異界を渡る物語 第一章 第二十六話



「あなた、は……」
 呟くように問うた乙女に、《神の娘》はくすくすと可笑しそうに笑いました。
「まあ!もう忘れてしまったのですか?つい先ほど、わたしのことを話題にしたばかりだというのに?でも、それも仕方がないかも知れません。こうして言葉を交わすのは、初めてなのですもの」
 訝しがるでもなく、呆気に取られたように言葉の続かない被告席の乙女を、現われた《神の娘》は笑って見下ろしました。
「おねえさま……おかあさまとお呼びしても良いのですけれど、神の娘ニーロニィとは呼べません。なぜなら、わたしもまた、神の娘ニーロニィなのだから」
 乙女はハッとしました。
「もうおわかりかしら。わたしは、あなたが創ったわたし。あの日、あなたが、神界に生きるに相応しい神の娘をと───かつてのように純真無垢で天真爛漫で、恋を知らない神の娘をと、そう願って生み出し白の館に置いていった、もうひとりのあなた。理想どおりの乙女……」
 審議の中でも取沙汰された、《もう一人の神の娘》!
 乙女は今の今まで、その存在とこうして相対したことはありませんでした。その存在を生み出した時でさえ、逢引の際に見せかけの身代わりを置いていくのと同じように、寝所の中に眠る姿で存在を現しておいて、自分はそのまま立ち去ったのだから。
「さあ、では、我が父・始まりの神のご決断をお伝えしましょう」
 聴衆も皆、その言葉に身を乗り出して耳を欹てました。
「ひとつ、神の娘ニーロニィの神籍を剥奪し、神界より追放す。今後、あなたは神の座に名を連ねることは叶いません」
 ついほう、と、思わず鸚鵡返しに呟いた乙女に、《神の娘》は小さく笑いました。
「そして、ひとつ、人の子ルーウルアウドの魂を引き裂き、それを異界へと追放す」
「…………異、界?」
「そう、異界です。ご存知ないでしょうね……神界、人界のほかにも、世界があるだなんて」
 事も無げに紡がれたその言葉に衝撃を受けたのは、乙女だけではありませんでした。審理の神ヴィーギルをはじめとした神々も、従者たちも、皆、雷に打たれたように驚きました。
「異界、だなんて、そんな……そんなことが……!神々はご存知なのですか!」
「いいえ」
 答えたのは神々でなく、中空の《神の娘ニーロニィ》でした。
「誰も知らないことです。神は今まで、どなたにもお話しになりませんでしたもの。今回のことがあって初めて、神はそれをお示しになったの。お教えすると、端的に言えば、異界とはつまり神の見た夢です。神は想像から創造し、この世界を創りたもうた。そして眠りにつき、夢を見たのです。何度も、何度も……。それらは我らの知らぬところで、世界と成り得ました」
「夢?では、異界、とは、どんな……」
 さあ?と、もうひとりの《神の娘》は、小鳥のように首を傾げました。
「それは、まさに神のみぞ知ることでしょうね」
 くすり、と笑う顔は無邪気で、いかにも幸福な存在の笑顔でした。
「おねえさま。これはあなたへの救済です。あらゆる異界を渡り、旅し、おねえさまの言う真の愛をもってルーウルアウドの魂の欠片を再びひとつにすることが叶えば、あなたの神界への帰還が認められる。そして、ルーウルアウド。あなたの肉体はこの白の神殿に安置される。魂を引き裂かれたあなたを、死の安息が絶えず誘惑するでしょう。けれど、それを撥ね退け、いつまで続くとも知れぬ苦しみをも耐えぬき、おねえさまの帰還の日を迎えることが叶ったならば、あなたを神族とし、この神界へ迎えようと神は宣ったのです……いかがかしら?異論無いのは当然のことでしょうね。神は格別なるお慈悲を以って、これらを決められたのですもの」
 茫然自失といった態で返事も出来ない被告席の乙女に向けて、《神の娘》は痛ましげに目を細めました。
「哀しいのですか?辛いのですか?それとも、悔やんでいるのかしら……あなたが戻るまで、わたしこそが唯一無二、たったひとりの神の娘なのですもの。ニーロニィの名は、わたしだけのもの……なんてお可哀想な、おねえさま!けれど、ご安心なさって。あなたがそう望んだ通り、あなたのいない間、白の館はわたしが守ります。従者たちは皆、わたしを───白の乙女を主とし、恙無く過ごすでしょう」
 一呼吸遅れて、乙女の背筋を冷たいものが駆け抜けました。慄然としました。
 ルーウルアウドの魂を引き裂く?そして異界へばら撒く?自分は神界を追放され、魂の欠片を探して異界を彷徨う!
 くらり。
 眩暈がして、膝から崩れそうになるのを、ルーウルアウドが後ろから抱きとめました。
 絶望とさえ言える色を宿した瞳を見開いて言葉を失う乙女の顔を、そっと上げさせて、ルーウルアウドはその瞳を覗き込みました。
 人の子の瞳は静かな強さに満ちていました。そこには恐怖も諦観もなく、ただ消えることのない生命の力だけが揺れてました。
 ただ黙って見詰め合うことしばし、乙女はゆるゆると片腕をあげて、仰け反るようにルーウルアウドの首に絡ませました。
 そのまま口付けるかとさえ思わせる様子は、どこか退廃的で、背徳的で、神々や従者たちに得体の知れない鳥肌を立たせました。
 そして───。
「……!」
「我が主!」
 叫んだのは誰だったのか、神々と従者たちの見守る中、ふたりの姿が陽炎のように揺らいだかと思うと、すうと透き通って消えてしまいました。
 ああ、神がふたりを連れ去りたもうた。
 そう、誰もが悟りました。



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2011.11.03 公開