異界を渡る物語 第一章 第十九話



 午後の光の下、ひとりの娘が森を歩いていました。
 月の光、星の光を集めて紡いだ髪、淡く輝くような瑞々しい白い肌、紫水晶の瞳を持ち、名を、ニル、といいました。
 娘は心を決めていました。それは、己の立場を捨てる、という決心でした。


 図書室での一件の翌日、乙女は神の業を用いて、ひとりの人物を創り上げました。それは、夜な夜な人界へ降りるために身代わりにしていた写し身と、同じであって、違うものでした。今までのような、気休め以外の意味など成していなかった一時的な誤魔化しでなく、完全なもうひとりの己、否、本物の神の娘ニーロニィとして生み出していました。
 ───つまり、これまで神の娘ニーロニィであった乙女は名を改めてニルとし、新しい神の娘ニーロニィにその座を譲って神界を去ることを決め、実行に移したのでした。
 それが悲嘆であることにも気づかないくらい深く長く悲嘆に暮れた乙女は、二者択一でひとりの男を選びました。すなわち、これまで信じていた従者たちと今信じている恋人を秤にかけて、今信じている恋人の方を、ひいては人界と神界を秤にかけ、人界の方を選び取ったのでした。
 神界に置いてきたのは「完璧な神の娘ニーロニィ」でした。白の乙女と謳われたニーロニィ、皆に愛されていたニーロニィ、ルーウルアウドを、恋愛を知る以前の、何も知らないニーロニィでした。
 白の館の後始末は、新しい「ニーロニィ」に任せました。その方が上手くいくに決まっていました。新しい「ニーロニィ」はニルの記憶を持っていましたが、記憶だけで、ニルの感情を持ってはいませんでした。考え方や感じ方はルーウルアウドと出会う前の、無邪気で悩みも知らない、天真爛漫な神の娘として創ったのだから、人界よりも神界を選ぶのは明白でした。どうして恋などというものに固執したのか、理解に苦しむくらいであろうと思われました。すべてをなかったことにして、大好きで大切なラハトハスやエルシルやプレアスタンと仲直りをし、それから可哀想なファルニエルの名誉をなんとか挽回してやって、白の乙女としてあるべき本来の姿で日々を過ごせば、不穏な噂のあったことなど忘れられていくはずでした。
 そうして乙女、つまり、もと神の娘ニーロニィだった「ニル」は、人界に降りました。
 心から親愛の情を抱いていた従者たちにもう会えないと思うと、つらく、かなしく、寂しいことこの上ありませんでしたが、それは従者たちが神の娘に対してかつてと同じく接してくれるならばの話でした。しかし、ラハトハスの背中やプレアスタンとの喧嘩、司書室での出来事を思い返すにつけ、そんなことはもう無理だと思ってしまうのでした。もしも従者たちが態度を改めたとしても、こちらの方がまっさらな気持ちのままで受け入れられるかどうか心配でした。一度芽生えてしまった懼れを根っこからきれいに抜き去るにはどうすればよいのか、乙女には見当が付かないのでした。
 捨てるものは惜しいけれども、これでルーウルアウドと毎日過ごせる。
 乙女を動かしているのはそれだけでした。寂しくても慰めてくれる、辛くても労わってくれる、だから何も心配ないのだ、そう信じていました。否、信じようと努めていました。思い至った結論に、間違いなどないはずでした。
 もしも、もしもの話、例えば、仮に、拒まれるようなことがあったとしたら?───心の底の一抹の不安には、蓋をしていました。


* * *


「ラッダ」
 甘やかな声音によって紡がれる名を、その名の持ち主は僅かな違和感を持って耳にしました。それは、いま、ルーウルアウドが最後の塒に定めた廃屋の、もと出入り口だった壁の崩れ目に立つ麗しの乙女が、日の光と建物の残骸がつくる影の対比の中に身を置いているからでした。
「ニル……」
 この場所に身を潜めてから数日、待ち侘びたような、瞬きほどしか経っていないような再会でしたが、ルーウルアウドが驚いたのは他に理由がありました。人の男と神の娘は、昼日中、太陽の下での逢瀬など、命を救われたあのとき以来一度もしたことがなかったのでした。しかも、ルーウルアウドが神の娘ニーロニィの来訪に予め気づかないことなど、今まで一度もありませんでした。それが、今回は完全に不意をつかれていました。
「いったい、どうしたと」
 木の枝を削って矢を拵えていたルーウルアウドは、手にしていた小刀を仕舞うと、枝をまとめて横へ除けました。
 乙女は中へ入り、立ち上がって迎えた男の両手を取って、見上げました。微笑していましたが、どこか張り詰めたような空気を纏っていました。
 乙女はじっとルーウルアウドの瞳を見つめました。ただごとではない雰囲気を感じ、ルーウルアウドはわずかに眉根を寄せました。
「あなたに……お話したいことがあるの」
 決然とした、というよりは、決然とした風を装おう、というような声音でした。緊張しているのか、硬い表情で人の男を見上げる乙女の紫水晶は、うっすらと水を纏っていて、睫は震えていました。
 ふたりは目を合わせ、手を取り合ったまま、ゆるゆると腰を下ろしました。ルーウルアウドの手が乙女の二の腕辺りに、労わるように触れました。
 ごく自然な仕草に、乙女は、ほう、と息を吐きました。やはりあの時のことは自分の勘違いで、この男は自分を愛しているのだと思いました。
「まず……謝りたいと」
「謝る?」
「そうです。わたしは、あなたを疑いました。わたしに何か隠し事をしているようだし、あの夜、森で、その……他の方に心変わりをしたのかと。でも、そうではないと、わたしは、ちゃんとわかったのです。もうあなたを疑ったりしません」
 あの夜、という言葉に、ルーウルアウドがほんの少しだけ眉を動かしましたが、乙女は追及せずに先を続けました。
「だから……だから実はわたし、神界を……」
 ───捨てました。
 そう言われた瞬間のルーウルアウドの顔は驚きに目を見開き、うっすらと口も開いていて、今までに見たことのない表情だったので、乙女は少しだけ笑みを深めました。
「わたし、決めたのです。もう神の一員でなくていいの。ずっと、あなたと、この人界で生きます」
「ニル!何故、急にそんなことを」
 ルーウルアウドは思わず乙女の両腕を掴み、問い質しました。
「……理由なんて……ありません。ただ、決めたのです。わたしはあなたと共に在りたい。わたしにはあなたしかいないの、わたしのラッダ。あなただけが、すべてなのです。神とか、人とか、そんなことを抜きにして、ただのふたりとして抱き合いたい。ただのニルとして……抱かれたい」
 ルーウルアウドは驚きの余り絶句しました。
 ふたりは互いの濡れた瞳を鏡にしていました。それは相手との見つめあいのようでもあり、己との見つめあいのようでもありました。
 俺は、と、ルーウルアウドは、乙女の腕を掴む手を戦慄かせました。ぐっと俯きました。
「茨に覆われ毒虫の群がる底のない泥の沼に、他でもない貴女を誘い込んでしまったのか……!」
「違います!泥の沼なんてどこにもありはしないわ。あなたと一緒なら、わたしには苦しみなんてない……もしあったとしても、それさえ甘い喜びと同じことなの。ええ、そうに違いないわ」
「貴女は……なぜそうやって私を悩ませるのです……私が今、どれほどの喜びに打ち震え、そしてどれほどの誘惑と戦い、心を軋ませていることか」
 乙女はほんのすこしだけ、悲しくなりました。かつて、神と人と、あくまでも線を引いていたルーウルアウドに、そんな口の利き方では嫌だと言ったのは乙女でした。貴女、でなく、お前、と呼びつけられてみたい、人の男が人の女にするように接して欲しい───そう言って、少々の押し問答の末、ようやくその呼び名を手に入れたというのに、今、こうして神界・人界のことに話が及ぶと、また言葉が元通りに戻っていました。乙女の望みどおりに振舞ってみせても、神と人という弁えを、本当はずっと捨てていなかったことの表れに違いありませんでした。
「ラッダ。何を悩むというの?迷うことなんて何もありません。もうわたしを神の娘と思わなくて良いの。『神の娘ニーロニィ』は、今頃神界で立派に勤めを果たしています。わたしは、ただの、ニル。あなたのニル、それだけです」
「神界に身代わりを……?」
 ハッとしたルーウルアウドに、乙女は微笑みました。
「なんと……」
 ───なんという、馬鹿なことを。
 一瞬の後、ルーウルアウドは乙女を胸にかき抱きました。背中から、きつく、その腕に閉じ込めました。逃がすまいと戒めるかのように、腕力の鎖で乙女を束縛しました。そこには優しく慈しむような甘さも、壊れ物に触れるような畏れもありませんでした。
 乙女は眼を閉じて身をゆだねました。苦しいくらいの抱擁は、心を満たしてくれました。
「……俺も、お前に話したいことがある」
 胸の振動と共に伝わった声、その言葉遣いが望みどおりに戻ったことに、乙女はいよいよ嬉しくなりました。抱きしめられたまま、小さく頷きました。
 ルーウルアウドは腕を解きました。乙女が顔を見上げました。
「俺は愚かな男だ」
 その顔は苦悩に歪んでいました。眉間には深く皺が刻まれていました。
「お前の言う通り、ただの人の子として愛し合えたらどんなに幸せか……こんな誘惑は他にない。考えただけで骨までも砕けて蕩けそうだ」
「それなら、あなたは何に怯えているの?何がそんなに恐ろしいのですか?神の娘と人の子、その軛(くびき)から解き放たれようというのに、何があなたを苦しめているの?」
 再び現われた鳶色の瞳が、強い力を伴って乙女を見つめました。
「話そう。……我ら一族には、特別な力がある」
「特別な、力?」
「そうだ。他の地の民の持ちえない力。風や土の声を聴き、ただ人には見えぬものを見、獣を御し、中には血の濃さゆえのことか、未だ来たらざる時を見た者さえいるという話も残っている」
「なんてこと!……素晴らしいわ、地上にそのような者たちがいるなんて知りませんでした。あなたがわたしの姿を見たのも、訪れるのをいつも知っていたことも、そういう理由だったのですね」
「俺は昔から特に眼が良く、見ることに長けている方だった。風の声も多少、聴く」
 乙女は納得顔で頷きました。いつぞやプレアスタンに相談していて気づいたことを思い出していたのでした。
 例のあのとき、乙女は存在を消したのでなく、単に姿を見えぬようにしただけでした。つまり、言うなれば、ただびとの目に映らぬようにと、そういう願いだったのでした。しかしルーウルアウドの眼は、ただびとの目ではありませんでした。地上の人に見えないものまで見る特別な眼だったのでした。
 逢瀬の際に先読みされていたことについても、毎回風に道案内を頼んでいたのだから、その声を察知したなら知っていて当然というわけでした。
 ずっと疑問だったことが明らかになって、胸のつかえが取れた思いでした。
「けれど、それがどうして追われることになるのです?」
「人間はしばしば、そういうことをするものだ」
 それは乙女にとって腑に落ちない答えでした。優れているものが優れているせいで不当な扱いを受けるなど、到底道理が通らないように思えました。
「妬ましいのかしら」
「どうだろうな」
 不思議そうに首を傾げる乙女に、人の男は、ふ、と笑って、そしてすぐに真顔に戻りました。そっと、ゆっくり、乙女の頭を自らの胸に抱き寄せました。
「ともかく、この血を絶やさんとする者たちがいる。遥か昔からのことだ。俺たちは人狩人(ひとかりうど)と呼んでいるが。その者たちは我らを称して世界の汚点、やがて人間を破滅へと導く眠れる害獣とし、人々にそれを植え付け、一族から安寧を奪ったと言われている」
「ひどい」
「理不尽だと、感じないではない。しかし、いつからそうなったのかも解らぬほどの古い時代から続くことを覆すのは難しい」
「そう……。でも、あなた方の一族は、そんなにずっと狙われ続けていても、今日まで、その……生き続けているのね」
「一族は昔、もっと多くの力を有していたという。今となってはわからんことだが、遡れば、追われ始めたのも恐れが始まりだったのかも知れん。力のあった頃は、人狩人たちを退けることなど苦にもならなかったと聞く。むしろ、殺生を好まないが故に、命までは取らなかったのだと。だが……俺たちは弱くなった」
 硬い指が乙女の髪を繰り返し梳きました。幼子に寝物語を聞かせる様にも似ていました。
「時の流れと共に徐々に力を失い、今では見たり聴いたりがせいぜいになった。反して人狩人たちは、武器を開発し、術を得、力をつけた。今や我らの存在は脅かされ、生き残りを賭けて逃げ隠れている有様だ」
「そんな……。でも、おかしいわ。神界では、そんな話を聞いたこともないのですよ。アシュオリ、と言いましたか、彼は、自分たちのことを、世界中の嫌われ者と言っていたでしょう。それは人々が皆、人狩人の味方ということね?言い換えれば人々が皆、あなたの一族を知っているということ」
 愛しい男の胸にぴったりと頬を寄せながら、
「でも───(それほどに知れ渡っていることが、何故、わたしの耳に入らないのかしら)」
 乙女は最後の一節を、誰にともつかない調子で呟きました。それを耳ざとく聞きつけて、ルーウルアウドは口の端で笑みました。自嘲的ともとれる表情でした。
「無論、世界中が敵などと言っても、皆が皆、武器を手に追ってくるわけではない。ある者は恐れ、ある者は蔑み、ある者は嫌悪する。そして、人狩人はそれを嗅ぎつける。だから我らは身を隠す。しかし───そうか。神々は我らのことを何も仰らないか───…」
 言いながら、どこか遠くを見る顔をしたのが、寄り添っている乙女からは見えませんでした。
「ともかく。俺たちはそういう一族だ。故に、我らには、決して破ってはならない掟がある」
 掟、と小さく繰り返した乙女は、何かを察して少々顔色が悪くなったように見えました。
「…………それ、は……どんな?」
「『人にあらざるものとは、例え姿を見ることが叶い、意を交わすことさえ出来たとしても、決して愛し合ってはならぬ』」
 髪を撫でる手が止まりました。
「俺は、掟を破った」
 乙女がルーウルアウドの衣服をきゅっと握り込みました。
「すこし以前から、奴らの動きが俄かに活発になり、一族はまさに危急存亡。なぜなら人狩人の長の予言に災いが起こると出、そうなる前にと奴らが行動を起こしたからだ。仲間たちが、弱い者から順に次々死んでいく。それを見ない振りで、自分だけ幸せに溺れるなど、俺には出来ない」
 言葉を聞きながら、ゆっくりと身体を起こす乙女の表情は、徐々に深刻なものになっていきました。この話の先に愛しい男が何を言い出そうとしているのか、予感と呼ぶには強すぎる、しかし確信などとは思いたくない胸騒ぎが、乙女に知らせているのでした。
「でも、待って。待ってください。災いとは何?どんなことが起こるというの?まだ起こっていないことなら、防げば良い……ええ、そうよ。わたしが出て行って人狩人たちに言えば良いのです!この神の娘の言葉に、人の子が逆らえはしないはず」
「ニル。神の名は捨てて来たのではなかったのか?」
 ルーウルアウドが苦笑気味に尋ねると、乙女はしどろもどろになって必死に次の言い訳を探しましたが、出てくるのは、でも、とか、だって、ばかりでした。
「災いという言葉が具体的に何を指すのかはわからない。だが、禁忌を犯すことに起因する、と、それは判明している。つまり、原因は俺なのだ。この俺が災いを呼ぶ。一族にとっては既に充分災いと呼べる事態だが。それでもまだ、一族だけではない、世界を巻き込むほどの災いを、他ならぬ俺が───…」
「駄目です!」
 ハッとして、乙女は叫びました。
「だからって、あなたが死ぬなんて絶対に駄目!そんなこと、許しません!絶対に、絶対に!」
 髪を振り乱して縋り付きました。
「駄目、駄目、駄目!わたしのラッダ!わたしには、もう、あなたしかいないのです!あなたしか」
 その幼子にも似た必死さに、ルーウルアウドは哀しいとも困ったとも取れる微かな笑みを浮かべました。何よりも清らかで、誰よりも神聖なはずの乙女が、形振り構わず己の胸に顔を押し付けて力いっぱい抱きついている、それは嬉しくもあり、絶望そのもののようでもありました。
「ニル……すまない」
「謝らないで!」
「もっと早くに───…否、はじめから、お前の神聖を穢してはならなかった。俺はそれを承知していたにも関わらず、欲に溺れた。だが、それは今更だ。もう戻れはしない。後悔もない。ただ……今この局面に及んでさえ、俺は、最期にもう一度だけ、お前に会いたかった」
 ぴたり。乙女の動きが止まりました。
「───最、期……?」
 のろのろと顔を上げ、乙女は男の顔を見ました。
「……じゃあ……あなたは、わたしが神界を捨ててこなければ、迷うことはなかったと?……初めから、死ぬつもりで?……わたしを残して……わたしを、置いて……」
 ルーウルアウドは答えませんでした。ただ、苦痛に耐えるように瞼を伏せました。
 紫水晶の瞳から、すうっと光が褪せてゆきました。
 乙女はルーウルアウドの胸を押し返すようにして立ち上がり、そのまま、一歩、二歩、後退りました。
「ニル。俺は───…」
「ああ!」
 言いかけた言葉を聞くことなく、乙女は両手で顔を覆い、天を仰いで嘆きました。
「!」
 ルーウルアウドは言葉を失いました。
 ちょうど傾き始めた日の光が差し込んで、乙女の輪郭を切り取りました。朱みを帯びて見える光に透かされた、きらきらと輝く乱れた髪、そして、しなやかに反る肢体。
 まるで計算しつくされた絵画のように美しく、しかし、もっとずっと生々しい光景でした。
 乙女はゆっくりと、時間の流れが遅くなったのではと錯覚するほどに、ゆっくりと、手を解きました。顔を上向けたまま、瞳だけがルーウルアウドに向けられました。そこに妖しい輝きを見つけて、ルーウルアウドは肌を粟立たせました。長い睫、半開きのふっくらとした唇、磨いた貝殻のような肌。追って、視線を固定したまま、ゆるゆると顔が正面を向き───。
 瞬間。
 ルーウルアウドは反射的に武器に手を伸ばしていました。
 記憶に残ったのは、そこまででした。


* * *


 同じ頃、スファティは全力で走っていました。身軽さが武器だと自負しているスファティでしたが、軽業師さながらに愉快なほどよく動くはずの身体は、もうあちこちが悲鳴を上げ始めていて、足の裏が地を打つ度にぎしぎしと全身が軋みました。
 信頼する兄のひとりが発って間もなく、伯父とふたりで出立してから、はじめのうちは思いのほか楽でした。幸運にも(実際、それはアシュオリの手腕によるものですが)追手に感づかれることもなく、呆気ないほど簡単に進むことが出来ました。しかし、これなら無事に森を抜けられると見て、スファティに慢心の生まれたことが、運のつきだったのでした。
 追ってくる影がいくつなのか、それを確認している余裕さえ既になくなっていました。逃がしてくれたオリ兄(あに)さんはどうなったのか───スクとエジは───ルー兄さんは───心に浮かんでこようとする不安を必死に押さえ込むのが精一杯の時期も通り越して、今はただ、足を動かし続けること、それだけしか考えられませんでした。
 息が上がって、自分の呼吸が煩く、頭の中に篭っていました。時折ぐっと飲み込む瞬間に、耳が塞がって、眩暈のなり損ないのようなものがやってきては逃げていきました。それでも足を止めたら奴らに追いつかれる、そうなれば死ぬ。それだけは確かでした。この足は何処へ向かっているのか?その先に誰かいるのか?果たして助かるのか?わからなくても、ただ走る、それしか術はないのでした。
 人狩人(ひとかりうど)たちは、懸命に足を進める少女を、三人で追走していました。三人は、今にも力尽きそうな少女とは違って、いずれも充分に体力のある男たちでした。足取りも確かで、軽々と、余裕の伺える動きをしていました。時折、互いに目と目で何かを確かめあっている様子でした。
「……!」
 ついにスファティが倒れました。腿の筋肉が追いつかず、上げたつもりの足が地面を擦ってしまって、どう、と転げました。
 一回転してうつ伏せになったスファティは、心臓が、ど、ど、と暴れ狂うのと、それに合わせてこめかみが鳴るのとで、他の音が聞こえなくなりました。喧しいくらい限界を訴える身体を、それでも何とか持ち上げようと、両手を突っ張りました。しかし、それより先に、自分のではない別の力が、乱暴にスファティをぐいと引き上げました。
「グ!」
 喉が詰まって、涙が滲みました。男のひとりが、スファティの襟元を掴んで、宙吊りに持ち上げていました。両手が男の手に掴み掛かり、つま先が地面を求めて、ばたばたと動きました。男は鬱陶しげに舌打ちして、襟を掴む手を一度緩め、また勢いよく引き上げました。スファティの頭に殴られたような衝撃が走り、手足からだらんと力が抜けました。
「どうする?」
 男たちが相談を始めました。
「使えるか?」
「小娘だぞ。捨てていいだろう」
「いや、あの男は手練だった。その連れ───ら、試し……価…は……」
「シュ……ズが、そ……なら……」
「………、……」
 さっきの仕打ちのせいか、笛の音のような強烈な耳鳴りがして、自分の処遇について話し合っている男たちの声は急に遠くなりました。いけない、気を失ってしまう、と思い、なんとか抵抗しようとしましたが、抗いきれるだけの気力が、もう、残っていませんでした。
 ルー兄さん、たすけて。
 ミチュ。
 そして、スファティの意識はすっかり闇に落ちてゆきました。



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2011.03.10 公開