異界を渡る物語 第一章 第六話



「──来たのか」
「きゃあ!」
 そうっと、そうっと、気取られないようにと息を殺して、慎重に背後に近づこうとしていた乙女は、背中を向けているその相手に振り返りもしないで声を掛けられ、反対に悲鳴を上げてしまいました。ひんやりした夜の森の空気に小さく一筋、かわいらしい引っかき傷をつけるような声でした。
「ずるいわ!今、わたしが脅かそうとしていたところなのですよ!」
 思わず手を引っ込めた格好のまま、乙女は頬を赤くして抗議しました(辺りは闇でしたが、乙女の姿は淡く輝いて目に映ったので、その薔薇色を見ることも叶いました)。まんまと手玉に取られた恥ずかしさも勿論、その逞しくしなやかな背中に後ろから抱きついた時の感触を想像して、これから思い切りそれを味わおうと思っていたのに、お預けにされたのが悔しかったのでした。
 男は決まり悪いような拗ねたような顔の乙女に、それはすまなかった、と、笑いを殺しもせずに答えました。
「待っていた。ニル」
「風たちが悪戯したのですよ。まっすぐ導いてくれなくて、ずいぶん遠回りをしてしまったのです。今だって、ほら」
 地上では殆ど風のない穏やかな夜でしたが、月は雲と気紛れなかくれんぼを楽しんでいて、世界は俄かに明るくなったりまた暗くなったりしていました。
 夜を好む鳥の声がどこともつかないところから微かに聞こえました。
「責めてなどおらんさ。むしろ、一所に留まらない俺をよくいつも見つけるものだと関心している」
「色々と便利な業を心得ているのですもの!あなたこそ、よく毎回わたしの来るのを察したものですね。迎えに出てくれたのでしょう?不思議だわ。それもあなたの言う恋というものですか?人の子は皆、恋をするとそんな術が身につくのかしら」
「さあな」
 ルーウルアウドはごく自然に乙女の手を取り、岩肌に口を開けた亀裂へと乙女を導きました。見たところ人がやっと通れる程度の幅しかありませんでした。中がどうなっているか知らなければ、入ってみようなどという気など簡単には起こらないだろうものでした。
 入り口辺りで微かに甘い香りがしました。匂いの元は、叩いて揉んだぎざぎざの葉っぱでした。ルーウルアウドが獣除けに撒いたものでした。
「甘薫草(かんくんそう)の葉ですね!この辺りにも槌鼠(つちねずみ)がいるのですか」
「それもいるが、槍鼠(やりねずみ)が出る。さあ、中へ」
「槌鼠も槍鼠も他の多くの獣たちも、自分より大きな大斑猫(おおまだらねこ)を恐れるのですよね。だから大斑猫の匂いに敏感で、大斑猫が縄張りを示すためにつける匂いとよく似た甘薫草を撒いておくと、敵がいると勘違いして近寄らなくて……でも実際は、大斑猫の棲家はもっと険しいところで、それに匂いを強く出すのは繁殖期だけなのですよね。今は時期外れだから、当の大斑猫を呼び寄せてしまうこともなく、獣除けとして使えるのです!」
「その通りだ」
 乙女は得意げな子供のように目を輝かせて言い、男は笑いを含みながら答えました。
 両手を左右の壁に触れ、一歩一歩確かめるようにしながら恐々と亀裂の中に入ると、足元は一旦上りに、その後緩やかに下りなり、その先は開けて、ちょっとした部屋のようになった空間を蝋燭の明かりが照らしていました。
「木蝋ですね。気を使ってくださったの?獣脂の蝋燭は匂いが強いと言っていたわ」
「よく覚えることだな」
 座る場所に自分の外套の脱いだのを敷きながら、ルーウルアウドは喉をくつくつと鳴らしました。
「だって楽しいのですもの!神界ではこんなこと、誰も教えてくれませんでした。もう少しあなたと過ごしたら、きっとわたし、一人旅くらい出来るようになるのではないかしら!」
 ルーウルアウドは子犬のようにちょこまかと後を着いてきた乙女を両腕で抱き寄せて、そのまま一緒に腰を下ろしました。
「無理だな、こんなに柔な身体では。お前を狙い、けだものがわんさと寄ってきて、一口にげろりと喰われてしまう」
 火が揺れ、洞穴の岩壁に映るふたりでひとつの影も一緒に揺らぎました。
「まあ。神の娘に悪さを働ける獣など」
「ここにいる。それ、食らい付くぞ」
 ルーウルアウドは片手で乙女の顎を上げさせ、唇を合わせました。乙女はうっとりと目を閉じて、身を委ねました。
 唇に愛撫を受けながら腕を伸ばして杖を出現させ、手元を見ようともせずにそれを傾けました。こつん、と地面を打つと、光の輪が水面の波紋のように広がりました。
 やや乱暴なくらいの熱い睦み合いの後、二人は小さくついばみあい、じゃれあいました。特に意味のある会話を交わすでもなく、触れ合う頬のくすぐったさや、甘く痺れる耳たぶに笑って、無邪気で他愛ない時間を楽しみました。
「ねえ、さっき……」
 ふと乙女はルーウルアウドの両肩に軽く手を置いて顔を上げました。
「俺たち、と言いましたね?それはだあれ?いったいどんな方?あなたのお友達ですか」
「友達か。そうとも言うが……まあ、同族だ」
 ちらちら揺れる明かりがルーウルアウドの顔や首筋に揺れるのを、乙女はぼんやりと見ました。
 ルーウルアウドは自分のことを、多く語りませんでした。例えば、乙女は初めて出会った時にルーウルアウドが何故追われていたのか、矢を射掛けたのは何者だったのかを知りたいと思い尋ねたことがありましたが、うまくはぐらかされてしまいました。神の娘たる乙女が強いて命じれば、人の子が従わぬわけにはいかないとわかっているだけに、訊いてくれるなと雰囲気で示されているものを重ねて問いただすのは卑怯であると自粛して、結局そのまま有耶無耶になってしまったのでした。
「同族とは、同じ血の者たち、ということね」
「そうだな」
「あなたの一族は、皆、旅から旅を続けているのですか。郷里を持たないのですか」
「……そうだな」
 大きな手が乙女の頭を引き寄せました。乙女は顔を横向きにして、胸に頬を押し付ける格好に落ち着きました。
「流れ流れている。決まった土地を持たず、成人して後は群れることもなく……。幼いうちに、一人で生きる術を叩き込まれる。親の元を離れたら、あとは流浪だ」
「では、いつも世界中に散り散りなのですか」
「夫婦になれば共に生きるし、子を産むときは一族の助けを借りる。散り散りになってはいるが、連絡の手段はある」
「どんな?」
「鳥を使う。鳥を卵から孵して世話し躾ける。昔から一族と共に生きてきた特別な血筋の賢い鳥だ。代々共に生きる」
「では、あなたにも?」
「俺のイシカは死んでしまった。どこかに番っているのがいるはずだから、ここのような一族が共通の塒に使っている所々に、卵を譲って欲しいと秘密の文字で書き残してきたんだが───…誰か来たな」
 ルーウルアウドは急に声を落とし、入り口のほうを向いたまま乙女を膝の上から降ろし、腰を浮かせました。
「獣ですか」
「いや」
 乙女は横に退けて下がりながら、ああ、この男はあの時たまたま狙われたのでなく、常に何かから追われているのだと思いました。それも、ルーウルアウドだけでなく、恐らくは彼の言う同族たちが皆、そのように宿命付けられているのだろうと思いました。何者かに付け狙われることや、逃げ隠れ続けることに慣れていて、また、それを受け入れているようでした。
 ルーウルアウドの手が傍らから刃物を取り上げたのを見て、思わず胸の辺りをぎゅっと手で押さえました。あのときの、矢の刺さった部分からじわじわと滲み出てくる血の色を思い出したのでした。
「ラッダ。さっき、いつものように存在を絶っておきました。わたしたちから相手が見えても、相手には見えません。声も聞こえません。もっと根源的に、わたしたちは今、ここには居ないのです。だから……」
 小さく頷いて返事はしたものの、鋭く研ぎ澄ました意識を向けていることは変わりませんでした。
 乙女はごくりと喉を鳴らしました。
 今まで存在を絶っていたのは、ただ甘い時間を邪魔されたくないという思いと、なんとなく後ろめたくて、隠れていたいという気持ちだけのためでした。それも隠れるというのは神々や精霊たちからであって、このように他の人間と接触することもあるなどと深く考えていませんでした。想定外の危機が迫っていました。
 神の業を用いているのだから安全だと思う一方、例の時ルーウルアウドには姿が見えたという事実もあり、乙女はそわそわしました。万が一、害意を持った相手に存在を感づかれたような場合、己の器量だけで凌げるものかどうかが、不安だったのでした。
 存在を絶っていなければ、今、乙女や乙女の好ましく思っている人物に危険が迫った場合、蝋燭の芯を燃やしている火の精霊が、精霊自身の意思で敵に向かって行ってくれるはずでした。が、精霊は神の業によって乙女とルーウルアウドを隠され、忘れたように見失っているので、火で敵を撃退するならば、乙女自らがまるきり己の裁量だけで強制的に操らねばなりませんでした。つまり、乙女が何か見誤れば、失敗して酷い目に遭うことも有り得るのでした。もし判断を誤ったとしても、火の精霊が神の娘を焼くことは考えられませんでしたが、人の子となると話が別でした。自分は火傷ひとつ負わなかったとしても、ルーウルアウドが焼き殺されてしまう可能性は大いにありました。
 更にもうひとつ言えば、地の民に姿を見られたり、人ならざる業を用いていると悟られたりして、神の娘が神界を抜け出して人の男と密会していたことが露見したらどうなるかと思うと、それも大問題なのでした。その先にどんな事態が待っているか想像もつかず、胃の辺りがひやひやしました。
 神の娘がそんな心配をして、喉を鳴らしたり両手を握ったりしている間に、人の気配が近づいてきました。その何者かは、姿を見せる前に暗いところまでで立ち止まって、不意に口笛を吹いたようでした。口笛と知らなければ鳥の囀りの様に聞こえる、不思議な節が聞こえてきました。
「……?」
「ニル。彼は大丈夫だ。彼と話したい」
 張り詰めていた空気を緩めて、ルーウルアウドは剣を置きました。
「今のは一族の言葉だ。そこにいる奴は俺の古い友で、心配要らない。話をしたいが、どうしたらいい」
 乙女は少々戸惑いながらも、杖を出して、地面を突きました。ふたりの存在を戻したのでした。目でルーウルアウドに伝えると、ルーウルアウドはひとつ頷いて、先ほど聞こえたのと良く似た口笛を吹きました。すると、
「やあ、お前だったか!良かった、良かった」
いつかのルーウルアウドと同じ頭帯を巻いた男がどかどかと出てきました。先ほどまでは足音など全く気づかせなかったのが不思議なくらい、一歩一歩重たく踏みしめる音がしました。
「………こりゃあ…」
 闖入者は乙女の姿に気づき、目を丸くしました。
「……なんてこった!別嬪さんを連れてやがる!なんだよう、お邪魔だったならそう言やあ良いのによう。こりゃあ野暮なことをしちまった」
 からかうような顔で歯を見せて、にっ、と笑った男は、ルーウルアウドよりももう少し大きな身体をしていました。身体に見合った豪気な男であることが、話し方から窺えました。
「オリよ」
「ルーよ」
 ふたりは互いに肩を抱き合いました。
「荷を降ろせ」
「そうさしてもらおう」
 大柄な男は厚ぼったい外套を脱いで、背負っていた荷物を降ろし、どっかりと腰を下ろしました。ルーウルアウドも腰を下ろし、所在無げにしている乙女を隣へ座らせました。
「おう。それで。その別嬪さん、俺にも紹介してくれえ」
「下品な物言いをしてくれるなよ。ニーロニィだ。ニル、これはアシュオリだ。気のいい男さ」
「見目もいいだろうによ。それに腕も良いぞう。要領も良い。この真面目腐って、不器用なばっかりの男よりずうっと良い。乗り換えるなら、今のうち」
「えっ?」
 乙女は答えに困り、おろおろとルーウルアウドの服の裾を掴んで顔を見上げました。
「こりゃあ、こりゃあ!ルーよ、お前ぇ、どこぞやんごとない御家のお姫さんでも攫って来たのか!ははは!こりゃ、まあまあ……。で、卵だがな、アスクルとエラのところがちょうど良いようだぞ。あいつらは西にいるらしい。都人(みやこびと)に化けているとよ」
「都人に?何のために都入りを」
「やあ、それが、アスクルの奴がへまをやったんだとよ。エラも腹に子がいるしな、のっぴきならねえってんで、都へ飛び込んだ。おんなじ目にあったら、俺でもそうするかも知れねえ」
 アシュオリが荷の口を解いて中から何か取り出しました。人差し指くらいの長さの細い木の枝を、一握りほど紐でまとめた束でした。一本抜き取って、口に銜えました。もう二本取って、一本をルーウルアウドに、もう一本を乙女に薦めました。ルーウルアウドが受け取ったので、それが何なのかわからないままに、乙女も倣いました。
「そうか。アスクルがな……」
 ルーウルアウドが受け取ったものを噛みました。枝かと思ったのはよく見ると木の根で、香辛料のような香りがしました。乙女は、なるほど、噛んで味わうものらしいと見当をつけましたが、すぐに口に入れるのは躊躇われました。眺めたり香りを嗅いだりして、自分にはわからない会話を聞く間の手慰みにしました。
「そうだ。あのアスクルだ。奴ぁ、そうそう簡単にやられぁしねえぞう。いよいよ手練が出てきやがった。第一、お前ぇもよう、イシカを亡くすなんざ、並みの相手じゃあねえってこったろう。まあ、お前ぇが無事で何よりだが」
「……ああ。手強かった。ドーリを逃がすだけで精一杯だった」
「ドーリと一緒だったのか!ここのところの追手の数は尋常じゃあねえや。あちらさんもどういう訳か、妙に躍起になってやがる。特に西が騒がしいってんで、偶々あの辺に居合わせた奴らは皆、逃げ出す算段を考えててよう、腕に覚えのあるのが、助けてやろうってんで集ってるらしい。お前ぇもその手かと思ったが、そうじゃあなかったのか」
「いや。ドーリにはろくに話も聞けなかったが……あれも西から追われていたのかも知れん」
「そうか。エラは都で出産てことになりそうだ。難儀だぞ。産婆がうまいこと入れりゃあいいが。俺ぁ、西へ行く。出来る限り助けてやりてえ。ルーよ、お前ぇはどうする。そのお嬢さんは……」
 アシュオリが言葉を濁して、ルーウルアウドの横で、木の根を弄んでいる乙女に目をやりました。
「オリよ、ニルは何も知らん」
「何もか!」
 突然に驚きの声を上げられて、乙女はびくりと震えました。自分が悪いことでもしているような気になり、僅かに身を引きながら不安げにルーウルアウドとアシュオリを見比べました。
 と、引き締まったしなやかな腕が乙女の肩を抱き、引き寄せました。乙女はされるまま、ルーウルアウドに身を任せました。
「驚かせたか」
「…いいえ……ただ、何の話か、わからなくて」
 ふたりの小さなやり取りをばつの悪そうな顔で見て、アシュオリは額を叩きました。
「何だ、そうならそうと言っておけよう。ぺらぺら喋っちまった」
「構わんさ。そのつもりで言わせたようなものだ」
 ううん、と唸るような声を出して、アシュオリが木の根を噛み、茶色い皮を奥歯で扱きました。
「……何故、命を狙われるのですか。いつも追われているのですね?ずっと?都に入るのに身を偽るなんて……誰に狙われているというのです」
「おうおう、世界中にさ。俺たちゃあ、世界の嫌われ者ってわけよう。お嬢さんにゃあ、わかるめえなあ」
 刺激的で清涼な香りが、すこし強く漂いました。



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2008.12.27 公開