異界を渡る物語 第一章 第十一話



 それからの数日を、乙女は自らの寝室に籠もって過ごしました。寝床から出ることも億劫でした。悩みや不安が募るほどに倦怠感に支配される身体を、すっかり持て余して、ただ寝具に包まっていました。
 恋する人のことを知りたいだけだったはずなのに、今や問題は可愛い従者の忠誠心にまで及んでいました。その事実は乙女の心をひどく苛みました。
 ことの真偽は、当人に問い質してみればすぐにわかるはずでした。「神の眼」「神の手」とは一体何なのか、なぜそれを調べたのか、ファルニエルを呼んで詰問すればいいだけの話でしたが、乙女はそれが出来ませんでした。
 乙女は恐れていました。
 もし調べた内容が彼の人に関係のないことなら、ファルニエルが自分の命に背いたということになり、信じがたい重大事件でした。神の娘にとっても大醜聞、ファルニエル本人に至っては神界裁判に引っ立てられた上に極刑を宣されるに決まっていました。
 また、もしも、ファルニエルが勝手をしたのでなく、正当に調べて真実あれらの言葉に行き着いたのだとしたら、それは、神界の英知の館で禁書になるほどの、ただごとならぬ秘密を、ルーウルアウドが抱えているという、紛れもない証拠になりました。それもまた、乙女には大きな恐怖でした。
 更には白の書の件もありました。いったい何者が、どういう理由で、白の書をあのように書いたのか。最も無理の無い類の可能性に、ひとつだけ思い当たりましたが、どうしてもそれを承知できませんでした。つまり、始まりの神が娘たる乙女を欺いていたなどというのは、到底受け入れられない仮説だったのでした。
 結局、何についても答えを知る勇気を持てず、時間だけが無為に流れてゆきました。何かしようにも、この件が片隅でも頭をよぎるだけで、胃が膨らみ浮かんでいるような奇妙な感じがして、指先から力が失われて、起き上がる気力もなくなってしまうのでした。



 そんな乙女が、思い切って人界を訪れよう、と、意を決したのは、数日後のことでした。悩み続けたところで真実が変わるものでもない、ただ自分が知るか知らないかである、その結論に至るまでに実に数日もの時間を費やしたのでした(もう何でもいいから逢いに行こうという、半ば自棄のような気持ちも多分にありましたが)。
 そういうわけで、ついに乙女は夜を待ち、いつも通りのやり方で人界を訪れました。
 今までと同じように、風に彼の人の居場所を訪ねましたが、
「……どうしたの?案内してちょうだい」
 風たちの返事はどうも煮え切らない様子で、はっきりしませんでした。案内を拒むわけではありませんでしたが、躊躇いが感ぜられました。
 乙女は不思議に思いながら風を辿りました。
 初めのうちはおっかなびっくりだった夜の人界も、訪問を重ねるうちにすっかり慣れて、今では恐怖を抱くこともなくなったはずでしたが、精霊たちの態度のこともあり、妙に胸騒ぎがしました。
 風が導いた場所は、ルーウルアウドたちが「西」と呼んでいた方面でした。
「えっ?なあに?」
 ここへ来て、風たちの案内が急にあやふやになりました。こんなことは今までにありませんでした。
 乙女の飛んでいるところはまだまだ上空で、地上の様子を細かく知ることは出来ませんでした。眼下に広がっているのが森であるらしいというくらいしか、見た目には判別がつきませんでした。
 風の精霊が目標を見失うなど、考えられませんでした。わざと遠回りをさせるなどの可愛い悪戯をすることはあっても、ルーウルアウドの元へ案内しろと言えば必ずそのすぐ近くまで送り届けるのが当然だったのに、今は違いました。彼の人の姿が見えもしない、離れた場所で、風は立ち止まってしまいました。
 乙女は戸惑って、いったんその場に止まりましたが、風に案内を再開する気配のないのを感じ取ると、そこから先は自分で探すことに決めました。
「もういいわ、ありがとう」
 精霊たちに口付けを贈ると、しゃらら、とざわめきが起こりました。
「……ここから先はわたしが探しますから、あなたたちは、もういいのですよ」
 乙女はどうも様子のおかしい風たちに少々引っかかりながらも、木々の先端を掠めるかというところまで降下しました。
 夜の森で目を頼りに捜すのは非常に困難なので、神の業を用いて解決してしまおうかと思ったとき、ふと、ルーウルアウドがいつも自分のやってくるのを察知していたことを思い出しました。乙女は自分にもそれができないだろうかと思いました。
 しばしの間、特に根拠のない舵取りでうろうろしてみました。が、全く見つかりませんでした。急に勘が働くとか、何かが閃くとか、そういったことを期待していた乙女は些か不満に思いました。ルーウルアウドは毎回確信と表現しても差し支えないほど明らかに乙女の訪れるのを見抜いていたというのに、自分にはそれが出来ないと思うと、口惜しいのでした。
 延々と続く森をあちらでもない、こちらでもないと蛇行するのは、這いつくばって捜し物をしているようで、だんだんと気持ちが重たくなってきました。
 神の娘ともあろう自分が、と思うと、急にラハトハスの顔が想起されました。
 真面目すぎる従者筆頭は、白の従者たちの誰よりも、やれ品位だの品格だのと口うるさく、下々の者たち(ラハトハスの言うそれは、つまり地に住まう人々のことですが)の真似事をしてはならない、常に高潔な振る舞いをするべきであると、何につけても乙女に諭していました。それなので、きっとこの有様を見たら大いに嘆くに違いありませんでした。
 勿論、見せるつもりなど微塵もない乙女でしたが、つい、例えばの話ラハトハスがここにいたら、などと考えてしまって、余計に落ち込む羽目になりました。
 乙女の頭に浮かんだ冗談の通じない石頭の青年の顔は、眉間に皺を深く刻んだしかつめらしい表情をしていました。あんまり悪ふざけが過ぎた時など、目蓋や眉を小さく震わせていることさえあったものですが、浮かんだのはまさにその時の表情でした。むっとしたような、不満げのような、声を荒げたりはしないながらも静かに、くだくだとものの道理を説く時の顔でした(人の子であれば、ひょっとしたら、腹痛か何か堪えているのではなかろうかと疑ってしまう顔、とでも表現したかも知れませんが)。
 それは乙女にとって永く馴れ親しんだ、ともすれば好感さえ抱くほどの、最もラハトハスらしいラハトハスの様子でした。少なくとも平素であれば、そのはずでした。しかし今の乙女は何故か、ひどく居たたまれない気持ちになってしまいました。
 実際、乙女は後ろめたい行動ばかり取っていました。それは白の館の皆に言えることでしたが、ラハトハスに対しては特に、毎日必ず顔を見ていたものを遠ざけてしまった引け目を感じていました。
 乙女はすいと静止して、大きく首を振りました。急降下して、木々の間に降り立ちました。それから杖を胸の前に持ってくると、両手でえいと地面を突きました。空気を震わす清涼な音が響くと、足元に輝く円陣が現れました。光の環が乙女を飲みました。自力で探すのを止め、神の業に頼ることに決めたのでした。
 水面のような境界線が足元から頭の先へ抜けていくと、同じ森の中のどこかに、もうその姿は出現していました。これで必ず近くにいるはず、そう思い、何気なく傍の木の幹に手をついて辺りを見回そうとした時、
「―――あっ!」
 うっかり何かに足を取られて、乙女は倒れました。木の根やら下草やら朽ちた枝やらは、あっと驚いて、可能な限りやわらかく、愛すべき神の娘を受けとめました。無防備に倒れこんでしまった乙女は、今までにない失態を恥じました。どうも調子が狂っている、この森の気配さえ、何だかおかしく感じる、そう思いながら顔を上げました。
 その時、雲が途切れ、月明かりが射しました。
 木々の枝葉に遮られながら、やっと地面まで辿り着いた僅かな月光が、微かに辺りを照らしました。
 乙女が思わず喉を鳴らして息を呑んだのも、仕方のないことでした。
 よく似た服装の、一組の男女が跪いて抱き合っていました。もっと正確に言うならば、ひとりの少女が、ひとりの男の胸に組みつくように縋っていました。
 しがみついているのが少年でなく少女だとわかったのは直感でした。
 痩せていて、女というには幼く、身体つきだけで見れば性別を判ずるのは難しいところだったはずなのに、乙女には一目で女とわかりました―――そして、縋られている男がルーウルアウドだということも、また、同じでした。
 まさか、と乙女は思いました。ルーウルアウドの抱擁を受ける女は自分だけのはずでした。それなのに、今、あの逞しくしなやかな腕は、見も知らない女の背に回されていました。
 ───この時、乙女がもう少し冷静でいられたならば、少女が震えていたことにも、少女の背をあやすように擦っていたルーウルアウドのもう一方の手に、抜き身の剣が握られていたことにも、気が付いたかも知れませんでした。しかし乙女は、それどころか、辺り一帯引っ掻き回されたように世界の息吹が乱れていることにさえ、気付くことが出来ませんでした(ついさっき、こともあろうに白の乙女の歩みを妨げたこの森の気配は、実際おかしかったというのに!)。
 ルーウルアウドの恋人は自分ではなかったのだろうか?自分よりも「その女」の方が良くなってしまったのだろうか?余計なことを考えずもっと早く会いに来れば良かったのだろうか?恋や愛というものについて、何もかもあるがままの受けとめ方しか出来ない乙女は、短絡的な発想に思考を奪われました。抱き合うという習慣のない神界に育ったが故の無垢な愚かしさでしたが、それを当人が自覚することは、やはりありませんでした。
 そんな乙女の見ている前で、ルーウルアウドは少女の頭の後ろに手をやり、ぐっと自分に押しつけました。
 ―――大鐘の鳴り響く衝撃に見舞われました。
「追っ手は一先ず片付いた。恐ろしい思いをしたろうが、いつまでも震えてはいられない。敵はまだ手を緩めないだろう」
 ルーウルアウドが少女に語りかけるのが、妙にはっきりと聞こえました。どきどきと胸が不穏に早鐘を打ちました。二人の姿が影絵と焼きつき、視界の中で闇が迫ってくるようでした。
「俺たちは、まだ逃げなければならない。お前の姿を追っ手に曝しはしない。俺はお前を守る。わかるな?」
 少女が頷いたのと乙女が打ち拉がれたのは同時の出来事でした。後頭部から意識を引っこ抜かれそうになり、目を瞑ってそれを耐えました。
 まさか、まさか、まさか。
 辛くて居た堪れなくて、眩暈をやり過ごした乙女は、とにかく立ち上がろうとしましたが、気が動転しているせいか膝から下が震えてしまい、椅子の脚でもすげかえたかのように言うことをきかなくて、不様にもがく羽目になりました。羞恥で頬が熱くなりました。躍起になって頑張っても駄目で、その姿をルーウルアウドに見られていると思うと(彼の人がこんなに近くにいる乙女に気づかないなど、あり得ようはずもないのだから!)、顔を上げることも出来なくなりました。
 ついに乙女は座り込んだまま杖を出現させ、そのまま逃げるように姿を消すことを選びました。
 悲しい、恥ずかしい、悔しい、苦しい。
 最後までルーウルアウドの顔をまともに見ることはありませんでした。



 白の従者・黄金竜ファルニエルが白の館史上初めて、不名誉にも懲罰室に入れられたという噂が疾風のように駆け抜け、従者たちに計り知れない衝撃を与えたのは、その翌日のことでした。



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2009.07.28 公開