異界を渡る物語 第一章 第七話



「エルシル!エルシルはいますか」
 昼下がりの白の館で、その主が不意に従者たちの集う図書館に現れたので、司書たちも、偶々居合わせた従者たちもびっくりして、慌てて礼を取りました。美しい襞を描く白い衣の裾を軽く持ち上げて優雅に捌きながらも、見るからに急いでいるといった態で、周りに目もくれず司書室へ向かったかと思うと、奥へ向かって呼びました。
「はい、ここに」
 棚の奥から背高のっぽの青年が姿を現しました。
「エルシル!いたのですね、良かった。わたしの書庫を開けて欲しいの」
 白の館で総じて図書館と呼ばれている一の館のちょっとした離れは、いくつかの部屋から成っていました。ひとつは従者たちのための様々な資料を揃えた大きな図書室で、普通、彼らの間で図書館と言えばそこを指していました。今、神の娘はその図書室に現われて、案内受付を兼ねた司書室入り口の帳場へ声をかけて司書長を呼び、従者たちのためのそれとは別に自分専用に設けられた書庫の開扉を請うたのでした。
 司書長に否やがあるはずもなく、諾と答えました。
「あなた様が書庫の開扉を望まれるのは久方ぶりですね。いったい何をご覧になりたいのです?」
 背高のっぽは驚き顔で言いました。尤もこの穏やかで人の好い青年は、驚いたといっても、いつもよりすこし不思議そうに見えるかというくらいで、その顔は優しい笑顔に違いありませんでした。
「いえ、その……秘密なのです」
「おや。それは、それは。───わたくしは少々外しますが、皆さん、後をよろしくお願い致します」
「忙しいところ、ごめんなさい。司書長を借りてゆきます」
 ふたりが連れ立って出ていくのを、勤勉な若い従者たちは息を呑んで見守り、扉が閉まると共に、震えるため息を落としました。これが図書室でなければ、従者同士、間近で主の尊顔を拝した幸運と興奮とを存分に語り合うところでしたが、場所柄それは憚られたのでした。
 神の娘専用の書庫と閲覧室の場所は、従者たちの図書室の二階に当たりました。
 図書館の入り口から横に逸れゆったりと弧を描いた階段を上がると、まず閲覧室がありました。落ち着いた調度品に囲まれた、あまり広くない部屋に、形や座り心地の違ういくつかの椅子が用意されていました。書庫はその奥にありました。
 書庫の扉の前に立つと、高い背に見合ったしなやかな指が、鍵束から銀色の美しい鍵を選り分けました。
 扉には、枝を広げた樹や鳥などが浮き彫りにされていましたが、あまりにもぴったりと左右が合わさっているので、知らずに見たら彫刻を施した一枚の壁の様に見えるほどでした。よくよく見ると、右の戸と左の戸のちょうど合わさる真ん中に、円を二重にした間に蔦の模様をあしらった小さな飾り彫りがあり、そこに鍵穴があるのでした。
 エルシルは鍵を差し込みました。銀の鍵が鍵穴に収まると間もなく、ひねることもないままに、低く開錠の音が響きました。
 見るからに重い扉は、見た目に反して滑るように開きました。
 整然と並んだ書の森が姿を現しました。
 天井の高いその空間には、頭上から柔らかい光が差し込んでいました。太陽の視線はあくまで穏やかに降り注いでおり、ひんやりした白い神石の壁や床や、神の業をもって劣化から守られた書の並ぶ書架に、優しい光と淡い影が折り重なって模様を描いていました。
「手をお貸し致しましょうか?それとも閲覧室でお待ち申し上げれば?」
「いいえ、大丈夫です。あなたはお仕事があるでしょうから、行って結構よ」
 気もそぞろ、既に忙しなく書架に目を走らせ始めた神の娘に、司書長は淡く苦笑しました。
「……はい。では、わたくしは外すことに致しましょう。御用がございましたら、いつなりとお呼びください」
 ありがとう、と言いながら、乙女の視線はもう背表紙を追っていました。エルシルが一礼して出て行くのを背中に感じながら、気にせず探し物に集中しました。
 神の娘ただひとりのための専用の書庫には、創世記、掟の書、神々の偉業を納めた伝記の数々、詩集、蜜茶や薬酒の調合法と効能、美術書や技術書の類、従者たちの心得、辞書、事典など、従者たちの図書室にあるものと同じだけの書物が、そっくり揃っていました。
 乙女は背表紙を目で辿りながら、足早に奥へ奥へと進んでいきました。
 そう言えば、と、次々目の前に現れる新しい題名を流し読みながら、乙女は思いました。背高のっぽのエルシルが司書長の職に就いてから、ひとりで書庫へ入ったことはありませんでした。優秀なエルシルは、白の館の蔵書のことなら何でも知っていて、乙女がこれと言えばすぐにその本を探し出してくれました。静謐な書庫の空気の中に入っていって、ふたり分の衣擦れの音を聴きながら歩き、司書長の繊細な指が高い書架からするりと目当ての一冊を抜き出す様を、間近で見るのが好きでした。その瞬間のエルシルが、乙女の知る中で最も美しいエルシルなのでした。その姿を見たいが為に、必ず一緒に書庫へ入っていたのでした。
 先ほどのエルシルが、今思えば寂しそうとも取れる口ぶりだった理由に思い当たって、乙女は思わず微苦笑を浮かべました(その表情が、司書長の先ほどの顔と良く似ていたことには、当人は気づきませんでしたが)。
「……さあ、もっと奥かしら」
 気を取り直して、止まりかけた足をまた動かし始めました。
 先にたって導いてくれる頼もしい案内人がいないので、目当てのものを探すのは少々不自由でした。しかし、それでも乙女は、自分が何を調べようとしているのかを知られたくありませんでした。
 乙女は人界の歴史や風習に関する情報を欲していました。あの洞穴でアシュオリから聞いた話がどうしても気になって、調べることにしたのでした。
 ───あの後、気を利かせたのか、程なくしてアシュオリは場を辞しました。しかしルーウルアウドとふたりになっても、結局詳しい話は聞けませんでした。ルーウルアウドは葛藤を抱えているように見えました。何か重大な秘密を持っていて、それを打ち明けようとしているけれども、出来ることなら言いたくないと思っている、乙女にはそう感ぜられました。問い詰められる雰囲気ではありませんでした。
 ぎくしゃくしたまま(少なくとも乙女はそう思ったまま)別れ、神界に戻って床に入りました。いつもなら夜明け前ぎりぎりに慌てて自室にたどり着くところでしたが、それに比べたら随分早く、深々とした闇の中で寝具に包まりました。そうして眠ろうとしてみたものの、様々なことが過ぎっては消え過ぎっては消え、目を閉じてもちっとも眠れませんでした。
 翌日、つまり今日の昼近く、結局いつ眠ったのかもわからず我に返るように目覚めた乙女は、しばらく床から出ずに考えていました。勿論、昨夜ルーウルアウドが黙した内容についてでした。乙女は語られるまで待とうかと思いましたが、やはりどうにも知りたくて、何もせずには居られませんでした。調べてもわからないならその時は仕方がないけれども、じっとしていることだけは、どうしても出来ませんでした。そういったわけで今、書庫に足を踏み入れる運びとなったのでした。
 蔵書は皆、規則正しく並んだ書架に行儀良く納まっていましたが、初めてひとりで捜し物をする神の娘には、迷路さながらに思えました。これが地上であれば精霊に頼んでしまってすぐにでも見つけだすことが出来るのに、と、つい考えましたが(そも精霊は風や火などが、人界において適切な働きをするようにと遣わされたものなので、もともと制御する必要のない神界には存在しませんでした)、何について調べたいのかを洗い浚い白状することになってしまうので、どのみちその方法は却下されました。
 もっと言えば、実のところ調べ物に一番適しているのは知の神クレイスニルの邸でした。膨大などというちっぽけな言葉では表せないほどのありとあらゆる記録が保管されており、しかもクレイスニルの力で本たちは生きた書物と化していました。普段はおとなしく眠っていて、必要な時には、何々について書かれている者はいるかと辺りに問い掛けるだけで自分で飛び出してきて、その件に関して優秀なのは誰かお互いに計りあい、きれいに整列してみせるのでした。質問の仕方を間違えると砂漠の砂ほどの本たちが我も我もと押し寄せてしまう難点はありましたが、やり方さえ間違わなければ非常に便利なのでした。
 そんなことに思いを馳せながらも、乙女は根気よく目当ての資料を探しました。そしてようやく、人界に関する記録の書架に辿り着きました。しかし、随分時間をかけて確かめたというのに、読んでみようかと思う本はついに見つかりませんでした。というのも、この一冊でこと足りる、というくらい核心をついた本を探しても見つけ出せず、ならば少しでも可能性のある本をと思ったら、今度はあんまり数が多すぎて、どれから読んでいいものかさっぱり見当がつかなかったのでした。知りたいことがほんの少しわかるかも知れないしわからないかも知れない、その程度の本の中から必要なものを探すことは、エルシルなら出来たのでしょうが乙女には無理でした。
 結局、書庫に入った理由だけでも取り繕おうと、当たり障りのなさそうな数冊を適当に手に取るだけに終わってしまいました。
 乙女はエルシルを呼び、本を自室へ持ちかえることを告げました。白の書、つまり従者の心得や、創世記など、手ずから調べる程でないものばかりだったので、司書長には少し不思議に思われたようでしたが、別段何を言われるでもなかったので、そのままそそくさと立ち去ったのでした。
 部屋に戻ると、乙女は茶を口実にしてプレアスタンを呼び出しました。
「どうしました。あんまり俺ばっかり呼んじゃ駄目ですよ。不公平だし、何より俺が恐い狼に睨まれるので。……あれ、奇遇だなあ」
 プレアスタンは気軽な調子で入ってくるなり、卓の上の本に気付いて、自分の手にあるものを肩の高さまで持ち上げて見せました。
「白の書!お揃い、お揃い。急なお召しだったもんで、そのまま持ってきちゃいましてね……あ、茶を忘れた」
 乙女は思わず笑ってしまいました。茶をと呼んだのに、肝心の茶を忘れてくるなど、いかにもプレアスタンらしい愉快な失態でした。
「良いのです。お茶はおまけのようなものだから」
「へえ。じゃ、本題は何ですか」
「……」
 プレアスタンはいつものように向かいに腰掛けると、自分で持ってきた白の書を横へ置いて、乙女が書庫から持ち帰った方を手に取りました。乙女が言いだしにくそうにしているのを、親切半分、意地悪半分に知らんぷりして、読むともなしに本の中身を繰りました。
「……そう言えば、ここのところ、いつもの蜜茶をあまり召し上がってないそうですね」
 乙女はちらりとプレアスタンを見ました。琥珀の瞳は何気ない風に手元の書へ向いていました。
「いつもの茶の時間になっても、誰もお呼びにならないとか。噂という程じゃないんですが、小耳に挟みましたよ」
「そうだったかしら。普段だって毎日じゃなかったでしょう?」
「ふうん。じゃあやっぱり今は、主の仰る普段ってのに当てはまらないわけだ」
 あっ、と乙女が口元を押さえました。
「まあ……俺がけしかけたようなもんですから、見当がつくっちゃあ、つくんですが……例の男と何かありましたか?」
 言いながらも目線は白の書へ落とされたままでした。ぱらり、と紙を捲る音が、言葉に続きました。
「………………あり、ました」
 やや長い沈黙の後、やけにぎこちない、小さな返事がぽつりと宙に浮きました。プレアスタンの手が一瞬止まって、それからまた同じ動作を始めました。
「どんなことが?」
 乙女はお説教を受ける子供のように身体を小さくしました。ちらちらと馴染みの従者の様子を伺いました。
「その……。彼が言うには、恋、というものなんですって」
 プレアスタンの手は今度こそ止まりました。顔を上げて、じっと乙女の顔を見つめました。
 乙女はどきりとしました。
 プレアスタンはいつも陽気な笑みやぐうたらな欠伸をしている顔に、真剣というにも少し違う、陰のある表情を浮かべていました。
「……プレアスタン?」
 従者はまた視線を本へと落としました。
「───で?どんな風です、恋ってのは」
「素晴らしいのですよ!」
 乙女は身を乗り出しました。
「わたしが今までに知った感情の中でも、飛び切り喜ばしく、震えるほど幸福で、情熱がほとばしるようで、前後不覚になるくらいの歓喜を伴うのです!本当に……」
 両手をつき、椅子を蹴らんばかりに訴える様は、さながら恋という被疑者の無実を訴える証人でした。実際、目の前の青年は恋と聞いた途端顔色を変えてしまったし、神界に於いてはあまり歓迎されないものらしいという認識もあったので、自己弁護も兼ねて必死になっていたのでした。
「前後不覚ねえ……」
「本当ですよ!本当に、それくらい物凄くて」
「ああ、はいはい。わかりましたって」
 必死に言い募ろうとする乙女を、プレアスタンは呆れたように片手で制しました。ふ、と、ため息にしては短く強めの呼気をひとつ吐いて、顔を上げました。
「それで?そんなに幸せなら、どうしてあんな気まずそうに俺を呼んだんです?何か言いにくそうにしてたでしょ」
 からかうように大げさな抑揚を付けて言うと、にやりと笑って乙女を見ました。
 勢いで立ち上りかけたままの乙女はぐっと言葉に詰まり、目を伏せがちに裾を整えながら椅子に座りなおしました。ちらと盗み見ると、従者の目は笑顔の中にも確かな圧力をもって乙女を見据えていました。先ほどの昏さがなくなったと安心する間もなく、今度は大いに少々気後れしました。
「ええ……その。つまり、わたしは彼の人と恋をしています」
「そりゃ聞きました」
「それで知りたいことが沢山あって、あなたに訊きたいと……何から尋ねて良いかわからないのですが」
「わかることなら何から聞かれたって答えるし、わからないことは何を聞いてもどうせわかりませんよ」
「そ、そうですね。そうですよね」
 従者は片手で頬杖をつき、神の娘は両の手を握りました。頭の中を整理しながら、ひとつずつ、神の娘は言葉を選んでゆきました。
「では……まず、今、一番知りたいことから。彼の人は地上で、常に命を狙われているらしいのです。彼だけではなく、一族がみんな……。世界中の嫌われ者だと、そう言っていました」
 なんだそりゃ、と、独り言とも合いの手ともつかない声がこぼされました。
「都に入るにも身分を偽るのだとか……心当たりはありませんか」
 難しい顔をしたプレアスタンに、乙女は他にも手がかりを、つまり口笛を言葉のように操ることや、木の根を噛む風習があること、賢い鳥を連絡役にしていることなどを話して聞かせました。
「わからないなあ。そういうことは、ひょっとすると人界からやってきた従者のほうが詳しいかも知れないですけどね。事情が事情だけに、訊くわけにはいかないか。他の神々にもご存じの方はいらっしゃるかも知れないが、ちょっとそっちも憚られるな……人界を嗅ぎまわるわけにいかないし、神界で調べるにしても何か方法を考えないと」
「実は、さっき書庫へ行ったのです。何か見つからないかと思って……でも、エルシルには頼めないでしょう?自分で探してみたの。全く駄目でした。仕方なく、それを抱えて帰ってきたのです」
 白の書や創世記を示すと、なるほど、とプレアスタンが頷きました。
「そういうことですか。まあ、しかし、それについてはこの場で解決して差し上げられる話じゃなさそうだ。何か手を考えましょう。で、他には?」
「ええ。あとはね……ああ、何から訊いていいのか」
 そんなに沢山あるんですか、と呆れた従者に、主は少々膨れました。
「あります!わからないことだらけだわ。何故、神界では誰も恋をしないの?恋とはこんなに素晴らしいものなのに、何故わたしは今まで知らなかったのかしら?ラハトハスはわたしに恋をさせたくなかったの?それはどうして?何か悪い副作用でもあるのですか?あの時あなたが話したことは、本当はどういう意味だったのですか?……あなたは、」
 神の娘はそこまで捲くし立てて、最後にほんのちょっとの躊躇いを見せました。
「何を知っているの?プレアスタン」
 至上の紫水晶の切実な輝きをまっすぐに向けられて、お祭り男は困り顔をしました。片手を卓の上に、もう片手を首の後ろにやり、背凭れに寄りかかりました。
「誤魔化さないで、お願いです」
 このまま笑って有耶無耶にされてしまうのではないかと、乙女は手を伸ばしました。神の娘の華奢で滑らかな手は、しかしプレアスタンのそれを取ることはありませんでした。プレアスタンは卓の上に置いていたその手を引っ込めてしまいました。
「これを言ってしまうと、俺は処罰されます。あなたにじゃなく、始まりの神に。下手をすると処罰どころか処分かも知れない」
「そんな。どうして?あなたは従者なのですよ……たまごの実から生まれた、わたしの従者です。わたしを抜きにして始まりの神と関わりを持つことなんてありえないのに」
「そうです。直接の関わりはありませんよ。処罰云々も、俺の思い込みかもしれない。かも知れませんが、俺はそう予想してます。だから、これ以上、俺の口からは話せない。ただ……主ニーロニィ。あなたが死んでも話せと仰るなら俺は話します。そして死にましょう」
 衝撃的な一言でした。乙女は声を失いました。
「まあ、そういうわけなので。今日のところは、これで失礼しますよ」
 立ち上がるプレアスタンをようやく目だけで追いましたが、
「ところで……白の書は、我が主も当然読んでおられますね?そりゃもう、暗記するくらいに」
 突然、話が思わぬところに及んだので、それが何か、と、困惑しながらも頷きました。
 白の書は、白の館で神の娘ニーロニィに仕える者たちの必携の書とも言うべき書物で、従者という従者が漏れなく、ひとり一冊、必ず所有しているものでした。主である神の娘も当然、内容を把握していました。
「じゃあ、もう一度読んでみてはどうです。何か思いもよらない発見があるかも知れませんよ。俺も読み直します。手がかりがあるかも知れないですからね」
 そう言うとプレアスタンは、白の書と創世記を一冊ずつ、片方は乙女に半ば強引に受け取らせ、片方は自分が抱えて、さっさと部屋を出て行ってしまいました。
 残された乙女はしばらくの間、初めて触れることを拒んだ従者プレアスタンの出て行った扉を呆然と眺めていました。



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2009.02.21 公開