声をかけました。
「それは……。あの日から、貴方のことばかりが気に掛かります。先ほどからもずっと、瞳を囚われ、身体は熱く、心は揺らぎ、己を失うところでした……なんて恐ろしい!これが呪いでないなら、一体、何だと言うのです。この焦燥、戦慄、真綿のような痺れ……。まさか……まさか、これが、この熱病の先が死というものなのですか。神の娘たるこのわたしをも死に至らしめる秘術を、貴方は持っていると!」
 言って、ますます取り乱しました。思わず己の明確な身分を口にしてしまいましたが、それにすら気付きませんでした。
「……どうぞお心を穏やかに、神界の方。呪いではありませんが、私に心当たりが。死など、そのような恐ろしいものではありません。尤も私にしてみれば、死にすら値するほどの、大それた、恐れ多いことでもありましょうが」
「死ではない?貴方はこの正体を知っているのですか」
 胸の前で手を固く握り、縋るように神の娘は問いました。
「ええ、存じております。それは我ら人の子にしてみれば、死どころか次の生へと繋がる、誰しもが経験して不思議のないことなのです。呪いでも、病でもなく──…。何の心配も要らぬことです。ご安心を」
 言いかけて男は何かに躊躇し、結論を濁しました。肝心の正体を言わずに、ただはぐらかした結果になりました。
「何を、」
 と、神の娘は眉根を寄せました。
「何を躊躇うのです。ああ!プレアスタンといい、貴方といい……わたしに何を隠すと!貴方は知っていると言いながら、何故そうして口を噤むのです!」
 両手を広げて訴えました。その声には哀しさと苛立たしさと、僅かな不安が含まれていました。
「教えて差し上げたいのは山々ですが、やはり私の口からそれを告げるのは憚られるようです。先ほど貴女が口にされた御名も神界のどなたかのものでありましょうが……神界の方々が何も告げておられないのであれば、何故ただびとの私から申し上げられます。それに……」
 男は熱っぽく神の娘を見上げました。
「言ってしまえば、私とて、後戻りが出来なくなるのです」
 神の娘はその視線を受けて、ハッと息を呑みました。俄かに恐ろしくなり、庇うように両腕で身を抱きました。じわりと熱い、眩暈のような強烈な揺らぎに襲われ、後退るようにたたらを踏みました。
 男の前へ姿を晒した時に気づかず落としていた薄絹を片足が踏みつけましたが、気にも留まりませんでした。
「呪いでないなら、きっと毒だわ」
「似たようなものかも知れません」
「もう身体中に回ってしまった」
「それは私とて同じことです……もうずっと昔から」
 神の娘は今にも泣き出しそうに顔をゆがめていて、男はそれを見つめながら、ゆっくりと立ち上がりました。視線を合わせたまま、見上げるものと見下ろすものが逆転しました。
「昔?」
 一歩、二歩、確かめるように前へ出、
「そう、昔です」
 間近で向かい合いました。
「昔、から……」
 繰り返した神の娘の白い頬に、ごつごつした大きな手が触れました。その手は振り払われることも、拒まれることもありませんでした。先ほど神の娘が恐怖だと思ったものは、どうやら恐怖ではありませんでした。
 ゆっくりと、この上なくゆっくりと男は身を屈め、神の娘に顔を寄せました。睫の先の震えているのがわかりました。呼吸の音、瞳の濡れた輝き、月明かりが肌に落とす陰影、そういったもののすべてを互いに感じあっていました。
 鼻先の触れ合う位置で、男は、
「名を……」
 と、求めました。
「──ニーロニィと……ルーウルアウド。……ラッダ」
「ニーロニィ……」
 乞われるままに名を明かした神の娘は、夢のような瞳で男を見ていました。今から何が起こるのか、何をされるのか、甘やかな危惧が意識を蕩かしていました。
 神の娘は男の名を呼び、その愛称をも口にしましたが、内緒話のように囁きあった名は、ひどく掠れていました。その拍子に軽く鼻先が触れると、とうとう堰が決壊したとばかりに、ルーウルアウドは乙女の唇に自らのそれを重ねました。
「!」
 うっとりと夢現を彷徨っていたニーロニィは、与えられる情熱に翻弄されました。大きな両手で頬を包まれ、激しい口付けを受けたのでした。頭が芯から朦朧とし、何が何だかわからなくなって、目を閉じて逞しい身体に縋りました。その行為の意味するところも知らぬぬまま、身体の奥から生命が沸き立ち全身に反響するような未知の悦びに支配されたのでした。
 一瞬のことだったのか、そうでなかったのか、気がつくと小柄な身体は男の腕に包まれ、その胸に顔を押し当てるようにして乱れた息を整えていました。しっとりとした浅黒い肌から、嗅いだことのない、芳しい匂いがしました。
「私を、」
 ルーウルアウドは言いました。
「私を罰してください。恐れ多くもその御名を呼び捨て、挙句このように不埒な真似に及んだ私を。神のお力を持ってすれば、人の男ひとり命を奪うなど、造作もないことでしょう」
 神の娘は夢中で首を振りました。
「そのような!……そのようなことを……命を奪うなど……」
 まだ上手く働かない頭でたった今の出来事を思い返しました。まだ見ぬ世界へと誘われたことは確かでしたが、罰するべき罪状はないように思いました。ましてや命を奪うなど考えられませんでした。
「いいえ、私はその覚悟でした。貴女に救われたこの身でありながら、己の欲のため他ならぬ貴女に無礼を働くなど、決して許されるものではないと……その時は、謹んでこの命をお返ししようと。まさか本当にその時が訪れようとは夢のようですが、恥ずかしながら私はずっと待ち望んでおりました、貴女に触れる機会を。そしてそれが叶ったのです。この上、もう悔いは無く……死罪でないと仰るならば、どうぞそれに代わるものを……尊い方」
 神の娘は顔を上げました。目の前の男に死を与えると考えただけで、ぞっとしました。
「ならば、ならば与えましょう。人の子ルーウルアウドよ、罰は、話すことです。言ってください、先ほど口を噤んだことを。呪いでもなく、毒に似て非なるものの正体を。貴方は無礼と言いましたが、わたしは先ほどの行為を、嫌悪すべきものとは思いませんでした。感じますか、今、わたしの鼓動が、湖面から飛び立つ水鳥のように激しく羽ばたいているのを!これは嫌悪でも、恐怖でもなく……きっと、歓びに他ならない」
 ルーウルアウドは瞠目しました。そして次第にその瞳に様々の感情を浮かべ、一度きつく瞼を閉じましたが、最後には真っ直ぐに神の娘を見つめました。
「承知しました。謹んで申し上げましょう。呪いでなく、毒でもない、貴女の心を侵しているものの正体は、」
 小さく頷いて言葉を待つ乙女に、それは告げられました。
「人が、恋、と呼ぶものです」
「……こい、とは?」
「ご存じないならば──教えて差し上げましょう」
 そして、どちらからともなく、再び互いの唇は出逢ったのでした。
 ざわりと、世界が震えました。



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2008.05.17 公開
2009.03.07 修正