異界を渡る物語 第一章 第十六話



 闇に紛れるふたつの影がありました。夜の森をすばやく、しかし決して軽い足取りではなく走るのは、ふたりの男たちでした。身軽な一人が先導し、大きな荷物を抱えたもう一人が追従する形で、暗い森の木々の間を縫って進んでいました。
 月明かりも碌に届かない深い闇の中を走る姿は、まるで獣でした。こういう場合での足の運びや身のこなしをよく心得ている、熟練した者の姿でした。
 ふたりはやがて、蔦や枯れ草で隠された洞穴に辿り着きました。ただでさえ見落としそうなそれを、先導する男は昼間でもないのにしっかりと見分けました。手近な石を投げ込んで中に何もいないのを確認してから、草を掻き分けて入り口を作り、後に続いてきた男を先に中へ入れました。一瞬動きを止め、目と耳と感覚で辺りをよく確認してから自分も続いて洞穴に入ると、掻き分けた草を念入りに被せ直しました。
 少し奥に入ると、一呼吸置いてから手探りで蝋燭を取り出し、火をつけました。灯芯の燃える小さな音がして、黄色っぽい光が洞穴の中を弱く照らしました。
 先に入った男が、狭い空間の中、抱えていた荷物を横たえていました。それは気を失った少女でした。年の頃まだ十二か十三かというくらいでしたが、ふたりの男たち同様に一見して旅慣れた装いをしていました。
「これでなんとか、一心地つけるな」
「ああ」
 蝋燭は簡易燭台に立てられ、手ごろな場所に据えられました。
「おお、スファティ、気がついたか。俺がわかるか」
 抱えられてきた少女が身じろぎして目を開けました。
「……オリ兄(あに)さん?」
「そうだ。ルー兄さんもいるぞう。もう安心だ。どうなったか、わかるか」
 夜の森を疾走していたのは、ルーウルアウドとアシュオリでした。
 スファティと呼ばれた少女はぱちぱちと目を瞬いて、ゆっくりややぎこちない仕草で周囲を見回しました。額に手を置いて、記憶を辿っているようでした。
「スクを探しに来て……奴らに見つかって……ルー兄さんが助けてくれた。それで、その後、スクとエジを見つけて───そうだ!兄さんたち、スクは?エジはどうしたの?」
「スクティはエジクが連れて逃げた。お前さんは気を失っちまったから、俺たちが引き受けたのよ。しかし、無茶したもんだなあ……この時勢に、わざわざ西に来るなんざあよう。こんなに細い腕して、自分の力で何とかなるなんて思ったら大間違いだ。まだ独り立ちして間もねえお前さんが」
 ごめんなさい、と、スファティは小さく呟きました。
「でも、スクが西にいるって知ってたから……それに、何が起きてるのか、見たかったんだよ」
 アシュオリは少女の頭を軽く叩きながら、苦々しい顔をしました。
「そりゃあ俺たちも同じことよ。でも俺たちとお前さんじゃあ、わけが違う。実際、ルーに助けられなかったら、スクティやエジクに会う前に死んじまうとこだったんだろうが」
「でも、だってね、あたし見たんだよ、オリ兄さん!あいつらが話してるのを聞いたの!だから……」
 スファティは両手を後ろについて身体を起こそうとしましたが、アシュオリに制されました。それでも肘を着いて身体の向きを変え、半分横向きになりました。襟元から成鳥になったばかりの若い鳥が顔を出して、くり、と首を傾げました。
「あいつらはさ、お告げがあったって言ってた。なんとか言う占いで、出会いの暗示があったって。禁忌の恋が実を成してしまう前に、災いの根を絶つんだって……あいつらは正義の味方気取りで、あたしら一族を根絶やしにするつもりなんだ!」
 鳥が顔を引っ込めました。吐き捨てた少女の表情を、蝋燭の火が黄色く照らしていました。
 男たちは顔を見合わせました。
「スファティよ、その話、詳しく聞かせてみろ」
「うん。ミチュが、スクは西にいるって言うから、あたし、心配になって……ミチュに様子を探って貰いながら、少しずつ西へ来たの」
 自分の名前に反応したのか、鳥がまた顔を出しました。
「そいで、峠を越えたあと、あいつらの一団を見かけたの。あいつら暢気に火を囲んで喋ってた。あたし、逃げようかと思ったけど、何を話してるのか盗み聞きしてやろうと思って、近寄って隠れたの。そしたら奴ら、言い合いを始めたの……いよいよ長様のお告げにあった災いの時が迫ってる、ていうところから話が始まって、一族をみんな狩ってやれば問題ないって笑う奴と、長様の占いは外れないんだから、どんな形であれ災いは免れないって言う奴がいて。なんだか喧嘩みたいになって。それで仲裁した奴が言ったんだ、どっちみち、禁忌を犯す可能性のある者を手当たり次第にでも減らしておけば、益はあっても害はないって……我々の力で世界を救えるなら素晴らしいじゃないかって!」
「スファティ」
 最後の一言で思わず声を荒げた少女を、アシュオリが窘めました。スファティは身を隠している最中だということを忘れ、うっかり大きな声を出してしまった失態を恥じて俯きました。まだまだ半人前というところを熟練の男たちの前で晒してしまい、気丈な少女は悔しく思いました。
「ふうむ……お告げか……」
 アシュオリがそう呟いたきり、三人とも沈黙しました。スファティは居心地悪そうにミチュに指を突かせたりして、男たちは大きく息を吐いて考え込みました。蝋燭の火がゆらっと揺れました。
「……スファティよ、お前、ちょっとばかり眠っておけ。これからまた走ることになるからよう。今のうちだ。兄さんたちが表を見ててやるからな。すぐ眠れるか?」
「そのくらい出来る。あたし、それ、得意だよ。いつ起きればいいの」
「起こすまで寝てていい」
 早速スファティがミチュを潰さないよう仰向けに姿勢を整えると、アシュオリはさっきからだんまりを決め込んでいるルーウルアウドを目で促しました。ふたりは横穴から外へ出ました。
「ルーよ、エジクは上手くやったと思うか」
「……難しいかも知れんな。俺たちに追っ手がない。的を絞って狙われたとしたら厳しかろう。あとは奴の腕と運を信じるしかあるまい」
「来た矢先にこれだ。今まで西が穏やかだったのは、罠だと思うか」
「さあな。過ぎたことを言っても埒が明かないさ。それよりも、鳥を使えないのが問題だ。奴らがどれだけの包囲網を敷いているか、その中にあとどれだけ同胞が残されているのか……もしかしたら西で一網打尽と見せ掛けて、逃げ出した連中をこそ、陰から狙っているかも知れん」
「俺のムルスカも、戻ってこねえからなあ……お前のイシカみてえなことになってなきゃいいが。だがどのみち今ここらにいる奴らは逃がしてやらねば仕方ねえよ。逃げた先でまた追われるなら、また逃げるしかねえ。お前の言うのが当たりだったとして、俺たちに出来るのは、とにかくこの場を助けてやって、安心するにはまだ早えと忠告してやることよ」
 アシュオリは、ちらりとルーウルアウドの顔をうかがい見ました。
「時にルーよ」
 声の調子の変わったのに気付き、ルーウルアウドは顔を上げました。
「あのお嬢さんは、どうした」
「……あの時以来、まともに会っていないな」
 そうじゃねえ、と、やや苛立たしげに異が唱えられました。
「俺とて一族の者よ。何にもわからねえってこたあ、ねえぞ。第一、よりにもよってお前が、お前がだぞ、そんじょそこいらの娘っ子に、顔がきれいなだけで手を出すわけがねえよう」
 ルーウルアウドが黙っているので、アシュオリは更に続けました。
「責めてるわけじゃあねえ。人狩人(ひとかりうど)の連中が急に躍起になりだしたのが、たとえお前のせいだったとしても、そんなこたあ何にも俺は思わんぜ。だがよう、わからんままでは出来ねえこともある。知らねえばっかりに失うこともある。そうなってからじゃあ遅いのよ。ルーよう……話してくれよう。俺たちゃあ、一族の兄弟だぞ。お前は俺の弟じゃねえか」
 アシュオリがルーウルアウドの肩をどしっと叩きました。ルーウルアウドは肩に置かれた手に自分の手を重ねました。アシュオリの手は、爪が短く、たこがあって、がっしりしていました。
 手を握り、お互いそっぽを向いたまま、しばし無言の会話が続きました。そしてややしばらく経ってから、ついにルーウルアウドは、
「ニル……ニーロニィは、神の娘だ」
 と白状しました。
「おう。そうか」
 アシュオリの相槌があんまりにもさっぱりしていたので、話し手は思わず瞼を伏せて低く笑いました。
「驚かないな」
「言ったろうが。俺も一族の端くれよ。何もわからねえってこたあ、ねえ。さては小僧、オリ兄さんを馬鹿にしてやがるな」
 ふたりは世間話の一幕かと思わず疑いたくなるような調子で、ひとしきり小さく笑い合いました。
「しかし……こりゃあ、難儀だな」
「ああ」
「どうするつもりだ」
「今度彼女に会ったときが最後だ。お前にも世話になった」
 アシュオリは顔色を変えてルーウルアウドを見ました。
「お前ぇ、最初っからそのつもりか」
「他にあるまい。……オリよ、俺は……既に掟を破った。奴らの言う災いとは、俺とニルが引き起こすのだろう。阻止できるのは俺だけだ。方法も、ひとつだけだ」
 弟分のその言葉に、兄貴分は顔を強張らせました。
「俺が不甲斐ないばかりに、一族を危機に晒してしまった。至上の美酒に酔ううち度を失った。結果がこれだ。スファティの話が何よりの証拠。…───今度彼女が地上に降りれば、それで仕舞いだ」
「……すまなんだ!」
 アシュオリは突然頭を下げました。
「俺がもっとしっかり、お前を導いてやれば良かった。思えばお前は昔っから、一族の中でも特に良い眼と耳を持ってた。こうなる前に俺が」
 オリよ、とルーウルアウドは制しました。
「いかな兄貴だろうと、こればっかりは頭を下げられる筋合いはない。男が自分で選んだ人生を、別の男が出てきて謝る道理があるか。それとも俺はまだ餓鬼か」
 アシュオリは押し黙り、顔を歪めて頭を上げました。
「オリよ、俺はこうなって満足だ。満足なのだ。お前はむしろ、俺を責めてくれ。すべての責はこの俺にあると、お前こそが認めてくれ。俺を弟と思うなら、明らかにしてくれ。勝手を言うようだが、俺は一族を守りたい。一族の掟を破った当の俺には許されん言葉だが、承知の上で頼みたい」
 ルーウルアウドはアシュオリの手を両手でがっしりと掴みました。
「皆を守ってくれ。一人でも生かしてくれ。頼む……オリ兄さんよ。頼む」
 さっと雲が途切れ、月の光が降り注ぎました。木々の枝を擦り抜けて地上にまで届いた月光に、ルーウルアウドの瞳が照り輝きました。熱く、そして冷たい、覚悟の眼でした。
「この俺が可愛い弟にしてやれるのはそれだけか」
 ルーウルアウドは深く頷きました。アシュオリはぎゅっと奥歯を噛み合わせて何も答えませんでした。
「俺はここまでだ。……あとは静かな場所で待つ。まずはスファティを、無事にスクティに会わせてやって欲しい。頼めるか」
「……もとよりそのつもりよ」
 答えた声は滲み震えていました。
 ルーウルアウドは立ち上がりました。アシュオリも遅れてそれに倣いました。
 ふたりは力強く、固く抱き合いました。
「達者で生きろ、兄さん」
 お前も、と言い掛けた擦れた声はそのまま吐息と消えました。
 抱擁を解き、ルーウルアウドが背中を向けて一歩踏み出したと思ったとき、再び雲が月を隠し、さあっと闇が訪れました。その後姿は、あっという間さえなく、闇に紛れて消えました。足音も気配もすっかり森の呼吸に溶けて、アシュオリがどんなに眼を凝らし耳を澄ましても、己の力だけでは、もうルーウルアウドを見つけることは出来ませんでした。
 友であり弟である男と別れた兄貴分は、しばし立ち尽くしていましたが、ややあっておもむろに振り返りました。頭帯に包まれた額を手のひらで叩き、腹に力を入れて肺の中の空気を全部吐ききりました。もう一度軽く額を叩くと、それから丁寧に辺りを探って、近くに追っ手のいないのを確認してから、洞穴に戻ってスファティを起こしました。
「おう、休めたか」
「うん。ルー兄さんは?」
「……奴は行った」
「本当!ならエジもスクも、きっと大丈夫だ!ルー兄さんは強いもの。それに約束は破らない」
 スファティの顔が希望と憧憬に輝くのを、アシュオリは複雑な思いで見ました。この可愛い妹分が拙いなりに懸命に秘密にしている淡い恋心は、叶うどころか伝えられもしないうちに終わってしまうのでした。行った、と言っただけで、必ずスクティを助けると約束して助太刀に行ったように思い込む、その無邪気で直向きな信頼が、アシュオリの心を無自覚に殴り付けるのでした。
「そうだ。奴は約束を守る男だ。それは俺もよ。必ずスクティに会わしてやるからな。お前も頑張らなきゃいけねえぞう」
 スファティは元気良く頷き、ミチュも主人の懐で小さく声を上げました。
「そうだ。お前もだ、ミチュ。オリ兄さんのムルスカはまだ戻って来ねえんだからな。お前が頼りだぞ」
「大丈夫。ミチュも頑張れるよ」
「そうかそうか。よし」
 アシュオリはスファティの肩を叩いて、ぐいっと頬の肉を上げ、明るく頼もしい笑みを浮かべました。
「……オリ兄さんに、任しとけ」



前頁 / 目次 / 次頁

2010.09.09 公開