異界を渡る物語 第一章 第二十二話



 ラハトハスが報を受ける宵、時を遡ること少々。
 風の神エウィの館では、毎夜の例に違わず、宴が催されていました。
 天真爛漫で寂しがりやの女神エウィは、穏やかで物静かな男神である音楽の神ランターヤをよく慕っていて、夜は寂しい、暗くて静かなのは嫌だと言っては館に招き、音楽を強請りました。そして強い眠りの誘いにとうとう抗えなくなるまで歌い踊り続け、力尽きると客も何もほったらかしのそのままに、ぐっすりと眠り込んでしまうのでした。この厄介な宴にはランターヤのほかにも様々の神が招待されました。特に美の神パシュミア、技の神トスクス、恋の神ニルノ、時の神ユースラティなどは、代わる代わる風の神の館を訪れていました。
「嬉しいわ、賑やかだわ。わたくし、楽しいのが大好き。さあ、もっと蜜酒を召し上がってくださいな」
 その日は音楽の神と、常連の四人の神とが勢ぞろいしたので、無邪気な女神は大喜びをしていました。
「わたくし、新しい舞いを覚えましたの!ランターヤ、ランターヤ!」
 名を呼ばれ、おっとりと笑んだ音楽の神が竪琴を鳴らすと、風の神のすらりとした四肢が軽やかに音に乗りました。美しい髪とひらひらした衣を羽根のように靡かせながら、瞳をきらきらと輝かせて女神は軽快に舞いました。蜜酒のおかげで紅潮した頬と、時たま危なっかしさを見せる足取りが皆の笑顔を誘いました。
「風殿はご機嫌と見える。結構なことだな」
 技のトスクスが杯を傾けながら、さも微笑ましいといった風に言いました。
「まことに。我らもこうして美味い酒にありつけて、何よりです」
 時のユースラティは、静かに杯を揺らしました。
「宴は悪くありません。こうして舞いを見るのも嫌いではないわ。でも一番楽しそうなのはやはり本人のようよ」
 美のパシュミアはくすくす笑い、果実を一粒、口へ運びました。
「だって、もう飽きるくらい、わたしたちは繰り返し呼ばれては来ているのですからね!わたしはエウィの寂しがりに付き合うために来ているのではないのよ。ランターヤの楽がなく、美味しい蜜酒がなくて、あなたがたがいないなら、呼ばれたって放っておくわ」
 恋のニルノはわざとらしく肘掛にもたれて見せましたが、目はしっかりと舞いを追っていました。
 と、竪琴の音にランターヤの麗しい声が加わりました。音楽の神の声は美しくよく響き、この広い神界のどこにいても耳に届くのではなかろうかと思わせました。今宵の歌は軽やかで、ランターヤの声はきらきらとした輝きを含んでいました。広間に灯りを増やしたのではないかと思ってしまうほど、ぱっと場が華やぎました。談笑していた神々もうっとりとして耳を傾け、宴の為に忙しく働く館中の従者たちもまた、心を吹き抜けてゆく心地よい微風のような声につい手を止めて身を委ねたのでした。
 そこへ無粋にも大きな足音を立てて飛び込んでくる者がありました。転がるように飛び込んできたのはエウィの従者たちのうち、代わる代わる人界の気象、すなわち精霊たちの動きを観察する役目を仰せつかっている者たちのひとりでした。
「尊い神々よ、ご無礼をお許し頂きたく!我が主エウィに申し上げます、人界が……人界が、大変なことに、ああ!」
「どうしたというの、ラライ」
 ランターヤの手も止まり、エウィをはじめ四人の神々も、ラライと呼ばれた年若い従者に注目しました。
「嵐です!大嵐が吹き荒れて、海はうねり、山は唸り、川は氾濫し、都は崩れ、兎も角ひどい有り様なのです!精霊たちの乱れることは凄まじく、我らの手には負えずと判じ、我が主エウィのお力を持ってして治めて頂くほかないと」
「なんですって!」
 神々はすぐに宴を中止して人界へ向かうことにしました。エウィは翼馬の引く空飛ぶ金の車に乗り、他の神々も同様に車に乗ったり、獣の姿を取る従者の背に跨ったりしました。夜の神界を五人の神が行き、エウィの金の車の轍が光となって闇の空に美しい軌跡を残しました。
 やがて彼らは神界から人界へと界を越えました。
「なんてこと!」
 人界に下りるや否や、神々は異口同音に驚嘆の声を上げました。ラライの言ったとおりでした。精霊たちは皆、取り乱し、我を忘れ、暴れ狂っていました。暗闇の夜はごうごうと吹き荒れる風で、目を開けているのも困難なほどでした。衣服も髪もあっちこっちからもみくちゃにされ、金の二輪車の手綱も翻弄されました。
「どうしたというの、愛すべき数多の精霊たち!人界の自然の摂理を司る者たちよ!わたくしの声をお聞きなさい!」
 エウィはそう叫びましたが、すっかり理性をなくしてしまった精霊たちには、その声すら耳に届いていないのでした。
「聞こえるか、彼らは嘆いている!」
 トスクスが叫びました。彼の言う通り、精霊たちは大荒れに荒れながら、歌をうたっているのでした。


  ああ、ああ、哀しい日よ!
  純白の穢れなき乙女は、我らとの約束を違えんと欲した!
  なんというこの哀しみ、なんというこの怒り!
  おお、神の娘ニーロニィよ、麗しきウィシュよ、可憐なるメイリスよ、
  この運命を呪わずにおられようかや、
  我らは神の娘を愛していた、愛していた!
  それなのに、ああ、乙女は我らを欺きたもうた!


「神の娘!」
 その名を聞きとがめ、物静かな性質のユースラティが、珍しく大声を上げました。しかし声を上げたいのは彼ばかりではなく、皆それぞれに動揺しました。精霊たちは普段、密やかな笑い声を上げたりはしますが、このように歌をうたうのは稀なことなのでした。


  精霊よ、精霊よ!
  何をそんなにも嘆いているのだ、
  このように荒れ狂い、無慈悲な嵐で我ら神々の頬すら叩き!
  神の娘がこの人界にいるというなら、そこへ導いておくれ!
  そしてお前達の嘆きのわけを我らにも教えておくれ!
  我らはお前達の味方なのだから!


 ランターヤが精霊たちの歌に、歌で返しました。すると滅茶苦茶に吹き荒れていた風は、ひとつの方向に向けて流れ始めました。神々はその流れに乗って空を行きました。
 風は神々を、ある湖へ連れてきました。
 驚いたことに、濁りきり水位を大きく変えた湖の畔に、大きな爆発の痕がありました(少なくとも神々の目には初め、そう映りました)。
 そしてその中央に、一組の男女の姿がありました。
 男女のいる場所だけは、見えない何かに護られる様に嵐が避けて通っていて、降りていくと、神々も吹き荒れる風から解放されました。
 女は信じられないものを見るように、蒼白な顔で座り込んでいました。それを男が抱き込むように支えていました。人の男に抱かれているその女こそ、他でもない神の娘ニーロニィなのでした。
 尊き乙女に人の男が、あまりにも親密に身を寄せている様を見て、神々は精霊たちの嘆きのわけを知りました。まさかとは思いましたが、他に考えられませんでした。あまりのことに打ちひしがれましたが、立ち尽くしている間にも精霊たちの嘆きが人界を荒らし傷つけていました。
 一番冷静な時の神ユースラティが真っ先に我に返りました。
「エウィ、きっと今頃、貴女の有能な助手らが神界の窓でこの様子を知り、白の館へと使いを遣っているでしょう。貴女は貴女の力を揮い、精霊たちを鎮めるのです。ランターヤ、貴殿の歌がそれを助けるでしょう。そして嵐が収まれば、トスクス、技の神の加護を地の民に授けてやって、彼らが復興を叶えられるようにしなければ。ニルノ、パシュミア、我らは神の娘を護り、その者に事情を聞くことにしましょう」
 その者、と言われた黒髪の男は、大罪を犯したにも関わらず取り乱した様子もなく、茫然自失といった体の神の娘に当たり前のような顔で寄り添っていました。
 目の前に恋の神ニルノと美の神パシュミアが立ちました。
「お聞き、人の子よ!我が名はニルノ、恋の神ニルノ。お前は人の子でありながら、恐れ多くも神の娘の神聖を穢した。お前の恋はわたしが許したものではない。恥を知るが良い、神をも自分のものに出来ると思い上がった痴れ者!」
「我が名はパシュミア、美の神パシュミア。人の子よ、神の娘は返してもらいましょう。その美しさにお前が心惹かれるのは当然の理、しかし、この世には許されることと許されぬこととがあるのです。お前もまた美しい男だが、だからと言って神を手に入れようなどと、その罪は責めても責めたりぬほど。もうこれ以上一瞬たりと、お前が神の娘に手を触れることは許しません」
 男はそう言い放たれても怯える様子すら見せず、ただ静かに神の娘の肩をそっと抱いていました。ふたりの女神は男の動じないのにむっとして、何も考えられずにいる様子の神の娘を奪い取りました。抵抗はありませんでした。
 ふたりは神の娘を気遣いながら立たせ、慈しむように身体を包み込みました。
「ああ!気を確かに持つのです、神の娘!大丈夫、何も心配は要りませんよ」
 パシュミアはそう言って神の娘を気遣いましたが、ニルノははっとして乙女の顔を見、そして愕然として、未だ膝をついたままの男の顔を見ました。
「なんてこと!」
 突然に恋の神が叫びました。そしてそのまま気を失って倒れてしまったので、すぐ傍にいたパシュミアも、精霊に呼びかけていたエウィも歌い手ランターヤも、その様を見て、ぎょっとしました。
「大丈夫、おふたりとも、今は精霊たちを頼みます!」
 ユースラティとトスクスが崩れ落ちたニルノを抱き起こし、ふたりに向かって叫びました。風の神と音楽の神は倒れた友を気にしながらも、精霊たちを鎮めるべく力を尽くすことにしました。
「ニルノ、ニルノ!……ああ、理解できぬことばかりが起こる!おい、時の。お前の力を使い、起こってしまったこれらの出来事をすべてなかったことにして、再びやり直すことは出来ないのか」
「そのような重大なことには、始まりの神のお許しがなければ。私の一存で行える範疇を越えています。私の仕事は時の流れが狂わぬよう管理することですから、本分に反します。それに、もし後々、時を戻すことになるなら、今すぐでなくても同じことですよ」
 言いながらユースラティはニルノをトスクスに任せ、人の男に歩み寄りました。
「罪人よ。犯した罪の重さは理解しているか」
 時の神に冷ややかに見下ろされても、男は怯むこともなく真っ直ぐに見つめ返しました。
 先ほどの美と恋の二神にしてもそうでしたが、人の子であれば畏れ平伏して顔も上げられぬであろう者を前にしながら、その肝の据わった有り様はいっそ見事なほどでした。
 さあ、この人の子とも思えぬ人の子を、いったいどうしてやろうかと、神々が思ったそのときでした。
「───…!」
 人の男が何か言おうと口を開きかけたのを遮るように、稲光にも似た強烈な光が閃いて、一瞬にして世界を支配しました。
 ただ稲光と違うことには、閃いただけでなく、そのまますべてを真っ白に染めてしまったのでした。


  ───罪人よ、聴くが良い


 天と地が一度に震えたような、威圧的で恐ろしく、且つ温かく慈愛に満ちたようにも聞こえる声が響き渡りました。
 始まりの神でした。


  ───愚かしく哀れな罪人よ
  ───そなたの罪は法で裁けず
  ───死を持ってして償うことも叶わぬ
  ───しかし慈悲の心をもって
  ───申し開きを許そう
  ───そなたの誇りを護るが良い
  ───白き美しき我が所で
  ───そなたを待とうではないか
  ───神々よ
  ───人の子と我が娘を
  ───我が前に連れてまいれ


 その声が夢か幻のように遠ざかり、真っ白い光が消えたとき、精霊たちはすっかり理性を取り戻していました。あの大嵐が嘘だったように何もかもが穏やかになり、遠く彼方に夜明けが訪れました。
 ごうごうと唸りをあげていた暴れ風はそよ風に、暗雲に覆われた空は本来の色を取り戻し、凶暴に荒れ狂い氾濫した川の水も嘘のように引いていき、何事もなかったかのように静かな朝となりました。
 しかしそれが夢でなかった証には、無残に薙ぎ倒された樹木や、水が飲み込み押し流したあらゆる残骸、落雷の跡、山崩れの跡などの悲惨な数々の傷が、朝日を浴びて皮肉にもきらきらと輝いているのでした。
 神々も人の男も声を失って呆然としましたが、そのうちにパシュミアに支えられていた神の娘が腰を抜かしたように地べたに崩れたと思うと、がたがたと震えだしました。
「わたしは……このような……人界をこんな酷い有り様にしてしまうなんて……なんという、なんということを……」
 遠く彼方に幾筋も煙の昇っているのが見えました。人の都も無事では済まなかったのでした。河に飲まれた都も、土や岩に襲われた都も、炎に舐められた都も、海に喰われた都もあるだろうことは、想像に難くありませんでした。
「貴女のせいではない、神の娘よ。人界を愛する心優しい貴女にとっては、余りにも辛い結果となってしまった。が、あまり自分を責めてはいけない。すべての罪はその男にある」
 トスクスがそう声をかけましたが、神の娘は震えながら首を振って、いいえ、いいえと繰り返すばかりでした。神々は顔を見合わせましたが、兎も角は始まりの神の思し召しの通り、ふたりを神界へと連れて行くことにしました。



 神々が去った後、泥の中から身を起こした者がありました。
 スファティでした。
 ぐっと腕を突っ張って伏した身体を持ち上げ、口の中に入った泥水を吐き出しました。全部を吐こうとすればするほど、水分ばかりがなくなって、粘膜に残ったじゃりじゃりの粒が不快でした。
 一体、何が起きたのか、スファティには訳がわかりませんでした。
 世界などなくなってしまえばいい───そう聞こえた途端、世界中から、爆発のような強烈な悲鳴が上がった気がして───覚えているのは、それだけでした。
 辺りを見回すと、空ばかりは美しい晴れの朝といった風情でしたが、大地はまるで激しい竜巻の通り過ぎた後のように、滅茶苦茶でした。
 スファティは、上体を肘で支えて、のろのろと辺りを見回しました。それから、すっと息を潜めて耳を澄ますのに似た仕草をしました。
 しばしそのままで止まっていましたが、やがてゆるりと頭を振り、額に手を当てて、深く息を吐き出しました。
 ぐいっと腰から横を向き、勢いのまま仰向けに倒れました。びたっ、と背中で泥が音を立てました。
 わかったのは、ただ、一緒にいたはずの兄と女は見当たらなくて、人狩人らしき気配も近くにはないという、それだけでした。否、いないのか、察することができないだけなのかは、スファティに判断できることではありませんでしたが。どのみち、今、人狩人のいるのを知ったところで、逃げられる身体でないのは確かでした。
 たぶん、と、スファティは心で呟きました。
 たぶん自分は、一族についても、この世界という規模でも、核心に近い部分に関わってしまったのだ、と思いました。あの時は必死すぎて、よくわからなかったけれども───今になって鳥肌が立ちました。
 朽ちた集落跡だったはずの場所で、視界を空だけに明け渡しながら、スファティは静かに泣きました。
 スファティの触れたものは、この少女の手に負えるものではありませんでした。そして、敬愛して已まない兄が、絶対に越えてはいけないはずの大河の向こう岸へ行ってしまったのだと、否応もなしにわかってしまいました。
 青空に、ふと、小さな陰が映りました。上空を旋回してこちらへ降りてくるそれが自分の相棒だとわかると、少女は涙を拭って顔を引き締め、この先の算段を考え始めました。



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2011.05.23 公開