異界を渡る物語 第一章 第十五話



 乙女はその足で図書室に向かいました。というのも神の娘専用の閲覧室なら、従者たちは勝手な立ち入りを禁じられているので、好きなだけひとりになれるし、ラハトハスともプレアスタンとも不和になってしまった今、乙女に残されたのはエルシルだけだったのでした。
 問題はエルシルのもとまでどうやって行くかで、流石に司書長室まで誰にも会わずに行こうというのは普通では無理なことだったため、乙女は神の業を用いることにしました。
 辺りに人目のないのを確認すると、杖を出して、とん、とひとつ床を突き、光が消えたときにはもう、その姿は目に映らなくなっていました。
 乙女はそのままエルシルの元へ急ぎました。神の娘の居室から離れるにつれ人影も多くなりましたが、廊下を行く従者たちには乙女が見えないので、当然避けてくれるはずもなく、うっかりぶつかったりしないように身を翻し翻し、時には壁に張り付いたりして行かなければなりませんでした。
 そうして漸く図書室に辿り着き、受け付けの様子を窺いました。慎重に覗き込み、するりと帳台の中へ入り込むと、はたしてエルシルは司書長室でなく、その手前の司書室で仕事をしていました。
 困ったことに、司書室には他に何人かの司書たちがいて、これではエルシルに声を掛けることが出来ませんでした。仕方なく乙女は、物陰で機を窺うことにしました。
 エルシルは書類を挟んだ留め具付きの板を手に、棚に向かい何か確認していて、他にも何人か棚の前を行き来したり何事か相談しながら作業したりしていました。
 早くひとりになってくれないか、と乙女はやきもきしました。今の気持ちを吐き出したくて仕方ありませんでした。あの優しい背高のっぽの司書長ならば、うまく慰めてくれるに違いないと思いました。それにラハトハスとも懇意にしているし、プレアスタンから見れば一目置くどころでない人物であるので、エルシルが取り成してくれれば全て上手く収まるかもしれないと、そんな期待も湧いてきているのでした。
 そういうわけで、エルシルに話しかける機会をそわそわしながら待っていましたが、なかなか訪れる気配がないので(といっても、とにかく気が急いていて、実際は然程待っていませんでしたが)、これは声をかける以外の方法を考えたほうが良いかもしれないと思い始めた頃のことでした。
 ふと、
「黄金竜の坊やは、どうなるんでしょうね」
 司書たちの会話の中から、乙女の耳が気になる単語を拾いました。
「本当に。ファルニエルは少し気が弱いけれど、とても優しい良い子だと思う。それが、こんな、思いも寄らないことになって……」
 手前の方で台の上の本を仕分けしている男女でした。確か、イパートとテーナという名だった、そう乙女はふたりの名を思い浮かべました。
「銅(あかがね)竜の子は、もう絶交だって息巻いているそうよ」
「デューセリンか。あの子は確かに、名誉だとか誇りだとかに随分と思い入れる性質(たち)のようだからね」
 ふたりの従者たちはそんな噂話をしていました。乙女はその内容に居心地悪い思いをしながらも、話題の件について従者たちがどう感じているのか知りたい気持ちもあったので、ついつい、そのまま続きを聞いてしまいました。
「しかし、一体何だって、こんなことになってしまったんだろう。我らが主、神の娘ニーロニィは、いたずらにこんな真似をなさる方ではないと思っていたけれど……」
「私もそれを考えていたところ」
 ここでテーナは、仕分けを続けながらも、ちらっとエルシルの後姿を確認しました。そして声を潜めました。
「変なことを言うようだけど、最近、主のお姿をお見かけしないことと、何か関係があるんじゃないかって。実はみんな噂してるの」
 乙女の胸が、どきっと跳ねました。
「やっぱりそっちもか」
「じゃあ、あなたたちの方でも?」
 イパートも声を低く答え、すっかり内緒話の様相になりました。
 エルシルは変わらず仕事を続けていました。
「そりゃあ、ちょっと書き損じただけで懲罰室だなんて、皆、おかしく思うさ。あの子じゃなくても失敗くらいする。第一、何もなくて、こんなことをなさるか?白の乙女が?とても普通とは思えない」
「そうね。でも、それならどうしてなのかしら」
「……あくまでも内輪で囁かれているだけなんだが……何か裏があるんじゃあないかと」
 だんだんゆっくりになっていた手が、ふたりとも完全に止まりました。
「裏?どういうこと?」
「わからない。けど、とにかく何か隠されているとしか考えられないよ。書き損じたから懲罰室、それじゃあどうにも腑に落ちない。僕らの知らない何かがあるかもと思いたくもなるさ。問題は、その隠された原因が、ファルニエルにあるのか、畏れながら―――…」
 言葉を濁しはしましたが、続く言葉は明白でした。
 司書のふたりは神妙な顔で目を合わせました。
 と、
「失礼します」
 ここで帳場の方から誰か顔を出したので、肩を震わせて驚いた者が三人ほどいました(無論、ふたりの従者はもうひとりの存在など知る由もありませんでしたが)。
 帳場から入って来たのは背の低い女性でした。
「司書長エルシル。少しお聞きしたいことが」
「おや、デルガ……良いところに」
 ふたりは書類を覗き込みながら、相談を始めました。もう一方のふたりは少々気まずそうに、止めていた仕事の手を動かしました。
 そのうち話が纏まったらしく、デルガは一礼して持ち場に戻っていきました。司書室は何事もなかったように(そもそも何も事件は起きていません)、再びいつも通りの司書たちの仕事場となりましたが、その間中、乙女は暑いような寒いような、胃の腑の落ち着かない心地を味わいました。
 イパートとテーナは自粛したらしく、お喋りを止めて手元の作業に集中しているようでしたが、ふと影が差したのに気づいて、揃って顔を上げました。
「捗っていますか?」
 エルシルでした。
「は、はい、エルシル」
「そうですか。ではわたくしは執務室へ戻りますから、続きを頼みましたよ」
 ふたりはどぎまぎしながら笑って頷きましたが、
「それから……噂話はほどほどに」
 次いだ言葉には今度こそ目を見開きました。あっ、とか、は、とか顔を見合わせて、最後にふたりして「はい……」と項垂れました。
 エルシルは軽く目を伏せて踵を返し、司書室を出て行きました。
「……何をしているのよ、ふたりとも」
 司書長が完全に出て行ったあと、肩を落としているイパートとテーナに話しかける者がありました。
「ティシェン!だって」
「だってじゃないわ。気持ちはわからなくもないけれど、ちょっと軽率よ。そういう話は自分たちだけでなさいよ。憩いの間でもいいし、自室でだって出来るでしょう。よりによって司書長エルシルのお耳に入るような場所でするものじゃないわ」
「けど、じゃあ、君だってこの話を知ってるってわけだ」
「それは、まあ……正直言って、知らない従者はいないでしょうね。でも、だからと言って、噂なんて俗っぽいことを、白衣の方たちの目の届くところでするものじゃないわ」
 ふたりは肩を竦めました。
「わかったわ、気をつける。───で?実際のところ、あなたはどう思ってるの、ティシェン?」
「えっ?……そうね、私は……まあ、見解としては似たようなものよ」
「やっぱり!そうだよな」
 噂者がひとり増えて三人になったとき、エルシルとは違う扉から、誰にも気づかれずに出ていった者がありました。
 神の娘でした。
 背高のっぽの司書長に声を掛ける絶好の機会が巡ってきたというのに、それをみすみす見逃して、乙女は図書室を出てしまいました。その様子は、茫然自失といった態で、もし此処が地上の都で乙女がただ人だったとしたら、道行く誰もが何事かと横目で振り返るに違いない、そんな有様でした。
 図書室を出たところで、連れだって歩いてきた従者たちのひとりと出会い頭にぶつかりました。
「わっ!すみま―――あれ?」
「どうしたの?」
「いや……うん?何でもない、みたいだなあ。おかしいな……何だろう?」
「何を言っているんだ?それより、詳しく調べるなら事典以外にも文献を―――…」
 通り過ぎていく従者たちの足元に、乙女は倒れていました。
 姿が見えないのだから当然と言えばその通りで、ぶつかった従者を責めるのはお門違いでしたが、神の娘にしてみれば考えられない状況でした。こんなことは初めてでした。
 乙女は床に倒れたままの格好で、ぼんやりと思考しました。従者たちの間であのように噂されているなどまったく知らなかったし、考えもしませんでした。白の従者は白の乙女を絶対に、無条件に信じるものと、それが当たり前だと、乙女は思っていました。神の娘ニーロニィの口から紡がれた言葉に疑いが向けられるなど、有り得ないはずだったのでした。
 しかも、話はまだ、それだけではありませんでした。
 噂話もほどほどに―――先程エルシルは確かにそう言いました。つまり司書長には、あの会話が聞こえていたのでした。それならば何故もっと早く窘めなかったのだろう、デルガという名の従者が折よく現れなかったら、あのまま続きを言わせていたというのだろうか、そう思うと乙女は、つま先からもろりと崩れていってしまいそうでした。
 ついさっきまで、乙女が抱えている感情は、実質、怒りに近いものでした。思い通りにならないからと子供のように癇癪を起こして、相手に対して腹を立てていました。それはつまり、例えプレアスタンと喧嘩のような言い争いをしても、ラハトハスに背を向けられても、本当の本当に見捨てられたり、真実心の底から嫌われたりすることなど絶対にない、という、一種余裕の現われでした。今だけ仮に仲違いしているけれども、最後には必ず和解しないはずがない、それも向こうから折れるに違いない、そう心のどこかで当然そうなるものと思っていたのでした。それは己が神の娘で相手がその従者という関係だからであり、共に過ごした永い時間に基づく自信があったからでもありました。しかし───…。
「(わたしは、わたしが思っているほど、愛されてなどいないのかも知れない……?)」
 乙女はしばらくその場でぼうっとしていました。図書室に出入りする従者たちが何組も通り過ぎて行きました。
 リンギス、ローイ、シャルニー、トゥウォン、リミリア―――見知った顔が次々と行き来しました。この者たちもあんな噂話をしているのだろうか、疑いを持っているだろうか?
「………」
 乙女は立ち上がりました。意外にもすんなり身体は言うことを聞きました。むしろやって来た時よりも確かなくらいの足取りで図書室を出て、次の館に向かいました。
 姿を消したままで、花茶を飲みながら語らう青年たちや、針仕事をする女たち、三の庭で寛ぐ者たちの話まで、聞いてまわりました。
 従者たちは、まさか乙女がすぐそこに居るなど誰ひとり夢にも思っておらず、どこへ行ってもファルニエルの件についての噂で持ち切りでした。その多くは司書たちの話と同じか、似た内容でした。
 乙女は次の館を一周して、一の館に帰りました。自室に戻ると、噴水の部屋を素通りして、奥の寝室まで一度も足を留めませんでした。
 寝室の扉を閉めて、ひとりきりになると、
 ───ぽつん
 と、そのまま立ち尽くしました。
 ひどく冷静でした。頭も冴えているし、取り乱すこともなく落ち着いていて、ただ、己の顔がひどく無表情であることだけが、よくわかりました。
 少しの間、ぼんやりしました。焦点が合っていないわけではないのに何も見ず、視線ひとつ動かそうという気もまったく起きませんでした。ひどい衝撃を受けたであろう己を自覚しましたが、薄氷の向こうに眺めてでもいるようでした。
 そのうちに乙女は、ふらりと露台へ出て行きました。露台の隅っこへ柱を背もたれにして横座りに寄り掛かり、高欄越しの空を眺めました。これまでと何一つ違わない、一番青い青がありました。何気ない日のような、澄んだ風景でした。
 そのうち小さく歌を口ずさみはじめました。決まった旋律のない小鳥の囀りをやりながら、上の空で、指を櫛にして髪を梳きました。
 随分長いこと、ただただそうしていて、ようやく立ち上がり室内へ戻ったのは、空の端が色を変えはじめた頃でした。
 乙女は衣裳掛けの扉を大きく開けて、衣を一枚一枚、丁寧に改めました。その中から光り輝く素晴らしい一枚を手に取りました。乙女のためだけに誂えられたそれは、柔らかく、滑らかで、朝露に濡れたようにきらきらとし、その白さときたら生まれたばかりの雲のようでした。
 じっくり眺めた後、胸にあてて大切に抱きしめ、しばし目を閉じました。やがてそれをそっと戻すと、今度は最も装飾の少ない簡素なものを選び出して、衣を替えました。
 着ていた衣を丁寧に衣掛けへ掛けてから、部屋を見渡しました。ふと、従者たちとの茶の時間にいつも座っていた席に近づくと、いつぞやプレアスタンが置いていったきり、ずっとそこにあった白の書の題字を、指先でなぞりました。夕暮れに向かう、淡く朱を帯びた光が、乙女の影を美しく床に描きました。
 徐に表紙を繰りました。
 いよいよ空が燃えさかりました。赤が深まり、熟した果実の色になり、やがて紫に変わって太陽の時間に終わりを告げようとしていました。
 ―――白の乙女に仕える者、朝に映ゆる美しき園に照らしみて―――第二章第一項に差し掛かったところで、乙女は瞼を伏せました。
 ちょうど、世界が夜を迎える瞬間が訪れました。空の端から夜がやってきて、去っていく光の引き潮を追いかけるように、深い青が広がっていきました。


 このとき、乙女はもう、心を決めていました。
 ラハトハス、エルシル、プレアスタン、ファルニエル、そして乙女、ルーウルアウド。それぞれに知ることと知らぬことがありました。決定的な誤解とすれ違いがあったことに、しかし、まだ気付く者はありませんでした。
 ―――何かの歯車がほんの少し違っていれば、あとの出来事も多少なりと変わっていたかも知れない―――そう思うことになるのは、やはり、時が訪れてからなのでした。



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2010.05.20 公開