異界を渡る物語 第一章 第八話
次の館には、憩いの間と呼ばれるちょっとした広間がありました。従者たちが集まって他愛無い話を楽しんだり、主の口に入るものとは別に、従者たちのために用意された茶や果物などを楽しんだりする、人界で言うところの大衆食堂のような場所でした。
プレアスタンは自分で煎れた茶に、さっきまでそこに居た賑やかな女たちから貰った焼き菓子を浸して食べながら、ぼんやりと辺りの様子をうかがっていました。二の庭に咲いた花について……仲間のどじの笑い話……花茶の新しい配合……小さな集まりを作ってそれぞれ気ままにお喋りを楽しむ従者たちの、様々な話題が耳に入ってくるのを、プレアスタンだけはひとりで聞いていました。
「やあ、お祭り。今日は嫌に静かじゃないか……なんだ、白の書に、創世記なんか持って。何か企んでいるんじゃないだろうな」
茶の残りをちょうど飲み干す頃、顔馴染みの従者で名をセルンというのが、茶器の載った盆を片手に通りすがりに話し掛けてきました。
「ご挨拶だなあ。そうですよ、企み事ですよ!これがラハトハスか誰かだったら、さすが如何なる時も肌身離さず、とか何とか言うんだろうに」
「彼に限らず真面目な奴は毎日だって読み返すよ。それにラハトハスは、こういう喧しいところは好まないだろうさ。ただ、お前がこんなところで白の書を読むなんて珍しいだろ。どういう風の吹き回しだ?」
「別に今ここで読んじゃいないよ。なんとなく、こう、さみしい気分になっただけさ……ところで、それを一杯くれ」
「仕方のない奴だな。ほら、ちょっと書を退けていろ。茶が跳ねたら染みになる」
空になったプレアスタンの器に温かい茶が注がれました。
「しかし、それは見慣れない装丁だな」
「ああ……まあね。最初のは駄目にしちまって、後からもう一冊貰い受けたんだよなあ」
「こっそりくすねたんじゃないだろうな」
「馬鹿言え。ちゃあんと司書長殿に申告して、お小言と一緒に頂戴したよ!」
齧りかけだった、もうすっかりふやけている焼き菓子を一口に放り込んで、注がれたばかりの茶で流し込みました。飲み込んだ直後、おかしな顔をして身体を捩り、ややあってから大きく息を吐き出しました。
「……熱かった!」
「罰当たりな食べ方をするからだ」
「放っとけ」
と、
「───罰当たりはもともと、たまごの樹に生った時からだろうさ」
新しい声が掛かりました。並んで設えられた食卓の、プレアスタンから見て後ろ側、振り返ってはす向かいの席に、つんと澄ました黒髪の男がいました。いかにも知的な顔をして、神経質そうな仕草で茶を飲んでいました。同じ卓にあと二人ほど席に着いていて、黒髪の男はこちらを見もせずに器を傾けていましたが、ほかは半分笑ったような、馬鹿にしたような顔でプレアスタンの方を見ていました。彼らは薄青の衣の上から、銀の糸で刺繍の施された白い布を羽織っていました。
「シュレイズ。どういう意味だ」
眉を顰めたのはセルンでした。
「どうもこうもあるまいよ。人界には生まれない生き物が生まれてくるはずのたまごの実から、ほかならぬ人間が生まれたのだからな」
「だから何だ!侮辱するなよ」
目を険しくしたセルンとは反対に、プレアスタンは笑って頭を掻いていました。
シュレイズはなおも続けました。
「私はただ事実を述べたまでだ。いちいち騒ぎ立てないでくれないか、低俗だな」
「たまごの実から生まれた者は、すべて神のご意志の下に生まれてきたんだぞ。神のご意志に、なんで神から罰が当たる?それともお前は、始まりの神の為さることに手落ちがあったとでも言うつもりか?畏れ多い。その方がよほど罰当たりじゃないか」
「我らが神の娘ニーロニィの美しき完全なる神聖に、ほんの一欠けらでも不純物が混じるのが許せんだけだ!」
「貴様!」
「セルン!」
大きな声に、周囲からどよめきが上がりました。注目を集める中、あわやというところで、プレアスタンがセルンを羽交い絞めにしました。セルンの右手は拳が握られていて、シュレイズも椅子から腰を浮かせていました。
「類は友を呼ぶというが、そっちのお祭りだけでなく、お前も随分頭が弱いと見える。この白の館で暴力沙汰でも起こすと言うのか!役に立たないだけならまだしも、主を貶めるような真似をするとは、厄介者にもほどがあるな」
「なんだと!」
「そうそう、そうなんだよなぁ!いや、こいつはそうじゃないんだけど、俺が」
セルンを押し退けるようにして、プレアスタンが前へ出ました。
「ははは!すまん、すまん。まあ、なんていうか、素地が悪いもんでね」
「おい、プレアスタン!お前は……」
「ああ、ああ、わかったって!落ち着けよセルン。俺が笑ってるのに何でお前が怒るんだ。おかしな奴だな」
シュレイズが冷ややかな目でプレアスタンを見ました。プレアスタンはなおも笑っていました。
「まあ、あんたの言うとおり、俺はあんまり出来が良い方じゃない。丁寧な仕事はあんたたちに任せるさ。あんたたちはあんたたちの役目、俺は俺の役目ってことで」
「お前に役目なんかあるのか」
椅子に座り直そうとしたプレアスタンの背中に向かって、シュレイズの取り巻きが 揶揄しました。
「……!」
今度こそ逆鱗に触れたとばかり、身を乗り出したセルンでしたが、敢えなく再びプレアスタンに阻まれました。
「プレアスタン!俺はどうにも我慢ならん!ラハトハスの覚えがめでたいからと調子に乗って、何様のつもりだ!白の書を読み直したらどうなんだ!『白の乙女に仕える者、みな平らかに等しく……』」
「はいはい!だから平等なんだろ?そうそう、平等なんだって。平等なんだよ。ほらな、平等ならいいじゃないか。いちいち気にするなよ」
セルンはプレアスタンの顔を見て、何か言いたげに口を閉じたり開いたりし、最後にシュレイズを睨んでぐっと唇を引き結びました。
「あー、はい、皆さんお騒がせしましたね!このことは、ひとつ内緒で頼むよ。誰にとは言わないけど、何かあったのかと聞かれたら、いいえ何にも、いつも通りでした、てことでよろしく!実際このくらいの騒ぎ、いつもの通りだろ?納得いかない奴は、働き者のセルンを納得いくまで顎で使って気を治めてくれ!」
周囲に向かってプレアスタンがおどけて言うと、セルンが「えっ」と大きな声を上げたので、どっと笑いが起こりました。
「はい!この件は、これで終わり!」
ぱん、と大きく手を叩くと、周囲はそれぞれ動き始めました。シュレイズと取り巻きは気分を害されたとばかりに出て行きました。
「……おい。あいつらラハトハスに告げ口すると思うか」
「さあね。でもいいんじゃないか、それはそれで。あいつらにだって非はあるだろ。第一ラハトハスの覚えがめでたいからってそれがどうした!俺なんか主ニーロニィの覚えがめでたい!…───ああ、でも、そうだな。ラハトハスは良いが、主のお耳に入るようだとちょっと宜しくないねえ……(人気者のプレアスタンとしてはね)」
プレアスタンはちょっと考えるようなそぶりを見せましたが、
「まあ大丈夫だろ。それより、あれ、嬉しかったよ」
何の話かわからないセルンに、後ろから飛びついて首に腕を回しました。
「だから何だ!て、やつさ」
よせよ、と笑うセルンとじゃれあっているところへ、後ろから声を掛ける者がありました。
「やあ、お祭りプレアスタン。この子が君に話があるそうだよ」
あまり付き合いのない顔が、一歩後ろに金の髪の少年を連れていました。
「そこで、声をかけ辛そうにしていたんだ。まあ、あの騒ぎじゃあ、確かにそうだろうけど、君に用事だと言うから。……じゃあ、後は自分でね」
最後に一言、少年に向かって声をかけてから、その従者は立ち去りました。
残された少年は、プレアスタンとセルンの視線を受けて、顔を赤くして口ごもりました。
「どうした。彼に用事だって?伝言か何か、預かったのかい」
セルンが尋ねました。いいえ、と消え入りそうな声で何とか返事をしたものの、もじもじとして話を続けられない少年に、ふたりは顔を見合わせました。
と、少年が白の書と創世記に目を留めて、小さく身を強張らせました。それに目ざとく気づいたプレアスタンは、二冊を手に取って、少年の肩をぽんと叩きました。
「よし、わかった。場所を変えよう!ありがとな、セルン。あ、ついでに茶の片付けも頼んでいいか?いやあ、悪いなあ」
言いながら既に少年の肩を抱いて歩き出したプレアスタンは、セルンが肩を竦めながらも笑って片づけを引き受けてくれたことを横目で確認してから、さて、と目を戻しました。
「どこがいいかな。邪魔が入らないところがいい。庭にするか……一の庭に、いい隠れ場所があるんだ。特別に連れてってやるよ。見つからないように二の庭から出て行くのはちょっとした骨(こつ)がいるんだ」
背を丸めひそひそと内緒話をしてくるプレアスタンに、少年は何かを言いかけましたが、
いいから外に出るまで世間話するぞ、と言われて、それに従いました。
他愛無い話をしながら歩き(と言っても話しているのはプレアスタンばかりで、少年は辛うじて相槌を打つくらいでしたが)、プレアスタンの言う骨の要る道筋を通って、ふたりは一の庭の、いい隠れ場所とやらに辿り着きました。
葉の生い茂る低い木々の足元に、向かい合って腰を下ろしました。胡坐をかいたプレアスタンに対して、少年はきっちりと膝を折って座りました。
「念のため、声は落とせよ。あんまり心配なさそうだけど。……で?話ってのは、これに関わることかい?」
軽く掲げられた二冊の本を見て、少年は青い顔をしました。
「あの……ぼ、僕は……」
今にも震えだしそうな様子に、プレアスタンは苦笑しました。
「お前、そんなに緊張するなって。俺なんか、ほら、お前と同じただの従者だろ。お祭りプレアスタンの馬鹿な噂、聞いたことないか?第一、お前が何を言おうとしてるのか、俺はもうわかってる」
「ごめんなさい!」
少年は突然、がばりと頭を下げて叫びました。
「すみませんでした!僕が、不注意で……エルシルも、司書の方々も、何も悪くないんです!」
「しいっ!大きな声を出すなって!」
「す、すみません」
思わずふたりしてきょろきょろと辺りを見回しましたが、目に入るのは木々の緑色ばかりで、何者かの気配も特にありませんでした。
「落ち着けよ、大丈夫だから。ああ、もう、ほら。順を追って話してみな。まずはお前の名前から」
「は、はい。僕はファルニエルと言います。デューセリンと同室の」
「デューセリン?そいつも何か関係あるのか」
ファルニエルと名乗った少年は、いえ、と不安げに首を振りました。
「ディディは何も……ただ、そう言った方がわかるかと思って」
「何が。おかしな奴だな。まあいいや、続きは?エルシルがどうとか言ってたろ?」
「……はい。その、僕は、司書長エルシルより、白の書の書き写しを依頼されているんです。もう何度か、ディディと一緒に」
おずおずと話し始めたファルニエルに、年長者は黙って先を促しました。
「それで……随分前のことになるのですけど、あの、実は、書き写している時に一枚、字を失敗してしまったのがあって、それで……除けておかなきゃいけなかったんです。でもうっかりして、他のと一緒にエルシルに提出してしまって。その時は忘れていて、今までまったく気づかなかったんです。ふとしたきっかけで、それを思い出して、エルシルのところへ行ってきたんです」
少年の話すところによると、気づいて抜いてくれたのではないかと思い、確認と謝罪の為に司書室へ行ってみたところ、そのまま製本されてプレアスタンの手に渡ったらしいことが判明したというのでした。
「エルシルは他にもお役目が沢山あるので、一枚一枚確かめることはご自分ではなさらなかったようで、担当した何人かのお名前を教えてくださいました。でもその方たちは、改めたけれど問題なかったと仰いました。おかしいと思ってもう一度詳しく話を伺ったら、一冊だけ……どうもちょっとした手違いから確認が疎かなまま製本されてしまったらしくて。エルシルの手からあなたにお渡ししたのが、偶々その一冊だったようだと……」
「うん。それで?」
「ですから、たぶん……あなたの持っているそれが、その……」
「書き損じの一冊じゃないかって?」
すみません、と、しょんぼりするファルニエルを、プレアスタンはしげしげと眺めました。骨格も筋肉もまだ成熟していない小柄で薄い身体、あどけなさの残る顔立ち、淡い金色に輝くさらさらした細い髪、菫青石の瞳の輝き。どれを取ってもまだ幼く、青年と呼べるようになるには、ましてや一人前の男と呼べるようになるには相応の時間が必要であろうと思われました。
「お前がねえ……」
プレアスタンの口から漏れた一言の意味を掴み損ね、少年はこわごわと顔を上げました。
「あの、どういう───」
「書き損じただけか?」
最後まで言い切るより先に、質問が被せられました。年長の従者は、年下の従者の顔を覗き込みました。
「違うだろ?書き損じて、その一枚は捨てるつもりで、何か書き付けたろ」
「そ、それは……!そ、その時は、どなたかの手に渡るとは思わなくて。あとで除ければいいと思って……」
「で、忘れてちゃあな。お前、どじもいいところだな」
少年は更に身を縮め、消え入るような声で、すみません、ともう一度呟きました。
「いや、それは良いんだけどさ……そうかあ、お前かあ……」
プレアスタンは感慨深げに、しみじみと言いながら片膝を立てて座りなおしました。そして、そのまま何か考え込んだ様子で黙ってしまいました。
ファルニエルはどうしていいかわからずに、仕方なく一緒になって黙っていましたが、ややしばらく経ってから、流石に沈黙に耐えられなくなり口を開きました。
「プレアスタン。あ、あの、どうしたんですか」
「うん?……うん。よし。わかった!ファルニエル、気にするなよ。失敗くらい誰にだってあるさ」
急に肩を叩いて励まされ、少年は目を白黒させました。
「いいか、これについては誰にも話しちゃいないし、今後も黙っててやる。その代わり───」
プレアスタンは、これ、というところで白の書を軽く上下させてそう言った後、にっこりと笑みを浮かべました。
「ひとつ、頼みを聞いてくれ!」
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2009.04.29 公開