異界を渡る物語 第一章 第十三話



 誰かの声が聞こえた気がして、ファルニエルは顔を上げました。どこを向いても真っ暗には変わりないのでしたが、それでもつい、目をきょろきょろさせました。
「(おーい。ファルニエル……大丈夫か?)」
 ひそひそ声と共に一条の光が差し込み、まだ発達しきらない肩が、ぎくっ、と強張りました。
 光の帯を追って外を見ようとしましたが、暗闇に慣れた目では眩しくて、声の主を見ることは出来ませんでした。しかし声色からある人物が思い当たりました。
 思わず相手の名を呟きかけましたが、ずっと黙っていたためか喉が妙に張りつくような感じで、声になりませんでした。
「(わかるか?俺だよ、プレアスタン!……ほら)」
 ふと光がやや翳ったので改めてゆっくり目を向けると、四角く細長い僅かな隙間から、にょき、と、丸いものを持った手が現われました。そこはどうも正規の出入り口とは違う窓か何かのようでした。
 ファルニエルは、プレアスタンの持っている丸いものを、よくよく見ました。それは瑞々しい果実でした。つまり、差し入れというわけでした。
「(汁が零れるからな。気を付けて食えよ。種はこっちへ寄越せばいいから)」
 暗闇から見る光の中の手は、やけに生々しい絵画のようで、同時にひどく優しげにも見えました。その様はファルニエルに、疑似餌で小魚を捕らえる大魚の罠を連想させました。
 妙に怖くなって、まごまごしていましたが、ほら、と促されたので、恐る恐る小窓ににじり寄り手を伸ばしました。受け取りました。なんのことはありませんでした。ほっとして、手にしたものを改めてよく見ました。
 ファルニエルの手に程よくやや小振りなそれは、従者たちの多くが好んで食す、人気のある果実でした。ファルニエルも口にした経験がありました。
 出来るだけ光に寄せて見てみると、赤い色をしているのがわかりました。反対側はまだ薄ら青みが残っているように見えましたが、おおよそ熟していて、薄い皮を破れば濃い黄色の果肉から甘い汁がたっぷり滴るはずでした。
 今まで真っ黒ばかり見ていた目に懐かしいとさえ思える赤を楽しませてから、ファルニエルはそっと口をつけました。食という娯楽には大して執着はない方でしたが、この時ばかりは素直に有難く思いました。落とさないよう、両手で口に押し付けるようにして慎重に食べました。
「ありが……(ありがとうございます)」
 喉が潤って思いの外すんなりと出ましたが、プレアスタンの喋り方を思い出して、こちらも声を低くしました。返事の変わりに手ぬぐいを差し入れられたので、手を拭き、種を包んで返しました。
「(気にするなって。というより、むしろこっちが頭を下げたいくらいだしな。俺だって、まさか懲罰室まで事が大きくなるとは思わなかったんだよ)」
 光の向こうで身じろいだ気配がしました。
「(先に一言かけてくれりゃ、こっちでなんとかしたんだが……。なあ、ここを開けてお前を入れたのは誰だ?主が御自らってことはないだろ?)」
「(違います……でも、あの……動転してしまって、よく覚えていません)」
「(そうか。まあ、そうだよなあ。それが当然だろうよ。───で、例の話は?)」
「(し、していません)」
 安堵の息をついたのがわかりました。
「(そうか。ならいい)」
「(あの……その、ディディは。デューセリンはどうしているか、ご存知ありませんか)」
 ファルニエルは闇の中で膝を抱えながら、親友の竜の子のことばかり考えていたので、思い切って尋ねてみました。
「(うん?あいつか……いや、すまん。ちょっとわからんなあ)」
 プレアスタンがほんの気持ち言い淀んだのを敏感に感じ取って、ファルニエルは唇を噛みました。
 二人で廊下を歩いているところで神の娘の使いに呼び止められ、懲罰室へ連行されることになった時の、振り返って見たデューセリンの驚きの表情が目の前に浮かんできました。
 今頃あの真面目で誇りと名誉を重んじる友人は、懲罰を受けるなどという不名誉極まりない事態になった自分をどう思っているだろうか、信じて庇ってくれているのか、それとも愛想を尽かしてしまっただろうかと、ずっと思い悩んでいましたが、今のプレアスタンの言葉で後者に傾いた気がしました。驚愕の顔が侮蔑の顔へと変わるのが頭の中に見えて、鼻の奥がつんとしました。
「(後で必ず汚名を返上させてやるからな。我慢しろなんて俺が言えた立場じゃないが、もう少し頑張ってくれよ)」
 掌の下の方を目元に押し当てて、こみ上げるものをなんとか堪え、はい、と小さく返事をしました。
「(……それが、主ニーロニィの為……なのですよね?)」
 ファルニエルはひとつの秘密を抱えていました。それは遡れば書き損じの白の書がプレアスタンのもとに渡ったことに端を発し、更に知の神クレイスニルの館で輪郭を顕にすると、ここに至っては孤独と後ろめたさでもってじわじわと心を責め苛んでくるのでした。
「(心配しなくても、あの時伝えた通りだって)」
 プレアスタンはそう言うけれども、幼い黄金竜の子はその言葉尻にさえ不安を覚えました。ただ一言、そうだ、とはっきり言ってくれたら良かったのにと恨めしく思い、しかし次の瞬間にはもう、そんな己の軟弱さが悲しくなってまた唇を噛みました。
「(主は……どうしておいでですか。僕はどうすれば……)」
 涙声にならないよう必死に堪えたつもりでしたが、プレアスタンにはわかってしまったのか、小さく笑ったような息遣いが聞こえました。
「(悪いな。今は心配するなとしか―――ところでファルニエル、その中、狭いのか)」
 あまりに唐突な質問にファルニエルは首を傾げました。
「(あの、は、はい、たぶん、あまり広くは……)」
「(お前ひとりで、縮こまって身動きもとれないくらい狭いか?)」
「(そこまでぎりぎりいっぱいというわけでも……)」
 両腕をのびのびと広げるほどの幅はありませんでしたが、少なくとも小柄なファルニエルが足を真っすぐ伸ばせるくらいの奥行はありました。
「(そうか、よし!)」
 一体何が、よし、なのか疑問に思う間もなく、細い隙間に手が掛けられました。と思った途端、なんと小窓が乱暴に開かれ、プレアスタンの足が突っ込んできました。
 小窓に近づいていたファルニエルは蹴っ飛ばされて、否、踏ん付けられたという方が適切なのか、とにかくどかっとやられて眼を回しそうになりました。一瞬の光景が瞼に焼きついて、何色とも言い難い光がプレアスタンの足の形を影絵にしながら、ちかちかと明滅しました。何が起きたかとまごまごしているうちに、小さいとは言いがたい身体が無理矢理入り込んできて、押されて奥へ追いやられました。
「(い、いったい何を……!)」
「(悪い悪い!ちょっとまずそうだから、匿って貰うんだよ)」
 幼いファルニエルひとりだったからこそまだ余裕があったものの、流石に成人男性とふたりでは、ぎゅうぎゅう詰めでした。
 プレアスタンは身動きままならないながらも、小窓を閉めようとしました。
「(う、内側から閉めてしまって、開けられるんですか)」
 何から匿わねばならないというのかわかりませんでしたが、これでは出られなくなると、ファルニエルは慌てて止めました。言われるまで気付かなかったのか、プレアスタンが驚いたような納得したような顔でファルニエルを見たのが、目の前を横切りそうで横切らない光の残像越しに見えました。
 プレアスタンは大急ぎでごそごそと懐を探って手ぬぐいを取出すと、手早く端っこを細く裂き、紐にしました。外側に手を伸ばし何やら細工してから挟み込むようにして、四苦八苦しながら何とかかんとか小窓を閉めました。その間中、肘やら膝やら、大柄でないとは言え青年のごつごつした身体があちこちにぶつかって、ファルニエルは痛い思いをしました。
 小窓を閉めたために真っ暗に戻った四角い空間の中、お互いなんとか尻を落ち着けたかというところで、プレアスタンが手探りでファルニエルの肩を引き寄せ、今までよりも更に小声で囁きました。
「(いいか。―――間もなく此処に誰か来る。そいつは俺が開けた特別な窓のことは知らないはずだから、姿を見られる心配はない。黙ってさえいりゃ、ここにいるとは思わないってわけだ。頼むから余計なことを言わないでくれよ)」
 何が何だかわからないまま頷くと、言葉に代わって肩に置いた手が指だけでぽんと軽く返事しました。
 直後、プレアスタンの言ったとおり、声のみの面会を求めてきた者がありました。
「ファルニエル、聞こえますか?司書長エルシルです」
「…………。あっ、は、はい。聞こえます」
 応えるまでに妙な間があったのは、返事をしていいのか戸惑っていて、プレアスタンに小突かれたからでした。
 どういう仕組みになっているのか内側からは推測も出来ませんでしたが、とにかく外の声が中に届いて、こちらの声も外で聞くことが出来る仕組みがあるようでした。外部との繋がりはこちらの方が正式で、プレアスタンの開けた小窓はいわば裏技のようなものだったのでした。
「房の中は辛くありませんか」
「……あの、身体は大丈夫です……でも、外のことが、ひどく気に掛かります……真っ暗で、どのくらい経ったかもわからなくて……」
 言いながら、ファルニエルは急にどきどきしてきました。至近距離も至近距離、殆ど抱き合うような格好で、自分と誰かのやり取りを第三者が聞いているというのは、まるきり異常な状況でした。
 ファルニエルは急激に緊張してきました。自分はここにプレアスタンがいることを知っているのに、外で話している方にはそれがわからないのだから、エルシルにすれば盗み聞きされていることになるのでした。知っていて黙っているなら幇助と同じで、後ろめたいことこの上ありませんでした。もしも発覚してしまったら双方から責められる立場になるのではと思うと、気の小さい黄金竜は肝の縮む思いでした。
「―――ファルニエル。今回のことについては、わたくしにも責任があると思っています。無論、全てがわたくしのせいだとは申しません。あなたも白の従者のひとりですから、そんなことを言ってはあなたへの侮辱になりましょう。けれども、あなたひとりが悪いかと言えば、そうではない。わたくしにも多分に落ち度がありました。お詫びしたいと思っています」
「エルシル……」
 目頭が熱くなりました。甘やかして庇い立てされるよりも、一人前の従者のひとりとして責任を与えられたことが、ファルニエルには嬉しかったのでした。
「ですが―――今一つ腑に落ちない点も」
 そのままの穏やかな声がそう続くと、プレアスタンがぴくりと反応しました。ファルニエルも思わず身を強張らせました。
「腑に、落ちない……ですか?」
「ええ。あなたは疑問に思いませんでしたか?わたくしは、少なくともあなたよりは遥かに長い時間を我が主ニーロニィに捧げて参りましたが、まさか懲罰室の扉が開かれる時が来ようとは思いもしませんでした。それも、白の書を写し損じたからと、そのような些細な理由で、です」
 いよいよ話の雲行きが怪しくなってきました。
「もっとひどい失敗をする者も、白の従者たちの中にいないわけではないのですよ。それでも我らが主は、いつも笑ってお許しになりました。わたくしの知る神の娘ニーロニィは、例えどのような理由があろうとも懲罰など望まれる方ではありません。第一、白の書に書き損じの紛れ込んだことをお怒りならば、処罰すべきはわたくしを始めとした司書たちであると判断するのが妥当かと。書き損じたことよりも、確認を怠り製本して出回らせたことの方が、責任という意味では重いでしょう。どう思いますか?」
「………………わかりません。僕はただ……その。主の御心に、従う、だけで……」
 ファルニエルは体中の血の巡りが二倍も速くなったように感じました。
「そうですか……。あなたは主が戯れにこのようなことを仰せになる方だと思いますか?それとも他に心当たりが?」
 答えられませんでした。
「もしもの話ですが、何か特別な事情があって、今あなたがそこにいるのだとしたなら。わたくしに話してみませんか?このままではあなたの為にも、主の為にもよろしくありません」
「主の為にも?」
「そうです。我らが主の御身に、あるいは御心に、異変が起こったとあれば、放っておくわけには参りませんでしょう。あなたの罪が本当に単なる書き損じなら、お労しいことですが主のご乱心であると理解せざるを得ません。そうなれば白の館の中だけでは済まされない問題です」
 それはつまり、神の娘の名誉が著しく汚されることを意味していました。無論、神々が白の乙女を軽蔑などするはずはなく、痛ましげに同情と救いの手を差し伸べるだろうことはわかっていましたが、それでも乙女についての良くない出来事がすべての神々の記憶に久しく残されてしまうことも、また疑いようのない事実でした。
「主の、為にも……」
 ファルニエルの心に迷いが生まれました。ファルニエルが、「例の秘密」を親友のデューセリンにさえ打ち明けなかったのは、主ニーロニィを思えばこそのことでした。しかしこうしてエルシルの話を聞き、黙っていた場合にも不利益があると知って、揺らぎが生じました。
 そのとき、暗闇の中でファルニエルは飛び上がるほど驚きました。何者かの(と言っても、プレアスタン以外には考えられませんが)手が、突然力強く手首を掴み、どこかへ導いたのでした。
 手の触れたものは、プレアスタンの顔、頬の辺りでした。僅かに髪が触れていることや、感触でわかりました。そして、引っ込められないように上から手で包んだまま、プレアスタンが首を横に振りました。
 その意図は明らかでした。つまり、言ってはいけないという合図でした。
 ───言うか、言わないか。それはファルニエルにとって、エルシルを選ぶか、プレアスタンを選ぶかという二択でもありました。正直なところプレアスタンとはまだ付き合いも浅く、なし崩しに係わり合いにならざるを得なかっただけの関係でした。一方、白の書を写すという仕事を与えてくれた司書長エルシルには恩もある上、その穏やかで柔らかい物腰や造詣の深さに、仄かな憧れを抱いてもいました。
 純粋な感情だけで選ぶならば、エルシルに打ち明けていたかも知れませんでした。しかし、今の状況はそうはさせませんでした。
 言ってしまいたい、楽になりたい。けれど狭い房の中、頬に手を当てさせているプレアスタンが、今にも喉笛に喰らいつこうかという獰猛な獣にすら思える───ファルニエルはひどく葛藤しました。
「…い、いえ……いいえ、エルシル。僕には何も……言うべきことが、ありません」
 結果として口から出た答えは、決して嘘ではないけれども(知りません、わかりません等と言えば偽りでしたが)、プレアスタンの意向にのみ従ったものでした。
 プレアスタンの頬の筋肉が動いたのを感じました。微かではあるけれども、笑ったようでした。
「一切、何も、ですか?」
「は、はい」
 プレアスタンの頷きに合わせて返事をしました。
「つい先達てのことですが、デューセリンと二人で我らが主より公務を与えられたそうですね?それはどんな内容だったのです?」
 えっ、と思わず訊き返すような声を上げてしまいました。
 公務の内容、それは一言で表せば、調べもの、それだけでした。しかし、何を調べたのかと問われてしまったら、答えざるを得ませんでした。
 プレアスタンも難しい顔をしたようでした。ファルニエルは何とか凌ごうと必死に考えました。
「あの……何故、それをご存知なのですか」
「デューセリンです。よほど嬉しかったのでしょう、随分と誇らしげでした。主ニーロニィ御自らのご指示であったと、皆に話していたようです。わたくしの耳へは人づてに」
「……はい」
 触れて回っていたと聞いてプレアスタンが唇を歪めたようなので、どうなることかと思いましたが、なんとか話が進みました。御自らのご指示であることについてとも、デューセリンの様子についてとも受け取れる肯定をしながら、全力で頭を働かせました。念を押して同じ質問を繰り返されてしまったら、逃れる自信がないのでした。
「ディディ……デューセリンは、そんなにあちこちで吹聴していたのでしょうか」
 自分よりもむしろ、プレアスタンが知りたがっているのではと思い、尋ねてみました。すぐに小さく頷く仕草が伝わってきました。推測は正しかったのでした。
「吹聴と言うと大袈裟ですが、知る者も多いようですよ。他はわかりかねますけれど、司書たちの間では評判です」
 評判、と聞いてファルニエルは思わず、どこから響いているのかわからないエルシルの声を暗闇の中に見上げました。
「それなら、簡単な調べものだと、既にご存知なのでは……?だって、きっとデューセリンは話すはずです。それを、どうしてわざわざ言わせようと……エルシルは……」
 僕を試しているのですか、と言った声は半分くらい震える空気で出来ていて、図らずも最大の効果を生みました(効果も何もこの可哀想な板挟みの子は、実際今にも気を失うのではというほどの心境だったのですが)。
「ファルニエル。黄金竜の子。どうか泣かないでください」
 エルシルのその声音から、いま浮かべている表情が、目の前で見ているのと同じくらい(もしかしたらそれ以上に)よくわかりました。ほんのすこし困ったように眉尻を下げ、目蓋をやや伏せ、哀しげで痛ましい顔をしているに違いないのでした。
「ただ、人づてでなく、あなたから直に聞きたかったのです。わたくしの配慮が足りませんでした。悲しい思いをさせましたね。けれど嘆かなくてよいのです、わたくしの友、志を同じくする者、白の従者ファルニエル」
 まだ涙を溢してはいなかったファルニエルでしたが、その声を聞いて一気に胸が塞がってしまいました。他でもない司書長エルシルが、同志であり、友である、つまり、対等の相手として自分を認めているというのだから、ファルニエルにとって何よりの救いでした。
「僕……ぼ、僕は……どうして、こん、な、ことに……!」
 色々な感情が渦を巻いて膨らみ、限界を超えて、黄金竜の子はついに嗚咽を洩らし始めました。一生懸命かみ殺そうとしましたが、
「ファルニエル。そこから出られるよう、わたくしも手を尽くします。それまで心挫けず待つことが出来ますか?」
 自分の意志に関わらず横隔膜が引きつってしまって、ろくに言葉も紡げませんでした。辛うじて、はい、とだけ答えられました。
 そっとしておいた方が良いと思ったのか、エルシルはもう二言、三言やさしく声をかけると、
「次はきっと良い報せが届きますように」
 という言葉を別れの挨拶にして去って行きました。
 ファルニエルはぐっと奥歯を噛み合わせたまま、それを聞きました。立ち去るのだとわかりましたが、とても喋れる状態でなかったので、失礼ながら無言でやり過ごすことになりました。
 ヒ、とか、フ、とか、グ、とかいう、身体が勝手に出させる声を止められないでいるファルニエルの肩が、不意にプレアスタンの手で、そっと抱かれました。驚きで震えたその肩を、もう少し引き寄せるように腕が回されたと思うと、幼子をあやすように片手が背中で調子を取りました。
 そうなってファルニエルは初めて、意志疎通の為にプレアスタンの頬へ持っていかれていた手が、そう言えばいつのまにか、自分のそれよりも一回り大きな手に優しく握られてはいなかったかということに思い当たりました。
 小さな黄金竜は思わず強ばった身体から力を抜いて身を任せました。されるままにもたれかかったプレアスタンの胸は温かでした。すっぽりと包まれて、寄りかかると、親鳥に守られる雛とはこんな心地だろうかとさえ思わされました。
 先ほどまでの、あの恐ろしさは何だったのだろう?それに比べて、この安堵感はいったいどうしたことだろう───暗闇に閉じ込められてから、わからないことだらけでしたが、何よりもこれが一番の謎でした。
 いったい、お祭りプレアスタンの本当はどこにあるのだろうか、と、ファルニエルは、まだ時折飛び跳ねたがる息を持て余しながら思いました。


* * *


「何故止めた、エルシル」
 一方、懲罰室から出た人影は、ふたつ、ありました。ふたりはお互い何食わぬ顔で廊下を歩き、人気のない方へと足を向けました。
「あれは何事か隠しているとしか思えん」
 ラハトハスは落ち着いた静かな声音の中に、不満を滲ませていました。
「あの場で徒に暴き立てたとして、どう収集をつけるおつもりです?」
 くれぐれも黙っているよう予めお願いしておいて正解でした、と、エルシルは苦笑しました。
「ええ、正直に申し上げて、わたくしも同じ考えですよ。けれども、ファルニエルは何も言わないことを選びました……もしも、あの子が自分から打ち明けるなら、その時は今すぐにでも力になりたいところですが、そうでないなら、わたくしはもう少し様子を見るべきと考えます。あの子が全くの愚かな子だなどということは絶対にありません。言わぬのか、言えぬのか、今はまだわかりませんが、不用意なことは避けるべきです。傷つくのはあの子であり、我らが主なのですから」
「だからと言って、捨て置けるか」
「捨て置くとは申しませんとも。ただ、やり方次第で、取り返しの付かぬことにもなり得るとは思いませんか?」
「無論、心得ては、いる。しかしだ。何かひとつでも言質を取っておくくらい、しておけば良かろうものを」
「(また物騒な言い方をなさる……)それはあまり勧められません。ラハトハス、あなたはあの子の後ろで何者かが手を引いていると思っているのでしょう?」
 あくまでも穏やかに言うエルシルに、冷静に答えていたラハトハスでしたが、ぴくり、と眉が動きました。
「仮に、それが本当だとして、です。ほんの少し何か聞いたからと言って、個人を特定できるほど有力な証拠が手に入るとは思えません。何より、ファルニエルが何者かと通じているなら、こちらが気づいているということを、相手にも気づかせることになります。もしかしたら、もう気づいているかも知れませんが、間違いなく確信に変わるでしょうね」
「問題があるか?」
「相手の目的がわかりません。それがはっきりしない限りは、こちらが先に事を起こしたとして、相手がどう出るか全く予想できません。そんな状態で闇雲に先手を打とうとするのは上策と言えないでしょう」
「(……主を貶めるのが目的では?)」
「(それで何かを得る者が、この白の館に一人でも居ると?)……こればかりは、主ご自身、あるいはファルニエル本人、そしてあなたの言うもう一人の何者か。いずれかの口から事情が語られるまでは推測の域を出ませんが───状況から察するに、肝心の主もファルニエルも、その何者かを庇っています。そんな状態では、仮に、仮にですが、あなたの仰る通りの目的を持った者が白の従者たちの中にいるのだとして、今わたくしたちが介入しても、即座に解決はできないでしょう。兎も角も、知る時間が必要です」
 ラハトハスはむっつり顔で口を引き結びました。エルシルは半歩後ろを歩きながら、雰囲気でそれを感じ取りました。
「何を考えているのかは、おおよそ見当が付くところですが。他でもない、あなたのことですから、下手を打つような真似はないと思って良いのでしょうね」
 当然だ、と返事されるまでに少々の間があったので、背高のっぽは小さく苦笑しました。
「ただ、今こうしている間にも、お前の言う『取り返しのつかぬこと』へ向かって転がり落ちているようで、気が気でないのだ」
 言葉の調子の低いのが、声を抑えているせいだけでないことは、明らかでした。
「ラハトハス」
 エルシルは、先輩であり同僚であり友である白狼の背に、そっと片手を沿え、隣に並びました。こちらを見ようとしない横顔は、あまり顔色が良いとは言えませんでした。
「わたくしも同じ思いです。しかし、だからこそ、急いては事を仕損ずるというものです。そして……真相がわかるまでは、どうか、何者かを悪と決め付けないでください」
「やはりお前も、あの男の肩を持つのだな」
 ふたりの足が止まりました。
「いいえ。わたくしは、この白の館に生きる者たちを皆、同じく信じていたいだけです。あなたは違いますか?」
 ラハトハスは答えませんでした。
「白狼ラハトハス……あなたがそうまで拘るのは、彼の者の生まれが異例だからでは?」
 エルシルがそれを口にすると、さっと空気の色が変わりました。ラハトハスが視線で咎めましたが、エルシルは口を噤むことなく、更に続けました。
「だとしたら、それは偏見というものです。謂れのない差別です。確かにあの子は他の者たちと違う形で生まれてきました。しかし、それだけのことです。そう、単に異例であって、異端ではない。あの子を差別なさるなら、どうぞわたくしも一緒に。何故ならわたくしは、もともと人として地上に生まれたからです。わたくしだけではありません、従者たちの中には───…」
「もういい!」
 淡々としたエルシルの台詞に、苛立たしげな声が割り込みました。ラハトハスは身体ごとエルシルに向き直り、正面から対峙しました。険しい翠玉の瞳と、やや細められた橄欖石の瞳がぶつかりました。
 無言でじっと視線を合わせた後、ラハトハスは眉根を寄せて目を閉じ、ふーっとひとつ息をついて、それからゆっくりした調子で話し始めました。
「エルシルよ、今回の件に関して私があの男に嫌疑をかけているのは、そういう理由ではない。ひとつ、以前からあの男は素行に問題があった。ひとつ、主のご様子が変わり始めた頃から、茶の席にあの男ばかり呼ばれている。更にひとつ、ファルニエルの書き損じの件についても関わりがある。それらを踏まえて客観的に判断したのであって、主観のみに基づくものではない」
 念を押すように指を立てて数え上げました。
「そして逆に問おう。実際に問題が起こっている今、原因を究明することは我らの務めではないのか?少しでも可能性があるならば、ましてや非常に高い可能性が考えられるのであれば、徹底して調べ、真相に近づくべきではないのか?」
「勿論です。ただ、真相を知ろうとする者には、色眼鏡でものを見ることが許されません。ですから、いらぬ世話とは思いつつも念のために確認しました」
「聞き捨てならんな」
 翠玉の瞳が今度こそ険を帯びました。
「その言葉、そっくり返そう、エルシル。疑わしい理由があるにも関わらず、そんなはずがないからと庇いだてすることも、色眼鏡に違いあるまいよ。第一、本当にあの男が無実だと言うならば、調べに調べて調べつくし、逆に潔白を証明すれば良かろう。いずれにせよ、調査が必要なのだ。今回ばかりは、例えお前が止めようと、私のやり方でやらせてもらう」
 乱暴でこそないものの、内包する感情のはっきりと見える口調に、エルシルは伏せ目がちに押し黙りました。
「……不満げだな?主といい、お前といい、何故、何故そんなにもあの男を……」
「いえ、ラハトハス、わたくしは───…」
「この話は終わりだ」
 ふたりは向こうから従者が歩いてくるのを目に留め、会話を打ち切りました。少し歩いてから頃合を見計らって、何かあれば連絡を、と約して別れました。
 ひとりになってから、エルシルはこっそりと小さな溜息を落としました。
 そもそもエルシルがファルニエルに話を聞こうと思ったのは、この白の館に、主に害を為す不心得者などいない、ということを確認したかったからでした。
 司書長室で聞いたラハトハスの言い分は、確かに尤もではあるけれども、身内を疑うような気持ちには、どうしてもなれませんでした。無論、白狼とて、同じ従者を疑うなど、進んでしたいことではないはずでしたが、どうも白の従者のひとりを、それも特定の人物を、はっきりと疑いの目で見ているようなので、それがひどく哀しく、もどかしく、残念で仕方がありませんでした。
 その心の靄を解消する手段として、まずは本当に書き損じだけで懲罰を言い渡されたのか、事実を直接ファルニエルの口から聞こうと思い立ちました。
 エルシルは、声のみのやり取りならば、実は誰でも行えることを知っていました。司書長であるエルシルは、殆ど禁書のような扱いになっている懲罰室に関する貴重な資料も、職務上、閲覧していました。それをよく覚えていたので、こっそり話を聞きに行こうと思ったのでした。
 黄金竜の子が何かを知っていて、真実が判明するならよし。何も知らぬのであれば、不遇を慰めてもやりたい。あの生真面目で心配性の従者筆頭も、頭を悩ませてばかりいるよりも何かしていれば少しはましだろう、案ずるより産むが易し、いずれにせよ悪い方向へ進むことはないだろうと考えていました。
 ところが、実際はどちらでもありませんでした。つまり、ファルニエルは、何か知っているようなのに、それを隠したがっている様子でした。
 それだけではありませんでした。エルシルは、何者かがファルニエルに接触を図ったらしいことに気づいてしまいました。存在を知らない(あるいは、思い至らなかった)白狼は気づかなかったようですが、小窓に細工がされていたのを、エルシルは見つけていたのでした。
 単純に事実を見る限り、個人の特定は別として、十中八九ラハトハスの推測が正しいと思わざるを得ませんでした。それはエルシルもよく承知していました。ならば、何故、ああも重ねて「仮に」と強調し、慎重な対応を求めたのか───それは、ラハトハスを嗾(けしか)けることになるのを恐れたからでした。いま自分が同調すれば、白狼は間違いなく例の青年を、つまり、プレアスタンを糾弾しにかかるだろうと思われました。エルシルはそれを良く思いませんでした。
 問題を解決することと、犯人を吊るし上げることは違う。それがエルシルの考えでした。
 エルシルに言わせれば、ラハトハスは本来、激情家に類される性格の持ち主でした。ただ、一方で非常に強い理性と、冷静であることに美しさと誇りを見出す面があるので、平素は努めて落ち着きを保っているのでしたが、それが主ニーロニィのこととなると、どうも熱くなりがちなようでした。
 少々言い方を間違えたようだ、と、背高のっぽは嘆息しました。結果としては、嗾けたのと同じことになってしまいました。
 こうなってしまっては、己に出来ることと言えば、こちらも出来る限り手を尽くし、これならば誰の目にも瞭然であるという具合に、文句のつけようもなく事実を明らかにするしかありませんでした。ラハトハスが早まった強硬手段に出るとは思いたくありませんでしたが、一歩間違えば白狼本人が名誉を失う事態にもなり兼ねない以上、備えは必要でした。痺れを切らす前にことが明らかになるなら良し。また万が一、辛抱堪らずことを起こしたときでも、裏づけになる情報が多数あるとなれば、ラハトハスを守る大義名分が作れるのでした(白狼の読みが見当違いだった上に、早まった場合はどうにもなりませんが)。
 要するに、エルシルの心としては、今回の問題を引き起こした当事者も、それを暴こうとしている白狼も、等しく守り、慮りながら、最も良い形でことの収束を図りたいと願っていたのですが、ちょっとした言葉の綾で、ラハトハスにはそうと伝わらなかったのでした。
「(まずは、懲罰室の資料の方面から当たってみますか)……気が重いですね」
 エルシルは思わず独り言を漏らして、口元に手をあてました。


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2009.12.30 公開