異界を渡る物語 第一章 第十八話



「ごめんなさいね、ファルニエル。辛かったでしょう。けれど、やはり耐えてくれましたね。わたしの思った通りです」
 黄金竜の子は、突然明るい場所へ出たのと、目の前に笑顔があるのとで、目を白黒させました。
「えっ……あの、僕は……お、思った通り?―――あっ、いえ、我が主ニーロニィにおかれましては、ご機嫌麗しく……」
 紫水晶の双眸、月と星の輝きを紡いだ髪、滑らかな頬、みずみずしい果実の唇、そして、そこに浮かぶ微笑み。ファルニエルは混乱して、あべこべに後から挨拶しました。それを見て、白の乙女は笑みを深めました。
「そんなに硬くならずとも良いのですよ。わたしはあなたを迎えに来たのだから」 
 迎えに?と思わず聞き返したファルニエルを立たせながら(金の子は立たされて初めて、恐れ多くも主の前で呑気に座っていたことに気づきました)、乙女は楽しそうに頷きました。
「そうよ。あなたを、迎えに、ね」
 意味深なそれは、鳥肌の立つほど美しい笑顔でした。


* * *


 麗らかな陽が差し込む次の館の資料室、その片隅に、白い衣の人影がふたつ、ありました。
「あれから、書庫の貸出記録を当たってみましたが」
 自分の両肘をそれぞれ逆の手で抱えるようにして、すこし変わった形で腕を組みながら、背高のっぽは話し始めました。
「直近では懲罰室に関しての詳しい保管資料を閲覧した者は見つかりませんでした。白の館そのものに関する資料は沢山ありますので、懲罰室に関して記述のある書物すべてを対象に調べるのは困難ですし、一般書架に並んでいるものを持ち出さずに閲覧する分には記録されませんから……これ以上は難しいですね」
「直近でなければ、どうだ。今回のことが起きてから調べたとは限らんだろう。……気になる名はあったのか?」
 白狼は机の上に何やら帳簿のようなものを広げて、一枚ずつ紙を繰り、目はずっと手元を追いかけていました。
「……あなたが気にされているだろう彼の者について言えば、記録に名は、ありました。しかし、それを言うなら他の者たちも立場は同じです。極端に言えば、わたくしが最も怪しまれるべきでしょうね」
 ラハトハスは一瞬手を止め、帳簿を閉じました。
「そもそも、例の鍵がどこに保管されていたのかもわからん有様だったとは……情けない。鍵について、それとなく訊いてみれば、慌てて目録を引き始めたが、あっちだこっちだと大騒ぎをして、結局見つからなんだ。係の者の処遇を考えんといかんな」
「もともと使用されない前提のようなものでしたから。……ということは、例の鍵が戻されたのかどうかも、確認できていないということですか」
「その通り。まだ本人が持っている可能性も高い。もしそうなら、持ち出す機会があったことを突きつけて取り調べれば、証拠が出るということになる。これは保管庫の担当簿だ」
 帳簿を手に取り、エルシルに示しました。
「持ち出されただろう時間は限定されている。担当者に確認を取ろう」
「異存ありませんが。あなたは相変わらず、その姿勢なのですか。あの者を糾弾しようという───…」
 と、司書長が苦言を呈そうとしたところへ、不意に訪れた者がありました。それはふたりにとって思いも寄らない人物でした。
「ラハトハス!エルシルも、ここにいたのですね。ちょうど良かったわ。あなたたちに、お話があるの」
 軽やかに裾を捌いて堂々と入ってきた神の娘は、何ごともなかったように笑いました。
 従者ふたりは、一瞬息を呑みました。そして思わぬことに顔を見合わせました。しかし、すぐに我に返り、それ以上の動揺を見せることなく、美しい所作で礼をしました。
「これはご足労を。お呼びくだされば駆け付けましたものを」
「良いのよ。いらっしゃい、ファルニエル」
 後ろには遠慮がちに控える少年の姿がありました。
 乙女は少年の腕を引き、半ば強引に自分の隣に並ばせました。
「実は、この子を、わたしの側付きに決めました」
 このとき、一番驚いたのは、報告されたふたりでもなく、それとない振りで乙女の後をついてきて様子を窺っている室外の従者たちでもなく、ファルニエル本人でした。可哀相なくらい狼狽して、乙女とふたりの従者の顔を忙しなく交互に見ました。
「それは急なことですね。いったい、何故、そのように?」
 エルシルが柔らかい表情を崩さずに尋ねると、乙女はふわりと微笑みました。
「いいえ、ちっとも急ではないの。ずっと考えていたことです。最後の試験に合格したから、晴れて任命することにしました」
 試験、という言葉に、三人が三人とも反応しました。代表するようにラハトハスが尋ねました。
「試験と申すのは、もしや、懲罰の件を指して?」
 予想に違わず、乙女は楽しげに頷きました。
「そうよ。一つ目の試験は、クレイスニルの館への、お使いです。他愛無いことを調べて貰っただけですけれど、ファルニエルには初めてのことですからね。出来れば、ひとりでやって欲しかったの。そうしたら二つ目の試験は必要なかったのに」
 つまり、乙女の言うには、こうでした。
 ───ファルニエルを神の娘の側付きとして採用するにあたって、責任感や度量を判断するため、ひとりで任務をこなせるかを見ようと思い、知の館への任務を与えた。しかし、手違いで、デューセリンも同行することになったため、別の試練を課すことにした。それが例の懲罰で、ファルニエルは期待通り粛々と耐えて見せた───。
「残念だったのはデューセリンです。絶交だなどと言わず、あなたを信じて誠実な態度を取っていれば、あの子も一緒に側付きにしても良かったわ」
 ファルニエルは話を聞くうちに、乙女の顔を凝視していました。ラハトハスに、エルシルも同様でした。
「……喜ばないの?」
 乙女が悪戯な少女のように首を傾げ、頬にそっと触れると、黄金竜の子は途端にまたどぎまぎし始めました。その様子を微笑ましく見守ってから、何と言うべきか迷っているらしいふたりの青年に向き直りました。
「そういうわけですから、あなたたちにも報告しておこうと思ったの。ラハトハス、この子に新しい衣の手配をしてちょうだい。色は……薄青が良いかしら。一の庭に新しい花が咲いたでしょう、あんな色が良いわ。羽織は白に銀糸?それとも、刺繍も白にしましょうか?」
「そ、それは、僕には余りにも過ぎた……」
「そんなことないわ。遠慮しなくて良いのですよ。やっぱり白にしましょう。お願いね、ラハトハス。───それから、エルシル。あなたはきっと、この子を司書にと思っていたのでしょうけれど、ごめんなさいね。わたしが貰います」
 ラハトハスは一瞬の間のあとに短い返事と礼をもって承知の旨を表し、エルシルは笑顔こそそのままに、残念ですが諦めます、と、どこか間の抜けた受け答えをしました。
「では、行きましょう……ふふ、ファルニエル、あなたに言ったのよ。ああ、ラハトハス、皆にも報せをお願いしますね」
 乙女は出て行こうとして、そのまま立っているファルニエルに、付いてくるよう促しました。ファルニエルは、はっとして、慌てて主の背に続き───去り際に、戸惑うような、不安げな顔で、ふたりを振り向いてから、出て行きました。
 まるで一陣の風の吹きぬけたような出来事でした。
 残ったふたりは、今度こそ遠慮なく顔を見合わせました。
 わざわざラハトハスが報せずとも、神の娘の退出に先んじて慌てて散っていった好奇心旺盛な者たちが、瞬く間に話を広めてくれるに違いありませんでした。


* * *


 自室に戻った神の娘は、何をするでもなくファルニエルの顔を眺めてにこにこしていました。少年はどうしていいかわからずに、困り果てていました。
 主は噴水の淵に腰掛けて、大層機嫌の良い様子なので、余計なことを言うのも憚られて、もじもじしていました。
「照れているのですか?可愛いのね、ファルニエル」
 鈴蘭が楽器になって音を鳴らしたらこんなふうかと思わせる声で、乙女は笑いました。
「もうすこし、待ってちょうだい。そろそろのはずなの……ほら、やっぱり!」
 手を打って喜色を表した乙女の視線をファルニエル追いかけると、その先にはこちらへやって来るプレアスタンの姿がありました。叩扉もせずに入ってきたその姿に、ファルニエルは二重の意味で驚くやら青ざめるやらしましたが、主の方にちっとも無礼を咎めだてする気のないのを見て、おやっ、と、訝しく思いました。
「待っていましたよ」
「そりゃどうも」
 プレアスタンは何やらげっそりとしていました。
 ちらっとファルニエルに目をやりました。ファルニエルは煮え切らない顔で小さく会釈しました。
「何と言うか……やってくれましたね。側付きってのは、どういう企てです?」
 肩を落とし背を丸めて言う様は、まるでひどい労働の後のようでした。
「まあ、企てですって!言葉通り、この子を側に置くだけですよ。不名誉の誤解が、これで帳消しになったでしょう?」
「些か強引過ぎますがね」
「でも結果は問題なし。違いますか?」
「………」
 プレアスタンは肩を竦めました。
「それでね、プレアスタン、例の話ですけれど……」
 言いかけたのを、プレアスタンは「ま、待った!」と慌てて遮りました。乙女に近づくと、その耳元に手を添えながら小声で話しました。
「(ファルニエルがいるんですよ!知っちまったら、この子も同罪みたいなもんです。聞かせるべきじゃない)」
 なるほどと頷いた乙女は、
「わかったわ。ファルニエル、そこにいてちょうだいね。良いと言うまで来ては駄目ですよ」
「は、はい」
 ファルニエルに噴水の部屋で待つよう言い付けておいて、プレアスタンの手を引き奥へ向かいました。
 残されたファルニエルは、どうすることも出来ずに、ただ、ふたりが去って行くのを見送りました。ふたつの後姿はやはり、片方は軽やかで、もう片方は冴えない様子でした。
「……いったい、どうしたんです?」
 声の届かなくなったのを見計らって、プレアスタンが口を開きました。
「妙に……なんというか、昨日までが嘘のようですよ」
 歩きながら、ちらっと振り返った乙女は、信じられないくらい明るく、晴れ晴れとした顔をしていて、その仕種ひとつにも無邪気さが見られました。それはここ最近、乙女が失っていたものでした(正確に言うならば失ったのでなくて、神界で見せなくなっていただけでした。乙女は少なくとも、ルーウルアウドと過ごす甘い時間の中では、この上なく無邪気でした。尤もそれもやがては様々の葛藤や誤解のうちに、飲み込まれてしまったし、そも人界での様子はプレアスタンの知るところではありませんでした)。
「そうよ。その通りです」
 乙女は前を向くと、小走りに距離を取って、くるっと体ごとプレアスタンに向き直りました。
「あのね、実はわたし、昨日までのことは、全部なかったことにすると決めました!」
「はあっ?」
 プレアスタンが思わずおかしな声を上げたのを、乙女は歌うように笑いました。
「ちょ、ちょっと……な、何ですか?何て言いました?もう一回、言って」
「ですから、全部なかったことにして忘れます。あなたにも色々と面倒をかけてごめんなさいね、プレアスタン。もう心配しなくて良いのですよ」
 笑いを含みながら言う顔は、悪戯な少女のように愛くるしい、これぞまさに皆の知る神の娘そのものといった顔でした。
「何もかも、嫌になってしまったの。ここ最近のわたしは『神の娘ニーロニィ』ではなかったわ。元に戻りたくなっただけです。どうして、そんなに驚くのかしら」
 淡紅色の唇を美しい弧にする主とは対照的に、従者は口を開けて間抜け面をしていました。
「プレアスタン?」
 あんまり黙ったままなので、乙女は小首を傾げました。
「……いや、すみません。失礼を。しかし、本当に、まったく急なお心変わりだもんで少々驚きました。すると、ほとぼりが冷めるまで人界へは降りないと、そういう解釈で間違いありませんか?」
「ええ、そうね。わたし、もう人界へは降りないわ」
 乙女は相変わらずにこにこと笑いながら、するりと窓際に行き、空を見上げました。
「今日も良い青ですね。心がさらわれてしまいそう……ふふ、いけないわ、わたしは白の乙女。青き乙女にはなれない」
 後ろ姿を目で追いかけたプレアスタンは、無言でじっと見つめていました。しかし外を眺めていた乙女は、その視線を特に気に留めることはありませんでした。
 ふわり、と髪を揺らして、乙女は振り返りました。
「これで何もかも元通り―――いえ、戻るのではないわ、新しく始まるのです。わたしの日々が」
 乙女の髪の輪郭を光が淡くしていました。
「そうでしょう?ねえ、プレアスタン?」
「……かも知れませんね」
 きらきらと光を纏った乙女とは対照的に、プレアスタンの顔には影が差して見えました。 催促されてようやく返事をしましたが、妙に中途半端な答えでした。
「どうしたの?浮かない顔……もしかして、もうお役御免になると思って拗ねているのかしら!」
 乙女は小走りに戻って来ると、プレアスタンの頬に手を伸ばしました。プレアスタンは、ちょっぴり戸惑ったような顔をしました。
「そんなこと、心配しなくても良いのですよ!あなたはずうっと、わたしのプレアスタンですもの。今までそうだったように、これから先もずうっと。そうでしょう?」
「ええ、まあ」
 両手で従者の頬を包んだまま、乙女は上機嫌に言いました。どこか釈然としない顔で半分苦笑いにプレアスタンが頷くと、今までの分を取り戻すかのように、そして自らの言葉の通り、昨日までの一連の出来事など何もなかったかのように、乙女は真っ白な笑顔を輝かせました。
「ラハトハスのことも、エルシルのことも、ファルニエルの一件も、これですべて解決しました。今日はなんて素晴らしい日かしら!……そうだわ、蜜茶を頂きましょう、三人で―――ファルニエル、ファルニエル!」
「ああ、待ってください」
 良い思い付きに手を打って、今頃ひとりで待ちぼうけているだろう少年を呼び掛けた乙女を、プレアスタンは片手を上げて制しました。
「いや、是非とも御相伴に与りたいところなんですが、ちょいと仕事がありましてね。今日は遠慮しておきます」
「そう、残念だわ―――ああ、ファルニエル。待たせてごめんなさい。蜜茶を……ふたり分、ね?」
 黄金竜の子は多少まごつきながらも、はい、と返事をしましたが、目の前のふたりの温度差に、思わず顔を見比べました。白の乙女は何かのめでたい日ででもあるかのように、今にも踊り出さんという様子で、一方のプレアスタンはと言えば、主の調子に合わせて笑ってはいるものの、心からの笑顔とは到底思えませんでした(尤も無邪気な乙女は気づいていないようでしたが)。
「み、蜜茶をふたり分ですね。畏まりました。すぐに」
 なんだかその場に長く居てはいけない気がして、ファルニエルはそそくさと出て行こうとしました。
「ああ、じゃあ、そういうわけなんで、俺もこれで失礼します―――ついでにそこまで一緒に行くか」
 思いがけずプレアスタンがついて来たので、ファルニエルは驚きました。
「えっ」
「えっ、とは何だよ。可愛い後輩が初仕事でどじをしないか、心配してやってるんだ」
「わっ」
 プレアスタンは大股で軽快に歩いて来ると、ファルニエルの首に腕を回して、半分羽交い締めのように頭を撫で回しました。
「まあ、頼もしい先輩!」
 乙女がそれを見て、楽しそうに笑いました。
「そら、行くぞ」
「わ、あ、は、はい」
 そのまま神の娘の笑い声に見送られて、ふたりは縺れ合ったまま退出しました。
 私室を完全に出たところで、プレアスタンはやっとファルニエルを解放しました。
「あの……」
「いや、まあ、気になるところは多々あると思うんだが」
 まだ何も言っていないのに、プレアスタンは先回りして話し出しました。
「正直、俺も予想外の展開で、説明しようがないんだ」
「はあ」
「可能性として考えられる線はある。けど、ちょっと大逸れててだな、気軽に口に出せる範疇を越えてる。第一、お前はこれ以上、知らない方がいいんだ。何かあった時に、無知だった方がいい」
「何かって……」
 どんな事態を指しているのか尋ねる前に、
「色々あるんだよ。まあ差し当たっては……(生ける書の間での件を口外さえしなければ、お前は安全だろ)。そういうことで。じゃあな」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 言うだけ言って立ち去りかけた背中に追い縋り、ファルニエルは意を決して言いました。
「あ、あの、知らないほうが良いのはわかりました。納得……いえ、納得は出来ないんですが、その、ええと」
 プレアスタンは振り向いた格好のまま、助け舟を出しました。
「理解は出来る?」
「は、はい。今はそう思っておこうと……でも」
 少年の顔は真っ赤になってしまっていました。あんまり必死に勇気を振り絞ったらしい様に、プレアスタンは笑って身体ごと振り返り、腕を組んで言葉を待ちました。
「その……書き損じの件なのですが。あなたは、黙っていてやると言いました。なのに事は公になり、僕は懲罰を……それは主にご奏上されたということです」
「嘘をついたじゃないかって?」
 プレアスタンは器用に片眉を上げました。
 嘘をつき、騙すことは、白の従者たちの間では倫理上の重罪に相当しました。他意のない隠し事や、勘違いによる結果的な嘘など、それに含まれない例もありましたが、この件では違いました。黙っていてやるからと、代わる行為を要求しておきながら、約束を違えたとあれば、それは明白な偽りであり、悪意ある騙りでした。
 ファルニエルには、もともと自分の手落ちが発端だという引け目も勿論ありましたが、それにしたって嘘はひどいと、懲罰室にいる時から心密かにずっと思っていました。しかし訴える機会もなく(懲罰室の中ではとても言い出せませんでした)、公言できない何かが絡んでいることもよく承知していたので、誰にも言えませんでした。今、やっと巡ってきた機会に、これを逃したら次はないと、思いきって本人に切り出したのでした。
 しかし、プレアスタンの方が糾弾される側で、ファルニエルがする側だというのに、ふたりの態度はまるで反対でした。プレアスタンは上から覗き込むようにファルニエルを見ていて、ファルニエルはおっかなびっくり身を縮めていました。
「―――結論から言うと、俺は嘘をついちゃいない。俺はあの時、『これについては黙っててやる』と、そう言ったんだ」
 これについて、というところで、プレアスタンは、片手に物を持っている形をつくり、軽く上下させて見せました。
 ファルニエルは目をしばたかせました。
「これ、てのが、書き損じの白の書を指すんだと思い込んだのはお前の勝手で、残念だがあの時持ってたのは件の白の書じゃない」
 何食わぬ顔で両手をひらひらさせるプレアスタンに、ファルニエルはうろたえました。
「そ、そんな」
「それこそ、嘘だと思うなら主ニーロニィに白の書を見せてもらえよ。俺があの時持ってたのは、それだ。自分のじゃない。変わった装丁だったのを覚えてるだろ?つまり、書き損じのことを誰にも話さない、なんていう約束は、そもそもしてないってことだ」
「何て卑怯なことを……嘘ではないから、それで正当だと言うんですか!」
 気弱な少年が、珍しく声を荒げたのも無理はありませんでした。ファルニエルにしてみれば嘘をつかれたのと全く変わりないのに、本人はのうのうと罪を逃れた気になっているなんて!
「プレアスタン、あなたはいったい、何なんです!あなたと関わってから、おかしなことばかり……!僕は、何が何だか、まるでわからない。わからないまま振り回されて……」
 色白の顔が、すっかり真っ赤になっていました。内向的な黄金竜の子は、怒りをあらわにすることなど滅多にありませんでしたが、今こそがその稀な機会でした。
 少年は制裁を望んではいませんでした。もっと純粋に、正しいことは正しい、そうでないことはそうでないと、きちんとしておきたかっただけでした。しかし、自分が正義で相手が悪であるなどとおこがましい考えは持っていなくとも、こうして手玉に取るように言われては、憤るのも仕方のない話でした。
 下唇を噛み、懸命に涙を堪えている顔を、プレアスタンは急に神妙な面持ちになって見下ろしました。
「うん……そうだな。そうだよな」
 手を伸ばし、ファルニエルの身体を包みました。小さな身体がぎくっと強張りましたが、お構い無しに抱き寄せて、そっと囁きました。
「ごめんな、ファルニエル。俺は決してお前が嫌いじゃないんだ」
「……?」
 ファルニエルは、またわからなくなってしまいました。いい加減な調子で煙に巻かれるかも知れない、いや、きっとそうに違いないくらいに思っていて、だからこそ強くぶつけることが出来たというのに、震えてもいないはずのその声が、自分よりもよほど泣いてしまいそうに聞こえたのでした。
 しかし声の調子はすぐに変わって、今度はいかにも深刻な、訴えるようなそれになりました。両肩を掴んで視線を合わせられると、プレアスタンの目がきらっと光りました。
「いいか、ファルニエル。主ニーロニィのご様子をつぶさに見ておくんだ。どこかおかしいと思うことがあれば教えてくれ。妙な頼みばかりで、すまないと思ってる。でもこれが最後だ。恨んでもいいから、時がくるまで秘密にしてくれ。頼む」
「時がくるまで……?」
「そう。その時になれば、わかるはずだから」
 と、廊下の向こうから微かに誰かの話し声が聞こえました。プレアスタンは、ぱっとファルニエルから離れて、
「じゃあな!頑張れよ、後輩!」
 急におどけて笑い、大袈裟に手を振りながら足早に廊下の曲がり角の向こうへ消えていきました。
 ファルニエルは、ぽつんと取り残されました。半ば呆然と白い廊下を見つめて突っ立っていましたが、反対側から話し声が近づいてきたと気付くと、主の私室へ逃げ込みました。なんとなく、見られないほうが良い気がしたのでした。
 どうしたものかと思い、まず主のもとへ戻りました。すると、
「あら、お茶は?」
 そう言われてはじめて、蜜茶の用意を言い付かって外へ出たのだと思い出しました。
「もうプレアスタンに似てしまったの?彼も度々、こういうことをするの。お茶を忘れたり、声を掛けずに飛び込んで来たり」
「……申し訳ありません」
「いいえ、構いません、気にしていないわ。でも、なんて悪い先輩かしら!植え込みの手入れの仕方は真似しなくて良いのですからね」
 かつての珍事を思い出したのか、神の娘は口元に手をやって肩を震わせました。
「あ、あの、蜜茶をお持ちします」
 ファルニエルはそそくさと再び背を向けました。後ろから、お願いしますね、と声がかかりました。
「(……やっぱり)」
 プレアスタンは主の私室を何度も訪れているんだ。口に出しはしませんでしたが、先程の主の話し様から、少年は悟ってしまいました。頭の中で様々のことが駆け巡り、顔色を悪くさせました。
 ファルニエルには憶測を呼ぶための材料が多くありました。
 そも、お祭りプレアスタンと言えば、今でこそお調子者の代名詞のような存在になっているものの、人界には生まれない生き物が生まれてくるはずのたまごの実から生まれていながら、他ならぬ人間の姿をしていたという、よく言えば不思議な、悪く言えば異常な出生の逸話がありました。それは大っぴらに会話されることはないながら、密やかに口から口へ伝わっていて、ファルニエルの耳にも届いていました。その話題にはいつも、常と異なる生まれのプレアスタンを従者として進んで受け入れた乙女に対する賞賛と、プレアスタンに対する好ましくない表現の一例が抱き合わせになっていました。そして、それは本人の耳にも入っているに違いありませんでした。噂とは得てしてそういうものでした。
 その前提を踏まえて、主の様子がある頃から変わりはじめたこと、クレイスニルの館で調べさせられたこと、その時の誰にも言えない封書、そして懲罰室での一件、側付きにという不自然な抜擢、更に今しがた聞いたことにはプレアスタンは主の私物である白の書を持ち歩き、何度も私室に出入りし―――。
 何かを導きかけた黄金竜の子の身体に、震えが走りました。思わず自分の衣の胸元をぐっと掴んで立ち止まりました。口を一文字に引き結び、恐ろしいものをやり過ごしました。
 少年の白い顔はいっそう白くなり、思いつめた菫青石の瞳が、陰りの中でじっと何かを見つめていました。



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2011.01.14 公開