異界を渡る物語 第一章 第十四話



 懲罰室での出来事の後、プレアスタンはその足で真っ直ぐ神の娘の私室へ向かいました。
「何を考えてるんですか!まったくもう、あなたってお方は!」
 呼ばれても居ないのにずかずかと私室に入りましたが、室内を見渡しても乙女の姿は見当たりませんでした。
「どこです?主ニーロニィ!」
 呼びかけながら奥へ奥へ足を進めましたが、とうとう残されたのは寝室のみとなり、思い切り口をへの字にしました。いくらなんでも寝室へは無断で足を踏み入れるわけにいかず、苛立たしげに扉を叩きました。
「主ニーロニィ!もう寝てるのか、まだ寝てるのか、いったいどっちです!お話があるんですよ、出てきてください!」
 何の反応もありませんでした。
「このまま返事をしないなら、もう俺には何も出来ませんよ。これから先、俺の助けはいらないってことですね」
 扉の向こうで動く気配がありました。
「まだ開けませんか。それなら仕方ない。じゃあ俺は帰りますんで、あとはご自分だけでお好きなように───…」
「待って!」
 わざとらしく間延びさせた言葉に、乙女は慌てて飛び出してきました。乱れた髪を片手で撫で付け、夜着ではないものの寛ぎ着で、やはり少々だらしのない格好でした。
 それをプレアスタンは、腕を組んで迎えていました。立ち去ろうなどという素振りは全くない態度に、謀られたと知った乙女は憤慨しました。
「ひどいわ!プレアスタンたら」
「どっちがひどいんですか!怒ってるのは、こっち!」
 片手を腰に、やや身を屈めて人差し指を突き付けると、乙女はちょっぴり身を引きました。
「何の相談もなしに懲罰室なんか使うってのは、いったいぜんたい、どういうおつもりです!あいつは繊細なんですよ、あんなことして、何もかも喋っちまったらどうするんですか!あんまり考えなしに動かないでください!」
「か、考えなしだなんて!」
 従者の剣幕に押されまいとばかりに、主もまた言い返しました。
「だって……そうよ、あなたが言ったのです、プレアスタン!ファルニエルのせいでクレイスニルの知識はもう使えないと」
「その件は内密にしなきゃならんでしょうが!」
「だから書き損じを理由にしました!」
「芋蔓式に露見する危険の種を、自分から蒔いただけですよ!ああ、もう!」
 プレアスタンは地団駄を踏みました。そして大きく息を吸い込んで、何かを我慢するように歯を食いしばって背中を丸め、ぐっと両のこぶしを握りわなわな震わせたかと思うと、ややあって詰めていた息を一気に吐いて脱力しました。
「あなたは何もわかってない」
 その末に投げ掛けられた落胆するような言葉に、乙女はかっとなり、薄青の衣の胸倉に掴み掛かりました。
「───何がわかっていないと言うの!」
「うわっ」
 プレアスタンも流石にこれは予想していなかったのか、勢いに負けて後退りました。ぐいぐい押されて、忙しなく後ろを気にしながら、されるままに後退しました。
「あなただって何もわかっていないわ、わたしの心を!」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ───わ、わかりました!俺が悪かったですから落ち着いて」
「嘘です!いい加減なことを言わないで!」
 突然のことに押されっぱなしだったプレアスタンは、ようやく体勢を戻して踏みとどまりました。なおも食って掛かる乙女を、今度は危なげなく受け止めたプレアスタンでしたが、潤んだ紫水晶をまっすぐに向けられて、少々たじろぎました。
 襟元を掴まれたまま頬を掻き、ちょっと眉根を寄せてから、
「……実は、」
 と、隠しから小さな鍵を取り出し乙女の目の高さに持ち上げました。
「ちょっとこれを拝借しまして」
 ファルニエルに会ってきました、そう言いながら揺らしてみせたその鍵は、見慣れない小さな作りをしていました。そもそも白の館には鍵のかかる扉など数えるほどしかないはずでしたが、これには見覚えがありませんでした。
「懲罰室の独房にしつらえてある小窓の鍵です。捜し出すのに骨を折りましたよ。存在自体忘れられたような物ですからね。そりゃそうだ、懲罰室そのものが既に遺跡みたいなものなんだから、誰も気にしやしませんよ。昔、それらしい記述のある資料を見たのを思い出しましてね。偶々思い出したから探す気になったものの」
「……監視役をつけるのが、本来想定されたやり方のはずです。接触は原則として会話のみですけれど、万が一の時のために非常口がてら小さな出入口があって、監視の者に鍵を託すことになっていると……確か、記憶には」
「その想定どおり監視役をつけないでおいてくれたのが唯一の救いでした。会いに行ったお陰で間一髪、難を逃れましたよ。…───司書長エルシルが疑問を持っています」
 プレアスタンは事の次第を掻い摘んで聞かせました。
「あの場は何とかなりましたけど、一時凌ぎですよ。エルシルだってあれで納得しちゃいないだろうし、逆に疑いを持たれたと思った方が堅いでしょうね。何よりエルシルからラハトハスに話が行くと厄介です。そうなったら時間の問題」
 話しながら、まだ襟元にあった乙女の手を外させました。
「……そろそろ潮かも知れませんね。まあ、これっきりになるか一時的な別れになるかはこの後の成り行き次第ですが、どのみち暫らく人界へは下りられないと思った方が良いでしょう」
 乙女の顔から一気に血の気が引きました。
「どうして?あの人に逢うなと言うのですか、プレアスタン」
「……仕方ないでしょう。このまま暴かれてしまって良いんですか?それこそ二度と会えなくなるばかりか、彼の人に害が及びますよ」
「でも、だって、そんな!……ねえ、何とかならないのですか?」
「何とかって……ファルニエルの件が掘り下げられたら、任務の内容は誤魔化しようがありません。地の民に関わる何かを調べた事実は曲げられないし、隠したら隠したで変なことになるでしょ。そうなった時に人界へ下りたことを気取られでもしたら?地上の匂いとか、精霊の気配とか、敏感な奴になら感付かれる要素は色々ありますよ」
「それならあなたを供にして堂々行けば」
「駄目です。ファルニエルの件が明らかにされた場合ってのは、つまり、任務に俺が絡んでいることも公になってるっていう前提なんですよ。渦中の人物を引きつれて、問題の真っ只中に出掛けていくなんて、もってのほかです」
「じゃあ、せめて手紙を」
「自分から証拠の品を増やしてどうするんですか!仮に神の業で上手く他人の目に触れないように出来たとしても、あなた様は隠し事があまりお上手でない」
 乙女は、足元の床が抜けて身体ごと落下するような感覚を味わいました。そして絶望感と同時に、あんな場面を見てもなお、自分の心はルーウルアウドのもとにあると、思い知りました。ああ、無様に逃げ出したりせずに、せめてきちんと話を聞いておくのだった!
「ねえ、それなら……そうよ、ラハトハスやエルシルに相談しましょう!彼らなら、良い知恵を持っているかも知れないわ」
 あまりにも突拍子もない提案に、プレアスタンはぎょっとしました。
「何を言ってるんです!相談って、気は確かですか!?」
「だって……ラハトハスが味方してくれたら心強いし、エルシルは地上から来たから、人の子の気持ちがわかるかも知れないでしょう?」
 乙女のそれは、まったく思い付きの言葉でしたが、喋っているうちにだんだん良い考えかも知れない気がしてきました。
「そうよ、そうです。正直に話せば力になってくれるのではないかしら!」
「しっかりしてください!そんなわけがありますか!それに、今は人の子の気持ち云々は関係ないでしょう!」
「関係なくても良いわ。問題は解決するし、その上、ラハトハスたちと会えない話せない、なんて悩まなくて良くなるのですよ」
「───冗談じゃありませんよ!」
 プレアスタンはいよいよ語気を荒くしました。
「俺たちだけの秘密で済ませられなくなったら、どうなると思うんです!」
 責めるように言われて、乙女もむきになりました。
「違うわ!そもそも、これはわたしとあの人の問題で、あなたとふたりで秘密にすることになったのは偶然なのだもの。最初に話をしたのがあなたでなかったら、違う風になっていたのですよ。それはラハトハスだったかも、エルシルだったかも知れない」
「よく言いますよ、これだけ俺に頼りっきりで、今更!……問題が『あなたたちの問題』だったとしても、もしもの違う道があったとしても。今この秘密は他ならぬ『俺たちの秘密』です!それとも、この俺は無関係だとでも言うつもりですか!」
「そうではないわ。けれど―――」
 言い募ろうとした乙女は、ふと何かに気付いたようにその勢いを止めました。
「―――俺たちの、秘密……?」
 ふ、と、何かに気づいたように、乙女は動きを止めました。視線はプレアスタンを向いたままで、その瞳が遠く何かを透かしました。怪訝な様子を見せる従者の前で、その主はもう一度、俺たち、と呟きました。
「何ですか。だってそうでしょう。俺とあなたで、俺たち。ご不満ですか?」
 さあっ、と、目に見えて顔色が変わりました。
「なんてこと……なんてこと!わたしは何もわかっていなかったのだわ!」
 急に乙女は叫びとも呼べる声を上げました。
「大変。あの人はわたしの態度をどう思ったかしら―――ああ!すぐにでも会いに行かなければ!」
 その言葉は、今度こそプレアスタンの肝を潰しました。ここまでくると、もう、吃驚なんだか、呆れなんだか、本人もよくわかりませんでした。
「な、何を言っているんです!話を聞いてなかったんですか!」
「聞きました。だから気が付いたの。あなたのお陰です、ありがとうプレアスタン」
 何やらひとりで納得しているらしい乙女は、急に晴れやかな笑顔になっていました。
「そうじゃないでしょうが!ああ、もう!」
 プレアスタンはがりがりと頭を掻いたかと思うと、人差し指を突き付けて言いました。
「人界には下りられませんからね……いや、良いですよ、下りたきゃ下りても!その代わり、俺もあなたも、件の男も皆揃って身の破滅だ!」
「そ、そんなことないわ!だって……まあ、確かにラハトハスの耳にでも入れば(こちらから打ち明けるなら別として)大変でしょうけど」
「大変の度合いが違いますよ!―――ラハトハス?あんな奴、吠えたきゃ吠えてりゃ結構ですが、神々にどう申し開きをするおつもりですか!」
「何を申し開くの?」
「だから、彼の人と恋に落ち―――」
「ですから、どうしてそれを!現に今だって始まりの神は何も仰らないでしょう!……そうよ、考えてみれば、わたしは、恋をしてはいけないなんて、誰からも、一言も聞いたことなんてなかったのだわ。白の書のことだって、思い過ごしかも知れない……だって、我が父がこのわたしに隠し事なんて、する必要がないもの。やっぱり本当は、いけないことではないのかも」
「だから……!ああっ!どうしてわからないのかなあ!」
 プレアスタンは八つ当りのように自分の頬をばちんと叩きました。
「どうしてわからないのか、ですって?理由があるとするなら、あなたが何も言わないからでしょう!だいたい、あなたが会いに行けと言ったのに、今になってやっぱりもう会うな、なんて、勝手なことばかり!」
「ええ、ええ。勝手ですとも。だけど、俺には神の娘に命令する権限なんか当然ない。俺の言を容れたのはご自身です。あなたは、いつだって自由だったんだ」
「!」
 乙女の顔が驚き混じりの怒りに強ばっていくのをお構いなしに、言葉は続けられました。
「俺は俺なりに、有り得る選択肢を提示してきました。けれど選ぶのは、あなた様です。だから勿論、気に入らなければ突っぱねたって良い……これまでならそれで良かった!でも今は状況が状況なんですよ。赤か青か選ぼうってんならお好きな方で結構ですが、生きるか死ぬかで死ぬって言い出せば、そりゃ止めますよ!当たり前だ!」
 乙女は眉を険しくし、何か言いたげに口を開いたかと思うと、すぐにぎゅっと引き結んで、顔ごと目を逸らし横を向きました。
「もういいわ、プレアスタン。出ていって」
「嫌です。話が途中ですよ。きちんとしておかなければ、あなた様の御身に関わることです。神の娘ニーロニィをお守りすることは、白の従者として決して放棄できない至上の義務です」
 プレアスタンはきっぱりと言いましたが、それこそ今更だ、と乙女は思いました。
「その神の娘たるわたしが言っているのですよ。出ていってちょうだい」
「盲従が正義ですか?」
 やや刺のある言葉で畳み掛けたところへ、尤もらしい返しをされて、乙女は更に感情的になりました。プレアスタンをきつく睨みました。
「出ていかないというのなら、今ここで話しなさい!あなたが隠していること、何もかもをです!」
「出来かねます」
「………!」
 一刀両断でした。
 乙女は奥歯を噛み締め顔を赤くして、その後わざと大げさに身を翻して扉へ向かって歩きだしました。
 プレアスタンは後を追いましたが、乙女は立ち止まろうとはしませんでした。むしろ付いてこられるのを厭う素振りを見せながら足早に部屋を出て、そのままどんどん廊下を進みました。神の娘の私室に近い区域には、いくら一の館に働く従者も多いといえ、最近のあれこれも手伝って往来はなかったので、人目を気にする必要もなく、乙女はしばらく足に任せてずんずん歩を進めました。
 プレアスタンは後ろを着いて歩いていました。根負けするのを待つつもりなのか、それとも監視でもしているつもりなのか、お祭りと称される青年にしては常になく随分殺伐とした足取りで乙女の後に続いていました。
 乙女は更に足を早めました。心の表面が目の粗いやすりのようにざらついていました。白の従者に、それも特に懇意にしているプレアスタンに、こんな風に楯突かれようなどとは!
 今まで散々ああだこうだと口を出しておいて、かと思えば、自分は提案しただけで決めたのはそちらなのだから、責任はすべて乙女自身にあるなどと(少なくとも今の乙女にはそう聞こえました)、そんなことを言い出すなど、信じがたいことでした。無性に苛苛しました。
 ───ルーウルアウドと少女の例の場面を見た夜、何もかも放棄して泣き叫びたくなる激情と、ただただ深く沈みこむ虚無とも言える心とが絶え間なく交互に訪れて、それが翌朝まで続きました。乙女の中で何かが限界に達して、何かでそれを鎮めるしかありませんでした。どうにもやり切れない思いの中で、ある瞬間、不意に思考の目先が変わり、期待していた結果を持ち帰らなかった黄金竜の子に対して、怒りや憎しみにも似た感情が俄かに湧き上がりました。その結果が今回の懲罰だったのでした(実際、乙女自身はっきりと思っていたわけではないものの、ファルニエルは八つ当たりの対象として格好の相手でした)。
 そういった経緯を自分でも多少は気にしていて、不当な罰だとは言わないものの、少しやりすぎて後ろめたいくらいには感じていました。だからこそ、たったいま打ち明けて謝ろうとしていたことを先に責められてしまったような悔しさと腹立たしさがあり、理不尽な思いがしたのでした(ただし、ここでプレアスタンが問題にしているのは、ファルニエルが哀れかどうかでも、乙女が非道か否かでもないので、その時点で話が食い違っているのでしたが)。
「(私だって少しは気にしていたのに……あんな言い方!)」
 そうなるともう、乙女は完全に臍を曲げた子供そのものでした。
「(私ばかり悪いのではないわ!そうです、私が悪いのでは!)」
 口の中で呟くと、知らず知らず自分はプレアスタンにひどいことをされた被害者だという気持ちが強まりました。
 足を止めないまま両手を頬に当て、は、とひとつ強めの呼気をしました。
 ───気持ちを変えよう、もういい、今はそれよりも彼のことを考えなければ。
 乙女は先程気付いたことを思い返しました。
 あの時(というのは乙女がひどく打ち拉がれた例の夜のことでしたが)、ルーウルアウドは少女に向かってでなく、他ならぬ自分に向かって話していたのだと、乙女はつい先程、初めて思い至ったのでした。
 あの時の、耳に残り離れないあの言葉―――俺たちは、まだ逃げなければならない。お前の姿を追っ手に曝しはしない。俺はお前を守ろう。わかるな?―――それを思い浮べて、今度は片手を額にあてました。わからなかった自分の、なんと愚かなこと!
 ルーウルアウドの言う「俺たち」に含まれるのが、あの娘なんかではなく、自分だとしたら、つまり、言葉の全てが自分に向けられているとしたら。今まで思い込んでいたことと、話はすっかり変わるのでした。
 そして連鎖的に次々と閃いたことには、つまりこうでした。少女を抱き寄せたのは視界を塞ぎ、神の娘の姿に万が一でも気付かれるのを防ぐため。誤解を招きかねない言い回しを敢えてしたのは、少女に他の人物の存在を悟らせないため。前半は状況を説明するために、そして後半、俺たち、と話し始めた部分は、少女にも乙女にも通じる二重の意味を持たせていたと考えれば、すべて腑に落ちました。
 ルーウルアウドの真意は、あの時乙女の思ったのとは、全く別のところにあると解釈してみると、そちらの方が余程しっくり来ました。絶対に、そちらが本心なのだと、乙女は確信しました。そうでなくてはおかしいのでした。あのルーウルアウドが、他でもない愛しい男が、この白の乙女ニーロニィを惨めな悲しみに突き落として踏みにじろうなど、するはずがなかった!
「?」
 ───そんなことを考えて上の空になり、目の前をよく見なかったのがいけませんでした。
「あっ……!」
 乙女は、今までずっと気をつけていたというのに、ここへきて、会ってはいけない人物と鉢合わせてしまいました。
 曲がり角から現れたのは、白い衣をかっちりと着込み、仄かに銀色に輝く白い髪を几帳面に後ろへ束ねた、翠玉の瞳の男でした。
「ラハトハス……」
 後ろの方で、プレアスタンが、さっと柱の影に身を隠しました。
「……我が主ニーロニィ。ご機嫌麗しゅう」
 久々に主と対面した従者筆頭は、一瞬だけ驚いたような戸惑ったような表情をしましたが、すぐに深々と神界式の礼をしました。
 乙女は、ついさっき、相談しようなどと言っていたことも忘れて、どうやってこの場を凌ごうかと、あたふたしました。心ならずも遠ざけていたラハトハスに、本心ではずっと会いたかったのも確かな事実ですが、このように唐突に出会ってしまっては、心の準備が全くありませんでした。
「え、ええ、あなたも」
 咄嗟にいつも通りの返事をしてみたものの、後が続きませんでした。
 当たり障りのない会話でもしてみれば良いのか、何かの理由をつけて早々に立ち去るべきなのか。いざ面と向かってみると、思い切って打ち明けてみる、という選択肢は、やはり浮かびませんでした。
「主よ。畏れながら、ひとつお聞かせ願いたく」
 乙女がおろおろしているうちに、ラハトハスの方から切り出してきました。
 嫌です、などと返すわけにもいかず、乙女は何を訊かれるかと身構えました。柱の陰でプレアスタンもごくりと唾を飲みました。
「書き損じの白の書を手にした者がプレアスタンでなかったら、その時、主は、ファルニエルにこのような厳罰をお与えになりましたか」
 乙女も、隠れた従者も、意外さに驚きました。この真面目すぎる従者筆頭なら、もっと核心を突いて、ずばりと切り込んでくると思って覚悟したのに、ラハトハスの口から出たのは核心どころか的の外れた問いでした。
「それは……」
 意表外の質問に答えようとした乙女は、言いかけて言葉に詰まりました。
 そう言われて考えてみると、もしも書き損じの一冊を目にしたのが他の従者だったなら、ファルニエルは今頃、変わりない日々を送っていられたかも知れませんでした。それなのに偶々プレアスタンと接点が出来てしまった為に揉め事に巻き込まれ、結果として「初めて懲罰室に入れられた従者」という不名誉まで得たのでした。
 そう考えると急に、いくらファルニエルが勝手なことをしたからといって、少しどころか余りにも可哀想なことをしている気がしてきました。こちらの都合で目の前に餌を置いたくせに、食い付いたからと棒で打つ、その仕打ちは確かにあんまりでした。
 しかし、
「……わかりました。御前を失礼致します」
 まだ何の返事もしていないというのに、ラハトハスは慇懃に礼をすると踵を返し歩き出しました。
「ラハトハス!」
 焦った乙女は思わず片手を挙げて、呼び止めてしまいました。
 散々こちらから避けていたくせに、いざ向こうから背を向けられると、ひやっと悪寒に似たものが走って、途端に怖くなったのでした。
 ラハトハスは立ち止まりました。そして振り向きました。
「───…!」
 乙女は身を強張らせました。
 乙女の知るラハトハスは、どんなにしかつめらしい顔をしていても瞳の奥は温かったというのに、今、同じはずのその瞳は、初めて冷ややかな色をしていました。
 呼び止めたものの何も言わない主を、従者はじっと佇んで見つめていましたが、ややあって、
「御用がないのでしたら、失礼させていただきます」
 もう一度礼をし、凍りついた乙女を残して足早に立ち去りました。
 残された乙女は、ラハトハスの名を呼んだ格好のままで、抜け殻のように立ち尽くしました。
 このとき乙女の心を埋め尽くしたものを言葉で表すのは至難と言えました。白狼ラハトハスが、神の娘に背を向ける日が来るなど、考えもしないことだったのでした。
 そんな、まさか、なぜ、うそ。
 絶対に、絶対にないはずの出来事でした。自分から突き放すことはあっても、自分が突き放されることなどないはずでした。少しくらい我が儘を言っても、ひどくしても、ラハトハスはいつも、神の娘ニーロニィのものだと思っていました。白の乙女を慕い、白の乙女に従い、白の乙女の下にある、それが従者筆頭ラハトハスの永遠に変わらない真実だと、疑ったこともありませんでした。
 白い後ろ姿が見えなくなると、身を潜めていたプレアスタンが、そうっと出てきました。
「主―――…」
 主ニーロニィ、と呼び掛けようとした声は、不自然に途切れました。
 プレアスタンが伸ばした手を、白の乙女は振り向き様に払いのけました。
「もう、いいわ!」
 叫んだ乙女はひどい顔色をしていました。急に窶れてしまったようでした。
「もういい……わたしは……わたしが……」
「主ニーロニィ」
 不穏なものを感じ取ったプレアスタンは、内心で冷や汗をかきながら、なんとか落ち着かせようと、両手を広げて見せました。
「どうしました?大丈夫ですよ、このお祭りプレアスタンが、ここにいるでしょう。何も心配ないじゃあありませんか。ね、俺がついてるんですから」
 幼子に言い聞かせるように、ゆっくりと、甘い声で語りかけましたが、乙女は首を横にするばかりでした。
「あー……奴は、ほら。もともと愛想のない性格だし、きっと虫の居所でも悪かっただけで……」
 自分でそう言いながら、プレアスタンは、まずい、と思いました。ラハトハスの性格なら乙女の方が余程よく理解していて、時々の機嫌によって態度を変えるような不実な男でないことくらい、当たり前に承知しているはずでした。言うならせめて、主の為を思えばこそ敢えて突き放したのだ、くらい言えば良かったものを、しかし、いったん口から出たものを戻せる道理もありませんでした。
「いい加減なことを言わないで!やっぱりあなたは、口八丁のお調子者なのね、お祭りプレアスタン!あなたといい、ラハトハスといい、いったいどういうつもりなの!」
「主ニーロニィ!俺は……」
「言わないで!」
 自分でどういうつもりかと訊いたものを、理不尽に遮って、白の乙女は衣の裾を乱暴に持ち上げて走り去りました。
 残されたプレアスタンは、ばつの悪い顔で首の後ろを掻きました。
 しばらくそのまま黙っていたものを、急にひとつ苛立たしげに地団太を踏んで、それから大きく肩を落としたのでした。



前頁 / 目次 / 次頁

2010.03.16 公開