異界を渡る物語 第一章 第五話



 あの夜から後、神の娘は度々白の館を抜け出すようになりました。
 乙女は、己の心と肉体が女という性を持ち、彼の人のそれが男という性を持つことの意味を知りました。地上の人が誰しも経験するという、恋というものの渦中に、自ら身を投じました。今まで恋を知らなかったことを、心底から不思議に思いました。そして神界の者たちが皆、男女の性別を持ちながら、誰も恋に落ちないことを残念に思いました。恋というものは、こんなにも素晴らしい心の境地に、己を立たせてくれるものであるのに!
 しかし一方では、プレアスタンの言葉を思い出すにつけ、不安を感じました。人の子との初めの出会いを打ち明けた時のプレアスタンの話は、恋や男女についてを暗に言っていたのではないかと、後になってなんとなく見当をつけることが出来ましたが、肝心なところは全くわかりませんでした。全体としておぼろげに感じ取れはしましたが、ラハトハスが何故、神の娘に恋の存在を知らせたくなかったのかということや、清いとか清くないというのが何を持ってして判断されるものなのかなど、ひとつひとつの厳密な内容はさっぱりでした。恋というこの上なく幸せなものの一体どこに、ラハトハスを心配させる要素があるのか、神の娘には理解できませんでした。結局のところ、どうもただ素晴らしいばかりではないと示唆されたようだ、という曖昧さだけが残り、掴みどころのないもやもやとした危機感を心の底に抱える破目になりました。
 不安が募れば募るほどに、乙女は地上に幸福感を見出しました。夜、従者たちが寝静まった後で白の館を抜け出して、人界へ降りては逢瀬を楽しみ、夜明け前にこっそりと寝床へ戻ることを繰り返しました。
 ルーウルアウドは魅力的でした。旅人であるルーウルアウドは、白の館の従者たちには無い、野性味に溢れる誇りや、胆力に由来する美しさを持っていました。そして、白の館の安寧の中では絶対にない野趣や緊張感を味わわせてくれて、しかも、それによって掻き立てられる好奇心を、その知識でもって十二分に満たしてくれました。安全な水を見分ける方法や、野生の獣から身を守る方法など、考えたこともなければ考える必要も全く無かった乙女の目には、すべてが新鮮で、且つ得難いものに映りました。
 乙女は身も心も、次第に地上の世界に引き込まれていきました。


* * *


 月が半分ほど巡ったある日のことでした。
 神の娘の忠実なる僕、デューセリンとファルニエルは並んで机に向かっていました。
 机の上には広げられた書物と、白い紙が何枚か、そして小さな墨壷が置かれ、幼さの残る少年らしい手にはそれぞれ羽根の筆記具が握られていました。書物には、白の館に身を置き神の娘に仕える者の心得が綴ってありました。ふたりはそれを写していました。
 白の館には、二の庭と三の庭の間に、従者たちの住まう屋舎がありましたが、同時期に生まれたデューセリンとファルニエルは、その中に二人部屋を与えられていました。少年達の身奇麗な印象に違わず、部屋も清潔で生理整頓が行き届いており、共有の書棚にはよく手入れされたつやつやの背表紙が行儀良く並んでいました。
 同室の相手と揃って心得の書き写しをすることは、ふたりの日課のひとつでした。無論、ふたりはそれらを既に何度となく読み返しており、その内容はわかっていました。しかしあるいは精神統一のために、あるいは文字の修練のために、またあるいは己の仕える主への高尚な想いを形にするために、従者たちは書を好むのでした。心得のほか、創世記、主の綴った詩文、重鎮と呼ぶにふさわしい時を過ごした古参の従者の修めた、主にまつわる尊くも美しい記録の数々、そういったものも対象になっていました。
 しかし今回の書き写しは、己の為だけでなく、列記とした仕事なのでした。書庫の管理を預かる背高のっぽのエルシルから、正式に依頼されたものでした。一冊文書きあがった暁には、司書たちの手によって製本され装丁が整えられて、書庫に保管される手筈になっているのでした。
 文字を書き付ける細やかな音がふたつ、響いていましたが、ふと片方が手を止めると、それに気づいて、つられるようにもう片方も筆先を休めました。
「どうしたの、ファー」
 先に手を止めたファルニエルに、デューセリンは尋ねました。
「もう疲れたのかい。これは司書長エルシルに依頼された、重要な仕事だよ。頑張らなきゃいけない。これから新しく生まれる僕らの後輩たちが、これを手に取るんだから。そんな大切な仕事が僕らに任されたなんて、大変な名誉だよ」
「わかってるよ、ディディ」
 ファルニエルの返事は明るくありませんでした。友の言葉に促されるように金の筆先を墨壷に入れ、続きを書く準備をしましたが、小さく溜め息を吐くと浮かない顔で俯いてしまいました。
「どうしたの。白衣のエルシルが僕らの文字を美しいと認めてくださったんだよ。嬉しくないの、ファー。青衣の僕らを、あの司書長エルシルが褒めてくださったのに」
「勿論、嬉しいよ。……ディディは書庫の管理役になりたいの?」
「うーん、それもいいけど。やっぱり剣を修めて、もっと知識を身につけて、主ニーロニィの御身を近くで守りたいよ。ラハトハスのように」
「君が白狼ラハトハスの役割になるなら、ラハトハスが引退しなくちゃいけないよ」
「別に、そういう意味じゃないさ。ラハトハスは誰にも負けないし、いつまででも健在だよ。主があんなに頼りにしておられるんだから。でも、いつか僕が同じ役割を果たせるくらいになったら、肩を並べて……もしかしたら交代とか……そういうのも、あると思うんだよ。───あっ、ファー、墨が!」
 ファルニエルの手元で、ぽたりと音がしました。筆先から、上の空で吸わせ過ぎた墨が落ちて、白い紙に、淵のいがいがした小さな黒丸が出来てしまいました。
「あーあ、台無しだ、書き直しだ。どうしちゃったんだい。君がぼんやりするのはいつものことだけど、これはちょっとひどいよ」
 哀しいような困ったような顔で落胆するファルニエルの顔を、デューセリンは覗き込みました。
「何があったの。悩みがあるの?」
「悩みというわけじゃあないんだ。ただ少し……その、気になるというか……。うん、気になるんだ」
 ファルニエルは墨をふき取ってから筆を置いて、向き直りました。デューセリンもそれに倣いました。
「何がそんなに気になるの」
 もじもじとして、なかなか話し出さない内気な少年を、利発な少年は急かしました。しかし言葉に迷っているのか、指先を弄んだり、口を開いたり、また閉じたりしながら、ファルニエルは喋りだすまでに更に少々の時間を費やしました。
「じれったいなあ!」
「……ごめん」
 いつものやり取りでした。
「話すよ。気になるのは、他でもない、主ニーロニィのことなんだ。最近、どこか、その……ご様子がおかしいと思って……おかしいって、それこそおかしな意味ではないよ!でも、でも……なんだか、変にそわそわしていらっしゃる。そうかと思えば、心此処にあらずとぼんやりとなさっていたりして……」
 それを聞いてデューセリンは眉根を寄せました。
「ファー、僕らはもともと、近くでお顔を拝見する機会さえ滅多にないじゃないか。どうしてそんなことがわかるんだい」
「そうなんだ。近くでなんて滅多にないけど、全くないなんてわけじゃあなかった。たまにはあったのに。それは主がいつも三の庭や、従者たちの仕事場に、ご自分で足を運んでくださっていたからだと思う。でもここのところ、すっかりお目に掛かる機会が減って……しかも偶々お見かけすると、今言ったような風なんだ。何かあったんじゃないかと思うと、気が気でないんだ」
 内気で無口な友人がいやに饒舌なので、デューセリンは少々面食らいました。また自分が思うよりもずっと主のことをよく見ていた事実にも、驚きを隠せませんでした。
「何かって……何があるっていうの。ここは神界だよ」
「うん。ここは神界だし、僕らの主は神の娘であらせられる。まさか病を召されるなんてこと、ないだろうし」
「あるわけないさ!それに主にはラハトハスだってついているんだから、何事もあるはずがないよ。そうだ……ほら、少し以前に、復讐の神カスクと夢の神ファメルが仲違いをされたことがあっただろ、あの時も主はお心を痛めてらしたじゃないか。きっと、またそういう何かがあったんだよ。主はお優しい方だから」
 そうならいいんだけど、と、ファルニエルは心底心配そうに呟きました。それきり視線を落として黙ってしまったので、デューセリンも口を閉ざしました。ちらちらと友人の様子を窺いながら、手持ち無沙汰を誤魔化すように羽根筆を手にとって弄っていましたが、そのうち、「あーあ!」と大きく伸びをして、
「……ねえファー、君は心配性すぎるんだよ。いつもあれやこれや、何かしら悩んでるじゃないか。考えすぎはよくないよ」
と、ファルニエルの肩を叩きました。
「でも……」
「大丈夫。主の御身に何かあれば、始まりの神が黙っておられるはずがないじゃないか。それに君が気付くことならラハトハスやエルシルや、そのほかの近しい方々だって気付かないわけがないんだから、本当に病や何かだったら、今頃大騒ぎになっていなくちゃおかしいよ。そうでしょう?」
 優秀で利発な少年に言われ、控えめで悩みがちな少年は、小さく頷きました。友人の言うことは尤もで、なるほどその通りというものでしたが、胸のうちに沈殿して心を苛む不安を取り除くことは出来ませんでした。しかし、
「そうか。そうだね。ディディの言う通りだ」
 と、すっかり納得したように笑ってみせたので、それを見たデューセリンは安心したように笑い返しました。
「そうとも。だいたいファーは臆病なんだよ。あれも不安、これも不安!黄金竜ともあろう者が、もっと闊達にならなきゃ」
 黄金竜、というところで、大きく手を広げました。そしてファルニエルの金色に輝く美しい髪に触れようと手を伸ばしました。ファルニエルは笑うような泣くような顔をしながら身を捩って逃げました。
「やめてよ。……僕らはまだ生まれたばかりだよ。何色をしていたって、幼生に大した力なんてないじゃない。黄金竜なんて……呼ばないでよ」
「勿論生まれたばかりだよ。でも僕らは、その力のない生まれたばかりの従者なのに、こうして第二の姿を頂いたじゃないか!僕らより先に生まれた従者だって、まだ人の姿をしてない者はたくさんいるよ。名誉だよ」
「……僕は名誉なことなんてしてない。立派なのは君だよ。僕はたまたま君と一緒にいて、金色をしていたから」
 デューセリンは呆れ顔で肩を竦めました。
「君ときたら、本当に奥ゆかしいよ!僕だって出来るなら金色が良かったのにさ」
 その言葉のあと、ふつっと会話が途切れたので、ふたりはどちらからともなく、再び無言で書を始めました。軸の返しを誤って墨が飛ばないように、字が歪みなく美しいように、行が斜めを向かないように、細心の注意を払って書かねばならないので、すぐにふたりとも手元に熱中しました。小さな二人部屋に筆の先が紙の上を滑る音と、ごく僅かな衣擦れの気配、そして時折、紙をめくる音がささやかに絶え間なく続き、少年たちに時間を忘れさせました。
 やがて墨を乾かすための場所が足りなくなり、区切りも良い頃合いになったので、今日はここまでと決めました。墨が乾いているかどうか、専用の布を字の上にそっと当てたりしてよくよく丹念に確かめながら、広げた紙を順番通りに重ねてまとめていきました。
「あっ。ディディ、ごめん。それは墨が……」
 デューセリンが手に取った一枚は、先程ファルニエルが墨を垂らして黒丸の汚れをつけてしまった紙でした。
「なんだ、ファー、ちゃんと除けておかなくちゃ。一緒に本になってしまうところだったじゃない」
「──…!……ごめん……」
 ファルニエルが注意されてうなだれるのはいつものことなので、デューセリンは手元を見たまま顔も上げませんでした。
 そのため、この時ファルニエルの様子が単にしょげている風でなく、デューセリンの言葉で何か思い当たったように顔色を悪くして、視線をここでないどこかへ飛ばしていたことにも、気付かなかったのでした。



前頁 / 目次 / 次頁

2008.10.25 公開