異界を渡る物語 第一章 第二十四話



 白の神殿は別名神の臥所といって、始まりの神の住まいにして、その存在の象徴でもありました。人界で言う大理石にも似た質感の、しかしそれよりもずっと滑らかで美しい神石で造られており、中へ入るとすぐ、壁にも柱にも天上にも、荘厳な、誰もが息を呑むような美しい彫刻が施されていました。小広間の四方の壁から天井にまで至る浮き彫りは瑞々しい神々の姿で、思わず呼吸をしてはいないかと確かめたくなるような見事なものでした。豊かな表情、活き活きとした仕草、身に纏った衣の柔らかく流れるような襞(ひだ)までも、生きていないのが不思議に感ぜられるほどの素晴らしい業でした。そしてそれは新たな神が泉から誕生すると自然に構図が変わり、初めからそうであったかのように仲間に加わっているのでした。
 しかしその中に始まりの神の姿はありませんでした。神は何人(なんぴと)にも姿を見せることなく、平穏無事である限り沈黙を守っていて、有事の際はその意思や力のみを示しました。そのため数多の神々でさえ始まりの神がどのような顔をしているのか知らず、神が沈黙していることを眠りと表現し、神殿を臥所と呼んだのでした。
 神殿の最奥には神の間があると言われていました。そして始まりの神はそこにおわすのだと神界の誰もが知っていました。しかし神の間の中へ入ることはおろか、その扉を目にすることでさえ、未だ為しえた者はいませんでした。というのも、神殿の内部は一本道の回廊がひたすら続くばかりで分かれ道も何もなく、かと思うと歩いているうち万華鏡を回すように不思議に景色が変わってしまって、引き返すことも出来なくなり、そうこうしているうちにいつも決まった扉の前に辿り着いているという、己の意思ではどうにもならない性質の場所なのでした。更には招かれざる者であった場合、入り口の前に立っただけで何故か心挫かれて足を踏み入れることも叶わなかったり、今入ってきたばかりの入り口が目の前にまた現れてすぐに外へ出てしまったりして、まったく思い通りにならないのでした。
 神に許された場合、その者は必ず決まった扉の前に導かれました。扉の向こうには、謁見の間がありました。しかし、謁見、と言いつつ、そこに神が姿を現すことはありませんでした。神の存在は間違いなく感じるものの、与えられるのは言葉のみで、目には何も映らないのでした。その顔(かんばせ)を拝してみたいという憧れがどの神々の胸にもありましたが、必ずいつも姿なき声との謁見に止まるのでした。
 更に、謁見の間には、いくつもの違う顔がありました。過去に神との謁見を果たした神々のうち、ある者は金銀宝石で彩られた豪華絢爛な広間だったと言い、ある者は透明な結晶に囲まれた洞窟のような場所だったと言い、またある者は巨大な樹の洞の中だったと言いました。同じ場所が姿を変えているのか、全く異なる場所へ誘われているのか、それは神のみぞ知ることなのでした。
 さて、ここに、もうひとつ、存在を知られていながらも滅多なことでは訪れる機会のない部屋がありました。
 裁きの間、でした。
 裁きの間は巨大なすり鉢を半分に割ったような形をしていました。断面の真ん中より少し下のあたりに、橋桁つきの匙を差し出したような被告席があり、階段状の席の最上段が進行役を務める審理の神の席でした。一段下には、事件に関わりの深い神の席が、次いで数多の神々が着き、その更に下には、従者たちの席も用意されていました。当事者たる者に関わりのある従者の中から呼び出された者と、無作為に選ばれた者たちとの席が設けられていたのでした。
 その場に居る者には、神々は無論のこと従者たちにさえ、すべて発言が認められていました。挙手し、身分と名を名乗れば、思うことを自由に言える規則になっていました。被告の味方になる者も敵になる者も、また被告本人も、思うままに意見し、それを皆で審議するのでした。
 今、その滅多なことで開かれない扉が、神の娘と人の男の為に開かれるという、神界の誰もが想像すらしなかった事態が起こっていました(もっとも従者たちの多くはまだ内容を知りませんでしたが)。
 正面には審理の神ヴィーギルがいかにも厳粛な雰囲気を保ちながら鎮座し、その両側には左に風の神エウィ、音楽の神ランターヤ、時の神ユースラティ、右に技術の神トスクス、美の神パシュミア、そして恋の神ニルノが着席していました。
数多の神々の下方、従者たちの席には大勢に混じってラハトハス、プレアスタン、エルシル、ファルニエルの姿がありました。それぞれに複雑な面持で口を閉ざし、開廷の時刻を待っていました。
「時は来た。裁きを待つものよ、これへ参れ」
 やがて審理の神ヴィーギルが、威厳に満ちた、清らか且つ雄雄しい声でそう宣言すると、重厚な扉がゆっくりと開かれました。
 一斉に目が集まったそこには、いつも通り純白の衣を纏った神の娘が、背筋を伸ばし凛として立っていました。そして後ろから黒髪の男が進み出て隣に並ぶと、互いに目で頷きあい、二人してゆっくりと、しかし迷いなく被告席へ向かい足を踏み出しました。
 一同は騒然としました。開廷するまで罪状などは何も知らされない決まりになっているので、まさか神の娘が被告席に着こうなどとは思いもよりませんでした。
 神の娘の従者達がこの場に呼ばれていることから、あの乙女の身に何かあったのだろうと予測することは出来ましたが、誰もが乙女を被害者と思い、その身を案じていました。それはあの時居合わせた神々も同じことで、エウィとランターヤは目を見合わせ、ユースラティは眉をひそめ、パシュミアは目を見開き、トスクスはむうと唸りました。青天の霹靂とはこのことでした。しかし、誰もが驚きを隠せず思わず立ち上がりかける者さえいる中で、恋の神ニルノは黙って着席したままじっとふたりを見つめていました。
 一方、神の娘の従者たちの受けた衝撃もまた、計り知れないものでした。従者筆頭ラハトハスは、ふたりの姿を目にし、慄然としました。
 昨夜、美と風の神に付き添われて白の館に戻った乙女はかつて見たこともない打ちひしがれた様子で、ことの詳細を訊ねるのも憚られ、結局のところ何が起こったのかは何も知らされませんでした。そうしているうちに審理の神の使いより、裁きの間への召喚状が届けられ、あれよあれよという間にことここに至ったので、ラハトハスはまさか己の主が被告として現れようとは夢にも思っていませんでした。
 更に驚くべきはそれだけでなく、主の隣に並ぶ男の顔には見覚えがあったのでした。否、正確に言うならば、男の目に見覚えがありました。主と共に降り立った地上で見た瞳でした。今はあの時のようにぎらぎらと燃え滾るのではなく、落ち着いた光を持っていましたが、それでも溶岩が表面は冷やされても内部では真っ赤になっているように、穏やかさの中に情熱を内包していることを見る者に悟らせてなお余る力強い瞳だったので、決して見紛うことはありませんでした。
 ラハトハスは悟りました。ある仮定を思い浮かべると、この一月ほどの間のことといい昨夜のことといい辻褄があってしまうという、気づきたくなかった事実に気づいてしまいました。そして深い後悔と自責の念に駆られました。
 主を唆したのがあの男にしろお祭りプレアスタンにしろ、あるいは白の乙女自らが道を外れて行ったにしろ、いずれにせよこのような事態になってしまったことは、すべて自分の落ち度であると感じました。なぜこのような事態に陥る前に何とかできなかったのかと、周囲のざわめきをよそに、ひとり血の気の引いた青い顔で拳を握り締めていました。
 一方エルシルは、思わず腰を浮かせて主と男とを見、目を細めて口元を片手で覆いはしましたが、そのまましばし乙女を見つめ、やがて再び腰を下ろしました。
 隣にいた同じく神の娘の従者が動揺を隠しきれない様子で縋り付いてきたので、
「大丈夫、我らが主をご覧なさい、あの尊く美しいお姿を。主は何も変わってはおられません。主はあなたの知る主であり、私の知る主です。たとえ何が起ころうとも、主ニーロニィは誇りと輝きを失うことなどないのですよ」
 と、柔らかく諭しました。すっかりうろたえていた若い従者は、それを聞くと落ち着きを取り戻し、エルシルに倣って腰を下ろしました。背高のっぽはそれを見て再び主の方へと目を戻しましたが、乙女の歩く姿の中に不安げな色を感じて、心を痛めました。
 すっと伸びた背筋、上がった顎、引き結ばれた唇、審理の神ヴィーゲルに向いて逸らされない視線、厳かな堂々たる歩み、それらはどれを見ても強い態度に他なりませんでしたが、その内に潜んでいる不安や恐怖を、エルシルは敏感に感じ取りました。
 エルシルには、今回のことについて、ある程度の予測がありました。それは、ラハトハスに協力して調査をしたことと、乙女の帰還のための準備の際にファルニエルから聞いた話とで導かれたものでした。しかし、その予測の中に、人間の男の存在などは、影もありませんでした。思っていたよりも、事態はずっと重いかも知れない───。
 その身に何が起こったのか、それは与り知らぬところでしたが、乙女が納得の上で自ら被告としてこの場に現れたこと、そして覚悟を決めてはいても心で恐怖と戦っていること、それだけは感ぜられました。愛すべき白の乙女の痛ましげな、健気なその佇まいに、この後どのような罪を告白されようとも全身全霊を捧げ神の娘を護ろうと心に誓いました。また、神の娘が神の娘である限り、何も心配することはないのだ、自分はただ乙女を慕い、信じ、どこまでもついてゆくだけなのだと、改めて悟ったのでした。
 年若いファルニエルは、裁きの間の一種異様な雰囲気に飲まれて、口と胃の辺りを押さえて俯いていました。ここへ入ってきてからというもの、ずっと苦しくて、顔も上げられませんでした。吐き気になる寸前の重い靄が腹の中でぐるぐると渦巻いていました。隣に座った者の顔すら確認できないほどなのを、ずっと耐えていましたが、大きなざわめきになんとか顔を上げました。迫り出した被告席に白の乙女を見つけると、陸に上げられた魚のように息が出来なくなってしまって、眩暈を起こしました。身体が傾いだのを、隣にいた何某かに助けられました。
「大丈夫かい」
「………はい。……すみません」
 目を閉じ、手を借りて、背凭れに体重を預けました。
「神の娘ニーロニィの従者、か」
 納まらない騒がしさの中、隣の従者が尋ねました。はい、と答えたつもりが声は出ず、小さく頷いて、その意を表しました。
「どうも大変なことになったようだけれど、気をしっかり持つんだ。この場に立ち会えることは、君にとって幸運に違いない。さあ、頑張って」
 そう言われてみれば、なるほど、後になって結果だけを聞かされるよりよほど良い、という気がしてきました。肩を叩いた名も知らぬ従者に、ありがとう、と、言おうとしたものの、やはり声には出来ず、小さく頭を下げて礼に代えました。
 その頃プレアスタンは、腕を組んで黙ったまま、騒然とする裁きの間の様子を観察していました。被告席のふたりの姿をしばらく見つめた後、神々の方へと目をやり、一通り眺めてから従者の席へと目を転じました。
 まず背高のっぽが目に付きました。隣に座った従者に何事か話して落ち着かせてやっているところでした。見知った姿を他に探すと、顔面蒼白になってがちがちに身体を硬くしているらしいラハトハスが目に飛び込み、更にはファルニエルが気を失いかけて介抱される場面を目撃しました。三者三様の、いかにもそれらしい反応に、微かに苦笑を浮かべると、その仕草がすぐ横で立ち上がっていた血気盛んな従者の目にたまたま留まったようでした。
「君は何をそんなに落ち着き払って……その上、笑うとは何事だ!」
「まあまあ、そう騒ぎなさんなって」
 苦言を呈したのを軽い調子であしらわれた従者が、いよいよ食って掛かろうとしたところを、プレアスタンは手で制しました。
「いいから落ち着け。開廷してもいないうちから頭に血を上らせてどうする。まだ被告席にいるというだけで、罪状も何も明かされちゃあいないんだ。ああだこうだ騒いだってどうにもならんだろ。それとも何だ、あんたは白の乙女の有罪を確信していて、だからそんなに取り乱してるって?」
「そ、そんなわけがあるか!」
「───静まりたまえ!」
 ちょうどプレアスタンたちのやり取りを遮るように、ヴィーギルが一喝しました。ふたりが被告席についたのでした。
 ざわめきは水を打ったように静まりました。
「……我は審理の神ヴィーギル。正と負の理を知り、光と闇の掟を携え、真と偽を見抜き、善と悪を見極める者」
 張り詰めた静寂の中、ずっしりと低く重い威厳に満ちた声が響きました。
「ここに開廷を宣する!裁きを待つ者よ、礼に則り名乗るが良い」
 神の娘が一歩足を踏み出し、神界式の挨拶をしました。
「わたしの名はニーロニィ、神の娘ニーロニィ。始まりの神の掌より出でて神の座に名を連ねる者」
 乙女の、落ち着いた、しかしやや硬いその声は、皆の耳に確実に届きました。大声を上げたわけではなくとも、この場所はそのようになっているのでした。
 次いで男が名乗りました。
「私の名はルーウルアウド。地上の民、父レオシアと母イーベルウェーンの子」
 居並ぶ神々の前に、たったひとり人の子の身でありながら、それでもその名乗りようは堂々とし、すこしも怯んだ様子はありませんでした。神々や従者たちの幾人かはその姿に感嘆しました。
「では神の娘ニーロニィ、そしてレオシアとイーベルウェーンの子ルーウルアウドよ、その罪、自ら申し述べるがよい」
 ヴィーギルの、何もかもを見透かすような氷の瞳が、ふたりを見ました。ルーウルアウドが一歩前へ出ようとすると、乙女がやんわりとそれを制しました。一同は固唾を呑んで見守りました。
「わたしからお話します。この役目にはわたしがふさわしいでしょう。わたしたちがこの場へと召されたのは、昨夜、精霊たちが人界をめちゃくちゃに荒らしてしまったから。そしてその原因がわたしたちにあるからです。突き詰めれば、つまり……わたしが愛を知ったために」
 多くの者が息を呑む気配がしました。
 しんとした中、乙女は背筋を伸ばして軽く手を握り、一言ずつ確かめるようにゆっくりと話し始めました。
「わたしは月の一巡りと半分ばかり以前、地上においてルーウルアウドと出逢いました。人界の視察の折り、彼の危難にたまたま居合わせたのです。矢を射掛けられた彼の命を救って神界へ戻りましたが、どうしても再び会わねばならない気がして居ても立ってもいられなくなり、こっそり神界を抜け出して彼を訪ねました。そして地上で再会したわたしたちは恋に落ち、人目を忍んで逢瀬を重ね、ついには愛の悦びを知ったのです」
 そこに含まれる意味を感じ取った者たちが愕然としました。あまりのことに声にならなかった驚きと嘆きの震えるような吐息が、あちこちから聞こえました。
「夜ごと白の館を抜け出して人界へと降りました。精霊たちが騒ぐといけないと思い、世界を切り取り、存在を断ちました。精霊たちの目を欺き、世界から姿を晦まして密かに逢うことを繰り返しました。そして、最後には……神界を捨てることを決意しました。ルーウルアウドと共に地上に生きようと思いましたが、思うとおりにいかず、つい、世界などどうでも良いと口走りました。それを聞いた精霊たちが、怒り、暴れ、人界を引き裂いてしまいました」
 あまりのことに、誰もが瞬きすら止め、時の流れているのを忘れたほどでしたが、直後、静かな水面に一滴の雫を落としたように、たちまち動揺が広がりました。
 ヴィーギルは咳払いをひとつしてから、
「昨夜の出来事とやらを、詳しく説明できる者は?」
 神々の証言を促しました。
「わたくしは昨夜、いつものように宴を催して、楽しく蜜酒を嗜んでおりましたわ。ランターヤ、パシュミア、ニルノ、トスクス、それにユースラティを招いていました。そこへ人界で何か起きていると知らせがありましたの」
 立ち上がったエウィがそう言うと、次いでランターヤが起立しました。
「我らは皆、人界へ赴きました。精霊たちが荒れ狂い嵐を巻き起こしていたので、私が歌をもって彼らの話を聞き、白の乙女が人界にいることを知りました。案内を請うて乙女の元へ向かうと、彼の方は人の男とともにあったのです」
「精霊たちは何と?」
「……ああ、ああ、哀しい日よ。純白の穢れなき乙女は、我らとの約束を違えんと欲した。なんというこの哀しみ、なんというこの怒り。おお、神の娘ニーロニィよ、麗しきウィシュよ、可憐なるメイリスよ、この運命を呪わずにおられようかや、我らは神の娘を愛していた、愛していた。それなのに、ああ、乙女は我らを欺きたもうた──そう歌っていました」
 ざわりと空気が震えました。誰もが驚きと悲嘆の息を漏らしました。
 その余韻が消えないうちに、トスクスが続きました。
「駆けつけた我々は乙女を取り戻し、その男に対面した。が、その態度は不遜極まりないものだった」
 その言葉を受けて一斉に視線が、それも嫌悪や憎悪を多分に含んだ視線が、ルーウルアウドに集中しました。
「いいえ!彼はただ、逃げも隠れもせず、堂々としただけです」
 本人は顔色を変えませんでしたが、反論しない男を庇って乙女が矢面に立ったために、ルーウルアウドへの目がいっそう険を帯びました。
「神の娘よ、そなたの言い分は、改めて聞こう。技の神トスクスよ、して、乙女を取り戻した後はどうなったか」
 ヴィーギルの言葉が皆の注意を引き戻しました。
「始まりの神がお出ましになり、お言葉を下された」
「どのような言葉か」
 確か、と、トスクスが思い出そうとしているうちに、ユースラティがそれを補い、神の言葉をそっくり諳んじてみせました。
「審理の神よ、ここは私が。───愚かしく哀れな罪人よ、そなたの罪は法で裁けず、死を持ってして償うことも叶わぬ。しかし慈悲の心をもって、申し開きを許そう。そなたの誇りを護るが良い。白き美しき我が所で、そなたを待とうではないか。神々よ、人の子と我が娘を、我が前に連れてまいれ───。神はそう申されました」
「そう、その通りだ。そして我らは神の娘と人の男を、神界へと連れ帰った」
 その場に居合わせた神々が頷きあいました。と、そのとき、
「……そう言えば」
 美の神パシュミアがふと思い出したように口にしました。
「ニルノ、恋の神。貴女はあの時、突然気を失ったわ」
 おお、なんと、と、驚きの声が神々の席からも従者たちの間からも上がりました。神が意識を手放すなどということは、そう起こるものではないのでした。
「恋の神よ、それはいったい何ゆえのことか」
 ヴィーギルに問われ、注目を浴びたニルノは少々複雑そうな表情をしました。
「そのことですけれど……審理の神、どうか先にあのおふたりの話を聞いて頂けない?やましい理由から言っているのでないことは、おわかりのはずでしょ」
 裁きを司る神は、ニルノをぎろりと睨みました。その見透かすような目で射抜かれると、心に邪な何かがある者は忽ち竦みあがって、洗いざらい懺悔したい気持ちになってしまうものでしたが、ニルノは曇り顔ながらも平静なままでそれを受けていました。
「よかろう。申し開きを許すと、神はそう宣うたのだったな。ならば改めて発言を許そうではないか、被告よ」
 再び皆の視線が匙の上のふたりに集まりました。
「感謝します、ヴィーギル。聞いてください、神々よ、そしてその従者たち」
 神の娘が進んで声を上げました。胸に手を当て、切々とした訴えが始まりました。
 神々も従者たちも、乙女の言葉を一言一句聞き逃すまいと、痛いほど耳を澄ましていました。その張り詰めた空気の中に、澄んだ声が反響しました。
「わたしと、このルーウルアウドは、神と人、種族を超えて恋に落ち、愛し合いました。けれどもそれは決して悪行などではなかったと、わたしは信じています。……正直に申し上げます───わたしは今も、そのことに限って言うならば、悔いていません。たとえ禁忌だったとしても、わたしにとって、この上ない喜びでした。そしてそれは地上の民ならば誰もが持ちうる幸せなのです。どうして神がそれを知ってはならないのでしょう」
 その主張は、良くも悪しくも、衝撃的なものでした。
 ラハトハスを始めとした神の娘の主だった従者たちは、あるいは理解力から、またあるいは経験から、今の言葉をほぼ乙女の本意の通りに聞き取ることが出来ました。つまり、人界に被害を出してしまったことは悔いているけれども、愛という心を知ったことは悔いていない、という意を汲み取れたし、更に、その先にある行為が禁忌とされていたことを知らなかった、ということも受け止められました。もっと言えば、そもそもそういった感情や行為の存在すら初めて知ったことで、未知のものを全く無垢な感性で捉えているのだというように解釈することも出来ました。
 しかし初めから掟を破ることなど想像も出来ない者たちにとっては、図らずもそれは、禁忌を犯して何が悪い、と開き直ったように聞くことも出来る言い回しになっていました。そのことに限って、という言葉が具体的に何を意味するのか、幸せを知るという表現が肉体的であるのか精神的であるのか、ともかく圧倒的に言葉が足りませんでした。
 雲行きが怪しくなってきました。
「ルーウルアウドはわたしに素晴らしい感動を与えてくれました。愛とは忌まわしいものではありません。むしろ、なぜ今まで神々がそれを知りえなかったのか、そのことが不思議でならないのです」
 だんだんと、聞く者たちの顔に困惑の色が広がり始めました。不安げにちらちら隣と目を合わせたり、信じられないという顔をしたりする者が続出しました。
 ラハトハスは、予てから乙女が地の民に興味を覚えていたことを知っているだけに、歯噛みするような思いでいました。日ごろからの思想が色濃く現れすぎた、非常に受け入れられ難い、不利な弁論が目の前で展開されていたからでした。
 もしもこの場で、禁忌であるとは知らなかったのだともっと明確に発言し、その上で愛というものについて語るのであれば斟酌もされようものを、如何せん、真意はどうあれ、初めに、悪行ではなかったとか、悔いていないなどという表現をしてしまったばかりに、聞き手の耳がおかしな方へ向いてしまっているのでした。
 平素であればそれに気づかない神の娘ではないだろうに、何とか受け入れられようと必死になるあまり、反対に周りが見えなくなっているのは明白でした。だのに聴衆にはそのことも理解されていませんでした。そうとわかっていながら、見ていることしか出来ないラハトハスには、歯痒いことこの上ない状況なのでした。
「彼と愛し合うとき、わたしは生まれたことを、生きていることを、幸福に思いました。はじめて自分の生命を愛おしく思いました。他の何者でもなく、自分の、です。愛を知らず、人を知らなければ、きっとそんな感情は抱かなかったことでしょう」
 エルシルもまた一見落ち着いていながら、内心では手に汗握る思いでした。
 乙女が一所懸命に人の男を守ろうとしていることは、間違いありませんでした。ルーウルアウドを少しでも罪から遠ざけるために、必死に理解を得ようと努力している主の心を、背高のっぽは余さず汲み取っていました。しかしその思いが空回りするのを目の当たりにして、心底はらはらとしていました。
「わたしは、もうずっと以前より、人の世界や、人の生き方を深く知りたいと望んでいました!人は賢く、逞しく、素晴らしい生き物です!わたしはもっと人と交わりたかった……彼はそれを叶えてくれたのです!」
 乙女は思わしくない反応に気づき焦りを覚えたのか、身を乗り出すようにして声を高くしました。
 腕を組んで成り行きを見守っていたプレアスタンが、ひとり、あちゃあ、という顔で額に手を当てました。
 その時でした。
「見苦しい言い訳は、そのあたりで止したら如何です」
 思いがけず、乙女は背後から声をかけられました。乙女は驚いて振り返りました。するとそこには、不快げに目を細めているルーウルアウドの姿がありました。
 ここまでずっと沈黙を守っていたルーウルアウドが、漸く口を開いたのでした。
「審理の神よ。発言をお許し願いたい」
「……良いだろう、人の子よ。話を聞こう。そなたは神の娘の言葉が間違いであると言うか」
「間違ってはいないでしょう。が、充分でもありません」
 ヴィーギルの問い掛けに、神の娘を押しのけるようにルーウルアウドが前へ出ました。揺れていた皆の意識が、槍のように人の男に集中しました。
「訂正しましょう……私が彼女と恋に落ちたのではない。彼女が、私に、一方的に恋心を抱いたのです」
 ルーウルアウドの背中の辺りに視線を彷徨わせていた神の娘は、思いもよらない言葉を聞いて、弾かれたように顔を上げました。
「それを愛し合ったなどと……私はただ、従ったに過ぎない。神に乞われて、どう断れるというのです」
 尊大とも言える態度で台詞を吐き捨てると、冷たい目でちらりと肩越しに神の娘を振り返りました。目があって、乙女はぎくりと身を強張らせました。
 再び向き直った人の男は、審理の神から順に、呆気にとられる神々や従者たちまでを見回しながら続けました。
「私は神界の方々の掟は存じ上げませんが、神と人の交わりが禁忌であろうということくらいは想像がつく。ですから何度もお諌め申し上げたが、聞く耳も持たず……ついには罪を犯すに至ったのです。淫らにも肉欲に溺れたのは私ではない。このお方だ」
 音が聞こえるのではというほど一気に乙女の顔から血の気が引き、そのまま凍ったように動けなくなってしまいました。
「神の娘ともあろうお方が、このような薄汚い阿婆擦れだったとは思いもしませんでしたが、はしたなくも繰り返し強請ったのは彼女の方だ。世界から存在を断ったのも彼女の一存で、精霊がどうとか、掟が何だとか……いわば私は被害者に他ならないのです」
 悪びれもせず男は言い放ちました。
「───罪に問うと言うのなら、その御方のみにして頂きたい」
 人の男の声が僅かに尾を引いて消えた後、裁きの間には一瞬の無音が訪れました。しんと痛いほど静まり返り、時の静止を見たようでした。
 そして沈黙から一転、どっと、怒声と熱気の嵐が巻き起こりました。地の民の信じられない言葉に、従者たちは文字通り黙っていられませんでした。神界の誇る乙女を侮辱されて、頭に血が上ったのでした。
 ヴィーギルが叫びました。
「言いたいことのある者は、礼に則り挙手をせぬか!」
 たちまち会場中で手が上がりました。ヴィーギルはそのうちのひとりを指し示して、名乗るように言いました。指名された者は真っ赤な顔で立ち上がり、吼えるように意見しました。
「神の娘に仕える者、ヤト!私は、断罪すべきはその男であると信ずる!───我らの乙女が禁忌を犯したというならば、それは嘆かわしく、心が引き裂かれるような思いです……しかしその男の言い分は聞くに堪えない!すべての罪を乙女に擦り付けて、自分は被害者であるなどと、いけしゃあしゃあと……あまりにも身勝手だ!今の言動からも予想することが出来ます、男は口八丁で乙女をかどわかしたに違いありません!」
 勇んで熱弁を振るった従者に、大きな拍手が贈られました。多くの者は同じ考えのようでした。しかし反論する者もいました。
「武の神カダンが従者、トラウ。地の民ルーウルアウドの言は、些か納得のいかない不愉快なものでした。けれども、乙女は仰ったのです、ご自分から進んで会いに行かれたと。無論、結果として地の民が乙女を穢したのであれば、大罪に他なりません。それは逃れようもない事実。ですが、だからと言って、ルーウルアウドに何から何まで罪を着せ、他のことに目を瞑ったのでは正義と言えず、裁きの神聖を汚すことになるのでは」
 途端にまた、あちこちから声が上がりました。
「神の娘より地の民の肩を持つのか!」「そういう問題ではない!公正な目で物事を見なければ……」「あの者は今、実際、乙女を罪人と呼んだのだ!」「違う!」「悪いのはあの男だ!」「我らが白の乙女万歳!」「地の民が悪いに決まっている!」「トラウは今の発言を撤回し謝罪すべきだ!」「裁きの間では自由な発言が認められている!」「ヤトに賛成!」
 従者たちは更にこぞって手を挙げました。
「美の神パシュミアに仕えるラーラエラです。我らの乙女は聡明なお方です。そうやすやすと、何者かの口車に乗ったりなさるでしょうか。少なくとも先ほどの乙女の訴えは、紛れもなくご自身の思想によるものとお見受けしました」
「農耕の神ラトラの従者、グーウィス!いずれにせよ、男は禁忌と知っていたのです。仮に彼奴の言う通りだったとしても、断固として拒めばこのようなことにはならなかった!下心があったに違いないのです!トラウの意見には賛同しかねる!だいたいが人の身でありながら、神の娘であらせられる白の乙女をあのように口汚く罵るなど、断じて許せるものではない!それだけでも十二分に罪なのです!禁忌と知ってなお、それを犯したあの男こそ断罪すべきだ!乙女には酌量の余地がある!」
 わっと拍手が起こりました。「そうだ!」といくつも賛同の声が上がりましたが、「論点をすり替えるべきではない!」「反対!」との声も上がりました。「グーウィス!」「トラウ!」と、支持する者の名が叫ばれました。
 すっかり白熱し、指名を待たず発言する者が続出して、とても厳粛なる裁きの間とは思えぬ有様に混乱しました。
 被告席の乙女はうろたえるばかりで、対照的に人の男はただ憮然としていました。
 神々は、もともと従者たちよりも発言に慎重で、聞き手に回っていましたが、その様子を見下ろして、眉を顰めたり呆れたように首を振ったり面白そうに眺めたり、あるいはお手上げだと肩を竦めたりしました。
「ええい、そなたら、わきまえぬか!」
 ついに審理の神も堪忍袋の緒が切れて、強硬手段に出ました。従者たちの声を、一時の間、奪ってしまったのでした。おかげで急に静かになり、思い思いのことを口にしていた従者たちは我に返って、先ほどまでの大音声の残響を聞くことになりました。
 しまった、と思ったのはラハトハスでした。強い自責の念に駆られた白狼は、密かに発言の機会を窺っていたのでした。誰もが自分の意見を主張することにばかり夢中になっているこの大混乱の中では、どんなに正しいことを意見したところで、次々と上がる声に埋もれてしまうのがせいぜいだと、白狼は考えていました。己の声を皆の耳に届くように聞かせるには、最も適切な時機に、最もわかりやすい言葉で、最も受け入れやすい名分を与えつつ発言する必要がありました。その為にまず言いたい者には言わせ尽くし、誰もが議論に窮したところで、皆の意見を酌んだ誰の矜持も傷つけない表現で話をすれば効果覿面であると考えて、その時が来るのを虎視眈々と待ち構えていたのでした。しかしヴィーギルの業により、その機会は訪れる前に失われてしまいました。
 思わず軽く眉を寄せたエルシルもまた、時を待っていたひとりでした。初めに発言してその後反論されれば、もう一度引っくり返すのは困難だとわかっていました。意見をぶつけてやりあうよりも、印象深い、強い言葉を最後の最後に発するほうがずっと有効であろう、そしておそらくラハトハスも同じく狙っているであろうと予想して、時を見てうまく連携する心積もりだったのでした。しかしこの展開は予想外で、この後いったいどうなるものか全く想像がつきませんでした。
 ふたりは互いに互いを見やる姿に気づき、唇を噛みました。
 と、そこへ、場違いな笑い声が響きました。
「───いやはや、神に使える方々とはどんなに清らかな聖人が揃っておいでなのかと思っていれば……野次に次ぐ野次の応酬、まことに恐れ入った!しかも、聞き捨てならないお言葉もいくつか……神界の方々は、地の民を地の民というだけで侮蔑しておいでか。なるほどそれなら、神の娘が神の娘であるというだけで妄信されていることに納得もいくというもの」
 またしてもルーウルアウドでした。くつくつと喉の奥で笑いながら、人の男は肩を竦めました。
「白の乙女はお幸せな方だ。大罪を犯しながらも、このように、ただ神の娘だというだけで愛され続けていられるのだから。尤も、もし罰として地上に落とされでもしたところで、ご自慢の美貌を売りに春を鬻げばいくらでも可愛がられて生きてゆけるでしょうが」
 ふたつの意味で言葉を失った裁きの間を支配するものは、もはや怒りではありませんでした。怒りよりも更に凶悪で、もっと根の深い、恐ろしい感情でした。
「……ラッダ?どうしてしまったの……?」
 顔を蒼白にして発された可憐な声は、弱々しく震えていました。
「どうもこうもあるまい。思い出して頂きたい……いいや、思い出せ。お前が俺に乞うたのが始まりだ。間違いなかろう。それとも、ここへきて己の身が可愛いなどと抜かすつもりか?ハッ、図々しい……そうだ、聞いているか、神々よ!」
 図々しい、と吐き捨てたルーウルアウドは身を乗り出し、大声を張り上げました。
「悪いのはこの女だ!俺はこの女に唆された!聞け、罪は全て、淫らなこの女にある!俺は何も悪くない!何もだ!」
 乙女は茫然自失といった態で、愛しい男の叫ぶ様を見、立ち尽くしました。唇が、ラッダ、と動きましたが、声を伴っていませんでした。呼吸が浅くなり、顔が強張りました。
「どうした、聞こえているのか!この女は売女だ、薄汚い罪人だ!さっさと罰したらどうだ……俺は無罪だがな!」
 乙女に向かって、この女、と呼ばわり、なじるように指差しました。
「いいか、間違えるなよ、罪人は俺じゃあない、この女の方だ!まさかお前たちも、この話がわからないほど無能の集まりという訳ではあるまいな!」
 ルーウルアウドは罵詈雑言を放ち続けました。裁きの間にいる者たちの憎悪という憎悪がひとりの男に向けられました。もしも従者たちの声が奪われていなかったら、審議場を揺るがす大音量が唸りを上げているはずでした。
 更には、先ほどまでは熱くなる従者たちを冷静に見守っていた神々でさえ、乙女に対する散々の悪口(あっこう)に加えて、自分たちにも侮辱の言葉が投げかけられたことで、だんだん顔色が変わってきました。
 それらの強烈な気の圧力に打たれたのはルーウルアウドよりも、むしろ乙女のほうでした。目に映るものが自分に向かって迫ってくるような気がして、愛しい男も、愛すべき神界の友らも、今度こそ本当に全て失ってしまったと思いました。
 しかし、その時。
 人の男が更に暴言を続けようとしたのを、遮った者がありました。
 パン、と乾いた音が大きく響き渡り、皆が一斉に音の元へ注目しました。
 そこには手を打った格好のまま立ち上がっている、金茶の髪に琥珀の瞳、お祭り男の異名を持つ従者の姿がありました。
「───プレアスタン……?」
 ハッとして呟いたのは乙女だけではありませんでした。その場で彼を知るものの誰もが、奪われた声でその名を口にしました。
 プレアスタンの唇が音を伴わないままヴィーギルに向けて何事か言葉を発すると、審理の神は「よかろう」と頷きました。声を戻したのでした。
「神の娘ニーロニィの従者で、お祭りプレアスタンと呼ばれている者です」
 名乗ると、プレアスタンは地の民をまっすぐ見つめました。
「……被告人ルーウルアウド。もういい」
 被告席に向かって語りかけたプレアスタンとルーウルアウドの視線が、はっきりと交わりました。
「あんたはさっきから自分ひとりが罪を被るつもりで、何とか矛先を己へ向けようと、心にもない悪口を重ねていたようだが、その必要はないよ。なぜなら、あんたがわざわざその役を買って出なくても、初めから罪人は別にいる。あんたの努力を台無しにして申し訳ないが、身を挺して庇うまでもなく、初めから乙女に罪はないから、どうか心配しないでもらいたい」
 両者真剣な顔をして、しばしそのまま目を合わせていましたが、先に逸らしたのはプレアスタンでした。固唾を呑む神々と従者たちへ向き直ると、胸を張って言い放ちました。
「白の乙女を唆し、禁忌を犯すよう仕向けたのは、このプレアスタンです」
 従者たちは今度こそ混乱しました。
 初めは乙女の告白に驚き、次は地の民の言い分に怒りを覚え、揉めに揉めたところへ今度は真犯人を名乗る従者が現れたのだから、二転三転する事態に誰もが目を白黒させました。
 しかしその言葉に誰よりも動揺したのは、他ならぬ神の娘でした。思わず前へ出て被告席の手摺から身を乗り出しました。
「そ、そんなこと……!何を言うの、プレアスタン!わたしは───…」
「我が主ニーロニィ!」
 言葉を遮って、従者が主を制しました。
「ご無礼をお許しください……しかし、まずは俺の──じゃなかった、私の話を聞いて頂きたいんですよ。もしも反論がお有りなら、後ほど幾らでもお伺いしますから。何せ、続きを聞きたがっている者が、ほら。こんなに沢山!」
 おどけた調子で両手を広げて見せました。その手の示すのは、神々、従者、裁きの間の階段状の席を埋め尽くしている多くの聴衆でした。
「いやあ、注目されるのには慣れてると思ってたんですがね。こりゃあ、ちょっと、すごいなあ。一世一代の大舞台ってやつかも……まあ、とにかくですよ。『そんなことはありません』かどうか、それを判断するための裁きなんですから、まずはありのままを話してからです。第一、残念ながら、被告に有罪無罪の決定権はありませんから、お忘れなく」
 神の娘は反論の言葉を失い、唇を噛みました。
「さて、皆さんもどうか落ち着いて聞いて頂きたい。カッカしないで、冷静に罪のありかを見極めてくださいよ。尤も、私はルーウルアウドのようにわざと皆さんを煽ろうって腹はありませんがね」
 そう言って腕を組んだプレアスタンはもう一度、ちらりと乙女の後ろのルーウルアウドを見やりました。突き出した被告席の上の乙女は、今にも泣き出しそうな顔で手摺にすがりついていて、その後ろに佇むルーウルアウドは、やはり静かな表情で黙っていました。
「……えー、では順を追って。まず、乙女がそこにいるルーウルアウドと偶然に出会ったという、その翌日。俺……じゃなくて私は、茶の席に呼ばれました。その時、乙女は俺に───いや私に(ああ!もう俺ってことで許してください、話が進まないから!──それでですよ)、乙女は俺に話したんです。人界で地の民を助けた、その男から呪いを受けた、と。でも詳しい話を聞いた俺には、それが呪いなんかじゃあないことが、すぐにわかった。乙女が呪いだと思ったものは、恋の始まりの症状だってことが」
 話しながらラハトハスの席を見やると、あの白狼が、驚愕と憤怒と興奮と希望と絶望をいっぺんに体現したような、壮絶に複雑な顔で口を開けたまま硬直していたので、プレアスタンは思わず苦く笑いました。
「それを承知した上で、俺はけしかけました。会いに行け、呪いを解いてもらえと。呪いなんかじゃないと知っていて、です。ふたりが再び出会えばこういう結果になると予想していました。わかっていて唆したんです。あのとき俺が、もっともらしいことを言って乙女を納得させれば、何事も起きなかったでしょうね。乙女は恋も、愛も、その先にある行為が禁忌であることも、何ひとつご存知なかったのだから」
 見回しながら今度はエルシルの姿をちらりと目に捉えました。背高のっぽは神妙な顔でプレアスタンの話に耳を傾けていました。
「止められたというのなら、そうしなかったのは何故か」
 審理の神が、皆の疑問を代表して尋ねました。
「───それは、乙女が恋をしたからです」
 ヴィーギルの片眉が上がりました。他の者たちも、意味を掴み損ねて、それぞれ怪訝そうな顔をしました。
「いえね。俺は、神界の掟っていうものを、信じていません。いや、ちょっと語弊があるかな……理解はしているし守ってもいますよ。しかしね、守るべき規則として本当に正しいかどうか、そこのところに納得がいっていない」
「それと、乙女の恋と、どう結びつく」
 わかるように説明せよと審理の神は促しました。
「……そうですねえ。なぜ神は愛し合ってはいけないのか――─誰かこの問いに答えてくれる方が、この中にいらっしゃるか?俺を含むすべての者を納得させるだけの、単純で明確な答えを、どなたか持っていらっしゃるか?勿論、掟だから、なんていう堂堂巡りは無しにしてくださいよ」
 いたら是非挙手して欲しいと、プレアスタンは聴衆に問いかけました。
 皆が戸惑いがちに周りの様子を窺ったり、神々のうちの誰かが手を上げないかと見上げたりしました。誰の手も上がりませんでした。
「じゃあ、です。なぜ愛し合うことの出来る心と身体を持っているんです?なぜ神はそのように我らを創ったんです?それについてはどうですか。本当に愛し合うことを許さないなら、掟で禁ずるなんて回りくどいことをせず、愛し合えないように創れば良かっただけのことでしょう。神にはそれが出来るはずなのに。そう、乙女を生んだのは神なんですよ」
「……プレアスタンよ、皆が困惑している」
「わかってますよ!でももう少し、俺の思うように喋らせちゃ貰えませんか。言ったでしょう、一世一代の大舞台なんです」
 発言は自由なはずでしょう、と、どこかおちゃらけた調子に見える仕草で、お祭りプレアスタンは両手を上に向けて言いました。
「さあ、続きです。従者たちは皆、愛し合うことに自分から興味など抱きませんね。ただ禁忌として知らされる。不思議に思ったことはありませんか?もともと知りもしない、概念すらないことを、わざわざ教えておいて禁止する。それなら教えなきゃいい!誰一人知らないままにしておけば、何事も起きる訳がないんですよ、はじめっから。だって知らないんだから!」
 従者たちは、目から鱗が落ちたような気持ちでそれを聞きながら、同時に、いかにもお調子者風のお祭りプレアスタンが、自分たちの考えてもみなかったことについて深く考えていたことに驚きました。
「こればっかりは俺にも全くわからないんですが……神々も含めて、皆さん。心当たりはありませんか。あなた方は乙女と同じく、本当は愛し合う素質を秘めているんじゃあないですか。勿論、こんなこと言われたって自分じゃあわからないでしょうけど。でも、絶対に、誰も、愛することなど永久にないと、断言できますか?事実、愛を知った乙女を前にして、なおも?」
 神々の席で、技の神トスクスが顎に手をやりました。他にも神々が頬に手を当てたり腕を組む姿が見られました。
「俺はずっと以前から考えていました。始まりの神は、何者かが罪を犯すのを待っているんじゃないかと。実際、乙女が密かに人界へ降りるのを、神は咎めなかった。愛し合うことを禁じるならば、乙女が人界へ降りる前に、引き止めればいいだけの話なのに」
 尤もだ、と誰もが思いました。プレアスタンの目が光を帯びました。
「乙女は愛し合う心を持っていた……誰に教わるわけでもなく、です。むしろ周囲はひた隠しにしていましたからね、愛だの恋だのの存在を。それなのに乙女は自らの心ひとつで恋に落ちた。それを知ったとき、俺は見たい、知りたいと思ったんだ。なぜ愛を禁じるのか。禁を犯したとき何が起きるのか」
「乙女の身に何が起きても構わぬと思っていたのか」
「それは違う。本当に取り返しのつかないことになるなら、その前に全知であられる神は止めるはずだ」
「そして、結果、人界に被害が出た。それでは禁じる理由にならぬか」
「さっき、音楽の神ランターヤが精霊たちの歌の内容を教えてくださった。覚えているでしょう。精霊たちは、乙女が精霊たちを欺いたのだと言って、ひどく怒り嘆いていた。けれど、乙女が人の男と愛し合ったことについては、言及していませんでしたね。つまり、人界の大嵐は恋をしたせいじゃあない」
 ランターヤは殆ど断定に似た問いを受け、プレアスタンに頷き返しました。
誰もが先ほどの詞の内容を思い返しましたが、言われてみれば確かにプレアスタンの言う通りだったのでした。
「そもそも、この裁きは、です。───いったい誰が原告なんだ?」
 声が余韻を引きました。
 被告席に立っている当の乙女さえ、誰が原告であるのか、という問いに答えを持ちませんでした。人界を荒らされた地の民が乙女を裁くことを望んだわけでもなく(地上の者たちは原因など何も知らないのだから、望みようがありませんでした)、ましてや罰せよなどと言ったものでもありませんでした。
「……結局、乙女が恋に落ち、愛を知ったところで、それ自体には何の問題もなかった。少なくとも俺は今、そう認識しているし、そのように予想もしていた」
 プレアスタンは更に畳み掛けました。
「はっきりさせておきたいんですよ!乙女が責めを負うとすれば、何に対してです?禁忌を犯した?乙女は禁忌だなんて知らなかったんですよ。むしろ教えなかった方に非があるでしょう。神界を捨てた?それは俺のせいです。俺がそのように追い込んでしまったから、乙女はそうせざるを得なかっただけだ。神が乙女を裁くというのなら、いったい、罪状は何なんだ!」
「追い込んだとは、具体的にどういうことか。話すが良い」
「俺は、乙女に与えられた白の書と、白の従者たちの読む白の書の違いを、乙女に告白しました」
 離れた席でラハトハスが思わず立ち上がり、我に返ってまた着席するのが見えました。
 他の神々の従者たちは、その言葉だけでは状況が掴めずにいるようでした。
 プレアスタンは続いて説明しました。白の従者たちが皆、白の書と呼ばれる心得の書を持っていること、白の乙女もそれを書架に置いていること、しかし従者たちの読む白の書と乙女のそれとでは、内容に若干の違いがあったこと───。
「俺も、最初からそれを知っていたわけじゃあありません。ただ……気づいちまったんですよ。白の書が何かを隠しているってことにも、それから、何を隠しているのかってことにも」
「何故、それに気づいたのだ」
「噂で耳にしたことがある方もいらっしゃるでしょうが、俺は、たまごの実から生まれたにも関わらず、最初から人間の姿をしていました。神界に住まう者たちの誰よりも、人間に近い……いいや、きっと誰よりも、人間、なんです。強いて理由を言うのなら、だから、ですかね。肉体の成長と共に、自然と理解しました」
 乙女の白の書と、従者たちの白の書の内容が違うということは、かなり確信的な推測、だったのでした。実際に違いを確認したのは、乙女に茶に呼ばれたとき、たまたま自分の白の書と乙女の白の書が揃った機会をここぞとばかり利用して、乙女に読み直すよう勧めつつ、さりげなく両者のそれを摩り替えてからでした。
「さっきも言いましたが、俺たち白の従者のうち、恋というものの存在を知るに至った者は皆、乙女に対してそれをひた隠しにしていました。いや、殆どの者はそんな概念自体、知ったところでよく理解できなかったでしょうから、意識して隠していたのは一部の者だけかも知れないんですが。ともかく、それを、俺は暴露しちまったんです。恋そのものについては乙女がご自分で辿り着いたわけですけど、ひた隠しにされてたんですよって事実をね。乙女はひどく動揺されたご様子でしたよ」
 更に、書き損じに端を発する一連の騒動の大筋をまとめて話しました。つまり、ある従者が書き損じをしたのを、たまたま手に入れたこと。そして罪悪感につけ込んで言葉巧みに協力させたこと。後に、それを理由にして懲罰室が使われたことを説明しました。
「結果として白の館では少々騒ぎが起こりましたが、要するにそれも、俺が引き金です。彼には本当に申し訳ないことをした。そっちの件に関しても、俺は然るべき裁きを受けようと思ってます」
「ある従者、とは?」
 名を問われると、プレアスタンは言い渋りました。
「彼はまるきり被害者なんですが。名誉のために、伏せるわけにはいきませんか?……あー、そうですか……ごめんな、ファルニエル」
 その名が挙がると、プレアスタンの視線をヴィーギルが辿り、更にそれを追って皆の目が一所に集まりました。
 息を呑んだファルニエルは椅子からずり落ちそうに身体を強張らせて、しかし震える足でぎこちないながらも何とか立ち上がることに成功しました。
「黄金竜の子、白の従者ファルニエル。今の話に間違いはないか」
「審理の神ヴィーギル!重ねて言いますが、彼は被害者です。証拠の品もある。……今も持ってるだろ?従者としての名を守りたかったら、決して誰にも見せずに、肌身離さず隠し持っていろと脅しておいたから」
 ファルニエルが答える前に、プレアスタンの声が割って入りました。
「……あります」
 小さく返事をしたファルニエルが震える手で懐から取り出したのは、一通の封書でした。



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2011.05.23 公開