異界を渡る物語 第一章 第十二話



「おや。こんなに足繁く通って頂けるとは嬉しいですね、白狼殿」
 茶化すような言葉を、それでも穏やかに厭味のない声で言う司書長へ、ラハトハスは眉間に皺を寄せて重い視線を送りました。
 司書室の並びの中の一室である司書長室、つまりエルシルの執務室に、白狼ラハトハスは訪れていました(もともと司書長室などという名の部屋は存在していませんでしたが、エルシルのしばしば使っていた一室がいつの間にかそう呼ばれ、専用の執務室となっていたのでした。尤もエルシル自身は司書長室にいるよりも、他の司書室や受付の帳場に居ることの方が多いくらいでしたが、司書たちの心遣いを有難く受け取る形で今に至るのでした)。
 机に向かい書類をまとめていた部屋の主は、扉を閉めて室内へ足を進めたラハトハスを、律儀に起立して迎えました。
「先に申し上げておきますが、昨日も今日も特別なことはありませんよ」
 従者筆頭ラハトハスが、執務中のエルシルを、わざわざ司書長室に足を運んでまで訪ねることは、過去を振り返っても、そう度々あることではありませんでした。ところが、先日も「近頃何か変わったことはないか」と突然やって来たばかりで、まだ三日と経っていませんでした。足繁く、などと言ったのは、そのせいでした。
 エルシルは着席して再び書類をまとめだし、ラハトハスはきびきびとした足取りでその目の前までやってきました。
「ファルニエルを知っているか」
「ええ、存じていますとも。白の書の書き写しを任せています」
 話題は先ほどの台詞を無視する形で淡々と切り出されましたが、そこは長い付き合いの旧友のこと、お互い動じることもありませんでした。
「それは何故だ。現状の司書たちでは事足りんのか。あるいは司書のひとりとして正式に役職を任命してから、その仕事を与えても良かったのではないか」
 言いながら、白狼は執務机に手をつき、相手の顔を覗き込むように身を乗り出しました。眉間の皺はいつものことでしたが、常よりも硬い声音に、エルシルも手のものを置いて居住まいを正しました。
「何かあったのですか」
「大有りだ。主がファルニエルを懲罰室へお送りになった」
「……懲罰室へ!それはどういうことです」
「詳しくはわからん。口惜しいながら主は私を遠ざけておられて、その件についてもご相談くださる事はなかった。それどころか、次の館がその話で持ちきりになって初めて知るなどという始末だ。真っ先に主の私室へ向かったが、目通り叶わず……」
 未曾有の事件が従者たちに知れ渡ったのはつい先頃、司書長は既にこの場所で公務に就いており、その話を耳に入れる者はまだいなかったのでした。
「話には一体何と?」
「白の書の書き写しに不備があったそうだ」
 エルシルは形の良い眉を顰めました。
「……そう言えば、先日その件でファルニエルと話をしました」
「何故それを早く言わん!」
「あの時は単なる仕事上の一事と……。異変のうちに入るとは考えておりませんでしたので、特に変わったことはないと申し上げました。何でも書き損じたものを一枚、紛れて提出してしまったと。墨を一滴、垂らしたのだと聞きました。わたくしは中身を改める作業に携わっていなかったので、他の司書たちに対応を任せましたが……しかし……」
 懲罰室は、この白の館の中で尤も意味のない部屋と言われる程、使用された前例のない部屋でした。その名の通り、懲罰として、狭く暗い房にたった一人閉じ込めるためのものでした。しかし罰を与えられるほどの大事などそうそう起こるものでなく、また小さな失態であれば神の娘は笑って許すどころか落ち込まぬよう激励までしてしまうので、懲罰室の扉が開いたなどという話は誰も聞いたことがありませんでした。何故こんな不必要なものを設えたのかとまで言われるほどでした。
 懲罰室が使用されるということは、つまり私刑が加えられることを表していました。例えば神界の掟を破るなど、本当に処罰が必要な罪であるならば、館の中だけで裁かれずに神界全体の判断をもって刑に処されねばならず、いかな神の娘と謂えども勝手な裁定を行って良いものではありませんでした。つまりこの場合の懲罰とは、本来なら罪と呼ぶべきでないことに対し、主の心ひとつで与えられるもので、それが為されたというのは即ち、神の娘が個人的な感情から無慈悲な罰を与えたという他ならぬ証拠なのでした。
「書き損じ程度のことで懲罰室だなどと……我らが白の乙女らしからぬ振る舞いです。少々引っ掛かりますね」
「少々どころではない、大いにだ」
 失礼する、と一声掛けてからラハトハスは手近な椅子に座りました。こんなときでも白狼はきっちりと背筋を伸ばしていましたが、眉間の皺だけは隠せなかったようでした。握った手を膝の上に置いて、深く長く嘆息しました。
「エルシルよ、その書き損じの件、詳しく聞こう」
「ご期待に添う返答にはなりかねるかと存じますが、それで宜しければ―――そもそも、わたくしがファルニエルに依頼したのは、単純な写しの作業です。手本を与え、それをそっくり真似するように。ですから写字室でなく、自室で作業するよう勧めました。あの子が萎縮しないようにと。はじめは言わば教育の一環で、書きあがったものを正式に採用するかどうかは未定でした。ですが仕上がりを見ると、思いのほか(……と言ってはあの子に失礼ですが、)美しいので、何度か依頼を」
 ラハトハスが目線で先を急かしました。今回の件に関わる要点だけで良い、話の長いのが玉に瑕だ、そう言いたいのがすぐにわかる顔だったので、エルシルは苦笑して続けました。
「例の書き損じは、除けておくつもりだったものが誤って提出され、それが更なる手違いで製本されてしまったようなのです。そして偶々プレアスタンの手に渡ったことが判明しまして、あとは当人同士で話をつける算段になったと聞き及びましたが……その後プレアスタンが新しいものと交換を求めたという話は、まだ耳にしませんね」
 プレアスタンの名が出た途端、ラハトハスの顔色が変わりました。眉間の皺がいっそう深くなりました。
「そう言えば、主ニーロニィが久方ぶりに書庫に入られたのも同じ日でしたか。白の書と創世記を自室へお持ちになり、その後、ファルニエルがわたくしのもとへ……」
「司書長はあの男をどう見る」
 白狼は、乙女が書庫に云々よりも、お祭り男について掘り下げました。
「プレアスタンですか?まだ若くやんちゃな印象ですが、主はそういった一面もお気に召しておいでのようですね」
「それなのだ。主は何かにつけ無闇にあの男の肩を持とうとなさる」
 そう言う白狼は頭ごなしに否定し過ぎる、とエルシルは思いましたが、心の内だけに止めました。
「わたくしは、あれでなかなかの好青年と。無論、特別に肩入れするつもりはございませんよ。ただ殊更に言い立てるほどの問題も思い当たりません。むしろ彼の明るさに良い影響を受けている者も少なくないのでは?」
「我らが主に善からぬ影響を及ぼしていれば、他にどれだけ良い影響を与えようと悪にすぎん!」
「ラハトハス……あまり過激なことを口にされませんようお願いしたいものです。今の言動は感心致しませんよ」
 悪、という単語に、穏やかで微笑を絶やさない背高のっぽは珍しく、やや目を細めて咎める眼差しを向けました。
 ラハトハスは一瞬何か言いかけ、しかし口を閉じて、頭痛でも抑えるように目を瞑りました。
「…………そうだな。少々言葉が過ぎたようだ。以後気を付けよう。感謝する」
「いいえ。まあ確かに度々、愉快な事件と共に彼の名が従者たちの口に上りますね。風の便りでは、庭木を可笑しな形に刈ったとか、妙な配合の茶を皆に振る舞ったとか……」
「どちらも本当だ。主は笑ってお許しになられた。従者たちは怒った者、呆れた者から、手を叩いて喜んだ者まで様々だがな」
「実害はないのでしょう?」
「あってはたまらん」
「実害なくば、主がお許しになったものを、わたくしたち従者が許さぬとは申すのは道理が通りませんね。何者かを傷つけたとか、苦しませた、悲しませたという話も聞きませんし……ふふ、わたくしは手を叩いて喜ぶ性質かも知れません」
「エルシル……」
 ラハトハスは疲れたように吐き出しました。
 背高のっぽは徐に立ち上がり、小卓の上の折りよく用意されたばかりだった茶器を取りました。温かい花茶を注ぎ、ラハトハスに差し出しました。
「何故そんなにも、あの子を気にされます?」
「子?」
 受け取りながら、厳しい眉がぴくりと上がりました。
「わたくしにしてみれば、プレアスタンもファルニエルも似たようなものです。可愛い子ですよ。あなたにしてみれば、わたくしとて、そこに含まれるのでしょう?わたくしが主のお導きで人界よりこの場所へ迎えられた頃、わたくしにとってのあなたはまるで厳格な父のようでしたから」
「……昔の話はいい。あの男がそんな可愛らしいものとは思えん。いや、いっそ幼子であればよかったようなものを……」
 ラハトハスは、頂く、と、短く言い、香りを楽しんでから花茶を口に含みました。ゆっくりと飲み込むと、先ほどとは色の違う息を吐きました。
「今はファルニエルの件が問題ではなかったのですか?貴方は本当に、お祭りプレアスタンと聞くとこうです。何か彼に、個人的な感情でも?」
 その問いにラハトハスは答えませんでした。黙ってもう一口、茶を飲みました。軽く肩を竦めてエルシルは再び席に戻りました。
「黄金竜ファルニエルか……」
 茶の器に視線を落としたままで、誰よりも神の娘の傍近くで仕えてきた男は呟きました。旧友の相槌を待つような、どちらでも良いような僅かな沈黙の後、更に言葉を続けました。
「懲罰が必要だと他ならぬ主がご判断され、寛大なご措置をと奏上してもお心が変わらないならば、そのときは我ら従者が異を唱えることは出来ん。ファルニエルには可哀相だが、辛抱してもらうしかない」
「しかし問題は主ご自身の方ですね。書き損じの何がそこまで主のお心を乱したのかは解りかねますが……わたくしが口ずから任命した仕事とは言え、ファルニエルは司書ではありません。白の書の書き写しは本来わたくしたち司書の役目……あの子の仕事が正式な任務と言えるか否か、難しいところです」
 先ほど司書長が語ったとおり、ファルニエルとデューセリンが白の書の書き写しをすることになったのは、引っ込み思案なファルニエルの気の弱さをエルシルが気にかけて、何か自信に繋がることをと世話を焼いたからでした。ファルニエルと同室であり良き友であるデューセリンは、ファルニエルとは対照的に誇りに満ちた少年であったので、ファルニエルが気後れして断ってしまわぬよう、またおかしな軋轢を作らないためにも、二人一緒にという形で依頼しました。すべてはエルシルの一存でした。
「公務であれば失敗に対し何らかの措置を取ることも理由が立ちますが、わたくしの個人的な頼みごとならば懲罰には値しないでしょう。そうなったとき、神々がどうお考えになるか……あなたが憂惧なさるのはその点ですね?…───良かれと思ってしたことですが、思わぬところで波紋を呼んでしまったようです。わたくしの落ち度とも言えましょうね」
「過ぎたことを言っても埒があくまい。私も先程は少々感情的になったが、司書長を責めるつもりはない。気掛かりなのは、主の変貌の原因なのだ」
 変貌、とエルシルは思わず口の中で小さく繰り返しました。
「そう、変貌だ。何故このように突然私を遠ざけ、自堕落な生活に耽り、行き過ぎた懲罰など与えるご心境になられたのか?お戯れにこういった真似をなさる方ではない、断じて。明らかに不自然だろう。ご自身のみの問題とはとても思えん」
 茶を一口。
「ここしばらくのこと───そう、この白狼ラハトハスを遠ざけ始めてからのことだ。次の館へのお運びが目に見えて減った。今や途絶えたと言ってもよかろう。現在は僭越ながら私が、主に代わって次の館の仕事ぶりを度々視察している。先日は書庫を訪ねられたそうだが、他にそのような話は聞かんな。身の回りのお世話を言い付かっていた者たちも、ぼやいていた。毎朝のお召し替えにすらお呼び頂けないと……しかし、そうかと思えば夕の頃に突然、新しいご衣裳をと望まれたり、そうして伺ってみれば、御髪を櫛けずったご様子もなく寝所に伏せったまま、などということもあったという」
 それを聞いて微かに顔を翳らせたエルシルの、微妙な表情を読んだのは、長い付き合いがあればこそでした。ラハトハスは、こちらも表情でそれに是と答えました。
「……何者かの意志が働いていると」
 二人だけの空間でなお辺りを憚るように、エルシルは声を潜めて確認の言葉を口にしました。ラハトハスは重く頷きました。
「そうでなくては腑に落ちん。余りにも……余りにも」
 二度目の言葉を噛むように低く響かせて、ラハトハスは茶を飲み干しました。
 ややしばらく沈黙のまま空(くう)を見つめていたかと思うと、やがて、
「白の乙女にこんなにも愛と忠誠を捧げる者など、私の他にいるべくもないというのに」
 砂に水を落とすように静かに言葉を零して、そして口を閉ざしました。
 氷室に置かれた石の彫像のように、虚ろに無を見る白狼を取り巻いているものは、静寂であり、嵐であり、力であり、そして言葉そのものでもあり、つまりは純然たる沈黙でした。
 その姿はエルシルの心にさざ波を立てました。風よりも音に似ていました。エルシルが神界の住人となり、背高のっぽと呼ばれ始め、司書長の任を授かって今に至るまで、ただ人ならざる身においても決して短くはない時を過ごしましたが、白狼ラハトハスのこんな姿は目にしたことがなかったのでした。
 音無き音に共鳴し、エルシルもまた沈黙に身を委ねました。部屋は密度の高い静けさに支配されました。すぐ向こうの司書室では会話や物音があるはずなのに、この場所だけ、まるで水の底でした。
 どれくらいの後のことか、ラハトハスが不意に器を煽って、残りの茶を飲み干しました。器が卓に戻され、受け皿が小さな音を立てました。
「―――馳走になった。礼を言う。エルシルよ、どんな些細なことでも構わん、気付いたことがあれば伝えて貰いたい」
 ラハトハスは扉へ身を向けました。エルシルは意を汲んで立ち上がり、部屋を出るまで見送りました。
「お役に立てるかわかりませんが、司書たちの口に上る話題には注意しておくことに致しましょう」
「頼む。ではな」
「ええ。ごきげんよう」
 背筋の伸びた後姿が規則正しい歩幅で遠ざかり、角を曲がって見えなくなっていきました。扉が閉められるまでには、たっぷりと間がありました。エルシルの淡い緑色の瞳が、その姿の消えていったあとを、憂えていたのでした。
 ようやく扉を閉めた背高のっぽは、静かに執務机に戻りました。椅子に掛けると、避けておいた書類に再び目を通し始めました。何枚かの紙を取り上げて軽く目で辿り、一枚、二枚と後ろへ送って三枚目まで繰り出しましたが、そのまましばし手を止めたかと思うと、机の上に戻してしまいました。
 目を伏せて何事か思案する様子でしたが、ややあって立ち上がり、白布を両肘に掛けてゆったりと羽織りました。
 書面のうち二枚を取り、司書長室を出ると帳場へ立ち寄って、
「失礼。わたくしは少々、席を外します。この件はフートに、こちらはデルガに。あとは、また後程」
 職務中の者たちに告げました。
「どちらへ?」
 デルガと呼ばれた従者が仕事を受け取りながら何気なく尋ねると、
「………」
 背高のっぽのエルシルは、ただ微笑みを以て答えとしました。



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2009.08.23 公開