異界を渡る物語 第一章 第十話



 良いのです、無理に話さなくても―――乙女の唇から言葉が紡ぎだされました。
 あなたが話したくないのなら、それで構わない……何か事情があるのですね、それも、あなたにとってとても重大な。わけもなく隠し事をするようなひとではないはずですもの、そうでしょう、わたしのラッダ。
 あなたが話そうと思った時が、わたしの聞くべき時なのだわ。そう思うことにします。だから―――…。だから?
 だから何だったか、と思って、ふと、乙女は自分の瞼の震えたのを感じました。真っ白い敷布が目に入りました。ああ、そうか、夢だったかと気付いたのは、その直後のことでした。
 さらさらした肌ざわりが二の腕や素足に心地よく、もう一度目を閉じました。いやいやをするような仕草で寝具に頬を擦り寄せ、掛布を抱き込みました。
 アシュオリとの一件から二日、乙女は一族の秘密とは何なのか、そればかり考えていました。頭を悩ませたからといって思いついたり解決したりする類の疑問ではないとわかってはいましたが、だからといって簡単に割り切れるものでもありませんでした。わからなければ仕方がないと思っていたはずなのに(それが本音だったにしろ、本音と思い込む努力に過ぎなかったにしろ)、プレアスタンの話を聞いてから、はっきりと気持ちが変わってしまったのでした。
 あの後プレアスタンは再び私室を訪れて、良い方法を思いついたからと二、三、小さな要求をしました。それはクレイスニルに宛てて(知の神クレイスニルが、館の管理一切を顧問官リンダールに任せていることは周知なので、半分はリンダールに宛てて)生ける書の閲覧許可を請う書状を用意することだったり、その件についてプレアスタンに神の娘の代理としての権限を与えると一筆したためることだったりしました。どんな方法を思いついたというのかプレアスタンはとても楽しそうで、つられて乙女も内緒の悪戯気分、いそいそとそれらをこなしました。さあ、あとは明日のお楽しみ―――それが、部屋を出るプレアスタンの言葉でした。
 昨日はそうして一日が過ぎ、夜の闇がやってきても人界へは降りませんでした。ルーウルアウドに逢いたい気持ちもありましたが、本人の口から聞いていないことを調べ回っている後ろめたさがそれに勝りました。知らんぷりで甘い時間を過ごすことなど出来そうもありませんでした。
 そういうわけで昨夜も早めに床についたというのに、随分と遅くまで眠っていたようでした。寝具に顔を埋(うず)め目を閉じていても、なお明るくて、乙女は仕方なしに身体を起こしました。神界には人間たちのように数字を使って時を切り刻む習慣はないけれども、ルーウルアウドから得た知識に照らし合わせて言うなら、とっくに正午を過ぎているようだと思いました。
 白の館において、乙女は常に自由で、起こすよう頼んでおけば起こしに来るし、そうでなければ眠りを妨げることは罪にすらなりうるため、いつまで寝ていたところで責められることもありませんでした。近ごろは秘密の夜更かしのせいで寝過ごすことが多くなったと、まだぼんやりしている頭で考えましたが、大して重要なことでもないのですぐにどうでもよくなりました。神にとって、もともと娯楽のひとつである眠りを、神である乙女がどう楽しもうと、それこそ乙女の自由なのでした。
 名残惜しげにゆっくりと起き上がって大きな伸びをひとつ、布の波から抜け出すと、自分で着替えを済ませました。蜜水でも一口飲みたいと思いましたが、誰かを呼んで頼みごとをする気分ではないのでやめました。
 椅子に掛け等閑に手で髪を整えながら、先ほどまで見ていた夢のことを、糸を手繰るように思い出しました。ルーウルアウドに会い、何事も無かったように振舞って、そしてあの言葉───いかにも物分りの良い、従順なそれ。
 ルーウルアウドの反応が見たかった、と思いました。彼の人はどういった行動を好むだろうか、己に何を求めているだろうかと、手指を櫛にして粗く髪を梳きながら考えました。ルーウルアウドの求める通りの女性でありたい、それはここ最近の、目下の願いでした。
 夢の通りにすれば、あの素晴らしい男性は自分をより高く評価してくれるだろうか、理想の女性と思ってくれるだろうか。ああ、でも、素直に話してしまった方が良いのかも知れない―――。
 乙女は手を止めました。包み隠さずありのままに話してしまえば、寛容な女を演じるよりもむしろ好意的に受けとめてくれるかも知れない、少なくとも乙女にそう思わせるには充分なほど、ルーウルアウドは誠実かつ清廉な男でした。けれども、明け透けに話してしまって浅ましい女と思われることも、耐え難い───。
 可憐な唇から儚いため息が宙に溶けだしました。椅子の上に足を引き上げ、膝を抱きました。
 それからしばらくの間、乙女は椅子に腰掛けてぼんやりしていました。何か見ているようないないような、視線と呼ぶのも躊躇われる弱い視線を投げっ放しにして、ただ心を無音にしました。結論が出ないので、考えることが億劫になってしまいました。
 そのうちにふと、特に前触れもなく気付いたのが、蜜水が欲しいなら神の業を用いればいい、ということでした。ただ願うだけで叶えることが出来る、そういった力を自分は持っていたではないか、こんなにも簡単なことになぜ気付かなかったのか、乙女は不思議に思うと同時に馬鹿馬鹿しくなりました。
 立ち上がって手の中に杖を出現させると、卓をこつんと叩きました。光の紋様が広がって消えると、始めからそこにあったかのように水差しと杯が置かれていました。手放すと同時に杖は掻き消え、白い手は水差しに伸びました。ほどよく冷えた蜜水を一杯注いで口をつけると、両手で杯を傾けて一息に飲み干しました。いくらか頭がすっきりしました。
 もう一度杯を満たすと、それを持って噴水のある続きの間まで出ました。神石の淵に腰掛けて水の爽やかな冷気を楽しみながら、もう一口、二口、蜜水を味わいました。
 と、
「白の従者プレアスタン、参りましたよ」
 ほんの僅か間延びしたような独特の台詞が、私室の入り口の方から聞こえてきました。
 乙女が顔をそちらに向けると、もう、名乗った通りの青年が歩いてくるのが目に入りました。
「まだ返事もしていないのに」
「いいじゃないですか、どうせ拒まないでしょうに。何なら今からでも返事を待ちましょうか?」
 抱えていた何冊かの本を担ぐように肩に乗せ、片足に体重をかけて立ち止まったプレアスタンは、つま先でとんとんと床をつっつきました。
 乙女はあきれ顔になりました。
「あなたったら、またそんなことを。ラハトハスが見たら何と言うかしら」
 プレアスタンはちょっと驚いた表情をして、それから声をあげて笑いだしました。
「な、何です?可笑しなことを言いましたか」
「ははは!いや……ラハトハスに見つかってお説教されるのは、むしろあなた様の方ですよ」
「なぜ?」
「ご自身のお姿を御覧くださいって」
 言われて省みると確かにその通り、夜着から替えこそしたものの服はややだらしなく、髪は指を通しただけ、足元に至っては靴も履いていませんでした。
 恥ずかしげにそっぽを向いた主に、まあでも、と、笑いを含んだ声で従者は続けました。
「ご安心を!ラハトハスは今頃、図書室にいるはずですから。しばらくこっちには来ないでしょう」
「図書室に?」
「そう、司書長エルシルに泣きつきにでも行ったんじゃあないかと、俺は思いますけど。……御髪を整えましょうか。櫛は奥の棚に?」
 プレアスタンは乙女の腰掛けている横に本を置いて、部屋の奥へと足を向けました。乙女は櫛のありかについて頷きながら、引っかかる表現を訊きかえしました。
「泣き付くって?どうしてです」
「そりゃ、あなた様があいつを遠ざけるから拗ねてるんでしょ。自称お目付け役らしいけど、本来、危急の時以外は主にご意見申し上げる権限なんか、ありませんからね。人界でならいざ知らず、この神界では、主に求められなければ自分からは何も出来ない。するべきじゃない。口も挟めないってわけです。でも本人としては認めたくないと……そんなところでしょうね───ここかな、開けますよ」
「どうぞ───認めたくない?」
 プレアスタンは衣類や小物を納めた戸棚を開けながら、ちょっぴり目を細めました。
「そうです。あれは、ほら、自分が一番だと思ってるから。主に一番近いのは自分、主が一番頼りにするのは自分、主を一番理解しているのは自分……そう思っているんだ」
 抽斗(ひきだし)をあちこち開けて、磨かれた木の櫛と布製の靴を見つけ出し、それぞれ元通りに閉めました。
「わたし、ラハトハスに会ったほうが良いのかしら」
「とんでもない!気にしちゃ駄目ですよ。あの石頭にうっかり口を滑らせでもしたら、二度と彼の人に逢えなくなるかも知れないんですから」
「でも……もう随分、ラハトハスの顔を見ていないのです。最初はただ、気まずくて遠ざけただけだったのに、どんどん悪くなっていくわ。あの人に会えなくなるのも嫌だけれど……ラハトハスとはこのままなのかしら」
 戻ってくるプレアスタンを目で追いながら、噴水に沿った円形の腰掛けで、乙女は横座りになりました。右手に櫛、左手に布の靴を携えてきたプレアスタンは、左手のものを置き、片足を乗り上げて神の娘の後ろに回りました。
「さあ、どうでしょうねえ」
「ラハトハスだけじゃないわ。他の皆にも、会えなくなってしまった───いいえ、わたしが訪ねて行きさえすればいいのです。わかっているけれど、ひどく怖いわ。それに、考えていると結局、最後には、行かなくて良いと思ってしまうの」
 失礼しますよ、と声をかけて、耳元から星の絹糸を両手で掬い上げると、軽く束ねるような仕草をしてから、少しずつ丁寧に櫛を入れ始めました。
「……なら、それでいいじゃありませんか。大丈夫、主には、俺がついてます」
 水の音と髪を櫛けずる手つきが心地よくて、乙女は目を閉じました。そうかしら、と、応えた声は、殆ど吐息でした。そうですよ、と、囁きのような返事がありました。
 乙女はしばし、そのまま身を任せました。プレアスタンの手つきは優しく、親愛と尊敬に溢れていました。
 瞼を閉じたまま、考えるともなく、ぼんやりと、いつかルーウルアウドの髪を梳いてやろうと思い、あの癖の強い黒髪は手強そうだと密かに笑いました。連鎖的に、いかにも生命力に溢れた目元や、力強く凛々しい唇から顎への線や、匂いたつように艶めかしい首筋を思い出すと、身体の内に小さな雷が迸りました。
 思わず息を止めました。これが寝床の中だったら、思い切りぎゅうっと手足を縮めて丸くなったに違いありませんでした。若しくは、ばたばたとのた打ち回ったかも知れませんでした。
 そのまま乙女は喉の奥をぐうっと詰め、腹に力を入れて、身体の芯から湧き上がる何かをこっそりと堪えました。ようやくやり過ごすと、やはり密かに息を整えました。
 ルーウルアウドのことを考えただけで身体の芯がうずうずしてきて、秘密なんかどうでもいいから今すぐにでも逢いたい、そういう強い願望に唐突に襲われました。
「ねえ、プレアスタン?わたし、彼に逢いたくなりました。とても、とても逢いたいわ。あのひとが何を隠しているか、知りたい知りたいと思っていたけれど……それは本当に重要なことなのかしら。そんなことより抱きしめあえば良いのではないかしら。昨夜だって、会いに行けば良かったのかも……なんだかよく、わからない」
 プレアスタンは苦笑して、櫛を置きました。
「出来ました───わからなくなりましたか。そりゃ困りました。俺も最初は大したことじゃあないと思ってましたが、結果を見るとどうにもねえ───おみ足を」
「ありがとう───結果とは件の、良い考えとやらの?」
 従者は主の足元に跪くと、しっとりと滑らかで、透き通るような白い足を恭しく持ち上げ、優しくそっと靴を履かせました。散りやすい繊細な花に触れているかと思わせる手つきで、肌触りの良い布の靴につま先から踵までを収めると、丁寧に、絵を描くように紐を結びました。
「ええ、結果を持ってきました。さっきそこに置いたのがそうです……出来た」
「まあ、ぶきっちょさん」
 プレアスタンが時間をかけて丁寧に結んだ蝶結びは、横を向いていました。
「すみませんね!気に入らなければご自分でどうぞ」
「まさか。可愛いわ。右足も宜しく頼みます。お揃いにしてちょうだいね」
「はいはい、かしこまりました!……で、結果なんですがね。その前に、白の書は読み直しましたか?」
 乙女は右足を差し出しつつ、そう言えば読んでいないと、首を横にしました。
「じゃあまず、そこからです。これ、結んだら、いつもの席に行きましょうか。あ、また茶を忘れたな……まあいいや……もうちょっと……よし」
 左とお揃いの不恰好な横っちょ結びを右にもつくり、従者は本を取り率先して窓際の席へ移動しました。乙女がそれに倣い場所を変える間にてきぱきと櫛を片付け、中の残っている杯は席まで持っていきました。
「なんだ。あのときのまんま、置きっぱなしじゃないですか!ひどいなあ。せっかく手掛かりをあげたっていうのに」
「手掛かりですって?ねえ、もう聞かせてちょうだい。何かわかったのですか」
 わかりましたとも、と答えながらプレアスタンは着席しました。
「まず説明しておくと、事の経緯はこうです。俺たちは調べ物をしたかった、でも主が御自ら表立って何かするのはまずいし、俺がこそこそ動いたら例の石頭が反応するに決まってる。そこでちょっとした心当たりが有ったんですが、どうやって頼んだものかと考えあぐねているところへ、なんと好都合、向こうの方からやってきた!これは利用するしかないってわけで、あの書状を用意して頂きました」
「つまり、あなたの言う心当たりとはファルニエルのことだったのですね。どうして?あの幼い黄金竜の子の、何が、あなたにそう思わせたのですか」
「いや、もともとは、黄金竜ファルニエルを当てにしたんじゃあないんです。あの子だったってことは、俺も意外でしたよ」
「どういうこと?」
「これを」
 プレアスタンは乙女のほうへ向けて本を並べました。
「さあ、これはどちらも白の書です。ま、見りゃわかりますね。問題は中身」
 見た目は変わらない二冊の本のうち、もともと置いてあった方を乙女に渡し、もう一方を自分が手に取りました。
「読み直してくだされば、気づいたはずなんですが。比べてみましょう。表紙は同じ。開いて……扉も同じ。序言、目次、第一章の表題。すこし飛ばします。第二章。……捲って」
 乙女は言われるままに従いました。
「───第一項、初めから読んでください。どうぞ」
「白の乙女に仕える者、朝に映ゆる麗しき苑に照らし見て、清く慎ましきを鑑とし、溢るる情を事毎に、人知れず咲くを心得とせん。歩まん我ら、育てん我ら。溺るるべからざるは思慕の情、囚わるるべからざるは邪欲の情」
 読み進めるうちに、だんだんと顔色が変わってきました。
「そも我ら、彼の始まりの神の御御息女白の乙女ニーロニィの清きを守りたるこそ至上なれば、すべからく個に依らず全を尊ぶべし……」
 顔を上げてプレアスタンを見ました。蒼白になっていました。
「これは……何?」
 対して、プレアスタンは冷静でした。
「白の書ですよ」
「そんな、だって……!」
「だって、こうですか?主のご存じの文面はこう───白の乙女に仕える者、朝に映ゆる麗しき苑に照らし見て、清く慎ましきを鑑とし、溢るる情を事毎に、人知れず咲くを心得とせん。歩まん我ら、育てん我ら。礼節を重んじ廉正を志し、身を鍛え心磨かん。そも我ら彼の始まりの神の御御息女白の乙女ニーロニィの御身を守りたるこそ至上なれば、すべからく個に依らず全を尊ぶべし」
 プレアスタンは、自分が持ってきた方の白の書を読み上げました。
 乙女の手がわなわなと震えました。突然がたりと音を立てて立ち上がりました。
「どういうことです!白の書が改訂されたなんて、聞いていません!」
 息をまく主を尻目に、プレアスタンは落ち着き払って椅子に掛けたまま、頬杖をつきました。
「俺を詰問したって真実なんか知ってやいませんよ。ただわかるのは、白の書がもともと二種類用意されていたって事実だけです。実はこの前の時、ちょっと失敬して、俺の持ってきたのと貴女様のと、白の書を摩り替えましてね。内容が違ったのを、やっぱりご存知ありませんでしたか……(なるほどね)」
「何のために……?わたしは、欺かれていたのですか?いったい誰に……」
 両手で顔を覆い、乙女は力なく椅子へ腰を下ろしました。
「誰なのかってことはわかりません。始まりの神かも知れないし、そうじゃないかも……。何でっていうなら、そりゃ、主に恋をさせないためでしょう」
「だから、どうして!」
「知りませんって!」
 感情的に上げた声をぴしゃりと返されて、乙女はぐっと息を呑みました。
「俺にわかるのは結果だけ、理由は推測しか出来ません。その議論は後にしましょう。それより、話を戻しますよ。今、主がお持ちの白の書は、そういうわけであなた様の白の書じゃあありません。誰のかって言ったら俺のなんですが、もっと重要な問題があります───それを書いたのはファルニエルです」
 乙女は青ざめた顔で沈黙したまま先を聞きました。
「司書長エルシルの依頼で、あいつは白の書の書き写しに携わった。そして、ちょうど一冊駄目にしちまって新しいのを貰い受けにいった俺の手に渡ったんですが。主ニーロニィ、ちょっと第六十七葉を開いて見てください」
 僅かな間のあと、白い指が覚束ない手つきで本の中身を繰りました。そして問題の葉を見つけると、ふと眉を寄せました。まず字を間違ったらしい不自然な行に目が行きましたが、次いで本文と関係のないだろう言葉が余白部分に書き込まれているのに目が留まりました。
「『何が乙女を』『なぜ禁じるのか、何が起きるのか』『誰のため、誰によって』?」
「そうです。従者たちの白の書と、乙女の白の書の何が違うって、従者たちの方には、要するに愛とか恋とか男女とかそういうものを主に近付けるな、悟らせるな、隠し通せという厳命が含まれています。勿論、従者たち自身にも恋を禁じている。さっきの箇所だけじゃありませんよ、あれが一番露骨な表現ってだけで、例を挙げればきりがない。尤も知ってて読めばの話ですがね。知らずに読んだらわからないよう、巧妙に隠喩を駆使してます。白い衣を許される頃になって漸く真相を明かされ、なんとまあこんな意味だったのかと仰天するって筋書きなんでしょうね」
 乙女と同じように問題の部分を開いていたプレアスタンは、ここまで言って、でも、目を上げました。
「でもファルニエルは自分でそれに気づいた。勿論、具体的な内容はわからなかったはずです。でも、何かが隠されているらしいということは理解した。書き写している最中に疑問に思ったんでしょう、書き損じた一枚に、その疑問を書き付けた。書いたときは後で調べるつもりだったのかも知れません。で、除けておいて手元に残すはずだったそれを、うっかり一緒に提出しちまって、更に偶然が重なり製本されて俺の手へ。俺の方でも何だこりゃあってんで、書き手が誰なのかこっそり探ってたんですが───ああ、だからつまり、心当たりってのはこれのことで。誰かわからないけどこれを書いた奴、と思ってたんですよ。折良くあっちから名乗り出てくれたんで、ファルニエルだと判明したってわけです。随分気に病んでる風情だったから、卑怯ながら交換条件ってことで」
「今回のことに、巻き込んだと……」
 言葉を継いだ乙女に、プレアスタンは、巻き込むって言うと嫌な表現だなあ、と、首の後ろに手をやりながら苦く笑いました。「まあ、実際、そうなんですけどね」
 従者の台詞を聞きながらも、主の視線はファルニエルの書き付けた文字に釘付けでした。
「もともと疑問を持ってたんだから、何も知らない奴をこっち側へ引っ張り込むより良いかと思ってね。まさか白い衣の従者に言うわけにいかないですから。ラハトハスとかエルシルに言えます?無理でしょう?」
「………」
「すみません、主ウィシュ。余計なことでしたか?」
「───…。いいえ……ただ、白の書の件に驚いてしまっただけ……。今度のことであなたが手を尽くしてくれたことは、感謝しています。大丈夫、続きを聞かせてちょうだい。それで、ファルニエルに調べさせてくれたのね?」
 大きく息を吐いてから、乙女は姿勢を正して気を落ち着けました(といっても、乱れた心が元に戻ったのかと問えば、決して平静とは答えられない状況でしたが)。記録の書に目をやると、意を得たとばかりにプレアスタンはそれを取って、表紙を捲りました。
「では……ファルニエルには、あくまでも調べ物の対象としてですが、鍵になる単語を幾つか与えておきました。いくらなんでも、いきなり事の真相を明かすわけにいきませんからね。ええと?……ああ、ここからだ」
 プレアスタンの指が、開かれた記録の書の一部を示しました。
「まずは『人間』『一族』『追われる』で調べてますね。で、それじゃあ数が多すぎたんでしょう。そこからまた別の言葉を、組み合わせを変えて何通りか試してみてる」
 指で文章を辿り、たまに目を合わせながら、ぱらぱらと先に進めました。
「数冊覗いてみてそれらしい単語を抜き出し、今度はそっちを調べてみる、と……そういうやり方のようですね。『黒髪』『口笛』『鳥』『流浪』……。そしてファルニエルが最後に選んだ言葉は───『神の眼』『神の手』」
 乙女は眉根を寄せて、プレアスタンの手元の記録の書を覗き込みました。
「なぜ地上の人のことを調べていて、神が出てくるのです?」
「そう、そこです。しかも『神の眼』も『神の手』も、そこから先は調べられなかったようですね。禁書になってて、閲覧に合い言葉が必要だったらしい」
「じゃあ、結局は何もわからなかったということ?」
「まあね。『神の眼』に『神の手』。人の子が直接、神と関わりがあるとは思えない。とすると喩えってことだろうけど、それならどうして禁書になるのかって疑問がある。ちょっと腑に落ちませんね。こうなってくると可能性として他に考えられるのは、いや、あんまり考えたくはないんですけど」
 言葉を濁して顎に手をやったプレアスタン、乙女は表情で続きを強要しました。
「はいはい!言いますって。考えたくはないけど、ファルニエルが状況を利用したっていう可能性もあります」
「どういうことです?」
 乙女は怪訝な顔をしました。
「いや、つまりね、クレイスニルの生ける書の間に足を踏み入れることが叶うなんて、ファルニエルのような従者には、またとない機会でしょう。これは非常に魅力的ですよ」
「依頼された内容を無視して、自分の調べたいことを調べたと言うの?」
「無視とまでは言ってません、実際、前半は間違いないんだし。しかし、白の書の隠喩に自分で気づいて疑問を持った子ですよ。知りたいことは山ほどあるはずだ。殆ど無理やりに引き受けさせられたようなこの事態を、逆手にとって利用しようと思いついたって不思議はない」
「あの子は素直で真面目な子です」
「真面目な子ほど魔が差すってこともあるんですよ。何しろ自分の存在意義がかかってますからね。何の為に自分が在るのか……白の書はそれに対する答えなんですから、隠し事があったとなれば自我にさえ関わる。第一、目の前に知識の宝庫があったら?幼い子ほど、誘惑に耐えうる精神が、まだ完成してないってことも」
「じゃあ、『神の眼』『神の手』というのは、彼の人のことには関係のない……いいえ、白の書についての……?」
「さあね。そうかも知れないし、違うかもしれない。あくまでも可能性の問題ですから、はっきりとは何とも」
「でも……一体何だと言うの?我が父の眼と手?意味がわからないわ」
 プレアスタンは肩を竦め、両掌を上にして首を振りました。
「どっちみち、一族の秘密とやらはわかりませんでした。以上!───クレイスニルの知識に期待するのはもう無理でしょうね。そうそう何度も足を運んだら、不審に思われます」
「………」
 そうね、と、随分たってから、やっと呟いた乙女の瞳は、既に目の前の現実でないどこかを見ていました。
 細い指先が微かに震えていることに、プレアスタンは、気づかない振りをしました。



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2009.06.25 公開