異界を渡る物語 第一章 第二十七話



 始まりの神自らが被告ふたりを連れ去り、我に返ったときにはもう一人の《神の娘》の姿もまた消えていたことで、騒然のうちに裁きは閉廷となりました。ともかくも従者たちは帰されることになって、皆、釈然としないながらも席を立ち裁きの間を後にしました。そして白の神殿を出ると同時に、裁きについての何もかもをぽっかりと記憶から失くしてしまいました。ただ、始まりの神のご意思により召喚されたということだけは覚えていたので、忘れることが神のご意向とあらば、と誰もが同じように考え、深く追求することをしませんでした。
 しかし、記憶を失わなかった者が四人だけいました。ラハトハス、エルシル、プレアスタン、そしてファルニエルでした。
 従者たちが粛々と場を辞していった時、彼ら四人だけは出て行かず、そこに残りました。
「……退出せよと言ったはずだが」
「待ってくださいよ。あれが結論だなんて、納得いくわけないでしょうが……!」
 まずヴィーギルに噛み付いたのはプレアスタンでした。従者たちがいなくなり、神々と四人だけが残った場内に、這いずる様に低い怒りの声はよく響きました。
「審理の神ヴィーギル!それに、他の神々も……これでお終いにする気ですか!俺の話を聞いていたでしょう?乙女と人の子を罰しておいて、悪巧みの張本人が無罪放免だなんて、馬鹿げてる!」
「ほう。始まりの神のご意向が、馬鹿げておるか……神に対する反逆と解釈して良いか、プレアスタンよ?」
「お待ちください、それは言葉の綾というものです!」
 売り言葉に買い言葉でプレアスタンが何か言いかけたのを、エルシルが遮りました。
「わたくしが彼の意を汲むに、つまり。乙女と人の子が何らかの償いを必要とすることは仕方のないことでしょうが、お二人に与えるとされた罰はあまりに過酷です。ですから神々のお口添えをもって、減刑を御奏上申し上げることが叶わぬものかと……そのためであれば自らが処断されることも厭わないと、プレアスタンはそう申しているのです」
「勝手なこと言うな、司書長!俺は仕方ないなんて思ってない!乙女が罰を受けるのは、絶対に、間違いなんだ!」
 話にならぬ、と、ヴィーギルは首を振りました。
「始まりの神のご決断を、我々が覆すことなど、ありえぬ話。乙女への厳罰は遺憾ではあるが、致し方なきことである。白の従者たちよ、これ以上は他ならぬ乙女の名誉をそなたらの手で更に汚すことになるが……そちらの二人も、まさか同じことを言うのではあるまいな」
 ぎろっと睨まれたラハトハスとファルニエルが何か言う前に、そこへ横から口を挟んだのは、さっと立ち上がった恋の神ニルノでした。
「ねえ、後回しにしたはずの私の話を、いま、しましょう。このままでは後回しでなく、忘れられてしまう。ちょうどいいわ、その子たちも聞きたいことのはずよ」
 そう言われれば、と、四人と神々は思い出しました。ヴィーギルがニルノに、急に倒れたのは何故かと尋ねたとき、先に被告の話を聞いてほしいとニルノが答えた、そういう一幕が確かにあったのでした。
「私があの時、驚いたのはね。あのふたりが、恋で結ばれていたからよ」
 意を掴み損ねた者たちがきょとんとするのを、ニルノは腕を組んで見回しながら、話し始めました。
「男が無理やり乙女を手に入れたのかと思ったのに、そうではなかったの。私の目が、この恋の神ニルノの目が。ふたりの恋を正しく恋と認めたのよ。それがどういうことか、おわかり?私の仕事は縁結びではないわ。地上のすべての人間たちを、いちいち端から見合わせてやるなんて、そんな面倒ごめんだもの。ただ地上から恋がなくならないように、あるいは恋が地上を滅ぼさないように、そういう形で世界を守るのが私の役目……私の力は今この時も、人界に行き届き、彼らの恋を祝福しているのよ?でも、それだけ。誰と誰が恋に落ちようが知ったことじゃないわ」
 たまには結んでやることもあるけれど、気まぐれみたいなもので、ちっとも義務なんかではないの、と、少し脱線して恋の神は嘯きましたが、軽く咳払いをして話を戻しました。
「そして、今回のことよ。私は断じて神の娘と人の男を結んだりしていない」
 一度言葉を区切って、強調しました。
「いい?あの男は人界に───つまり私の力の影響下にあって、なお、乙女に恋をした。乙女は私の力のもとにあって、なお、あの男に応えた。つまり、この恋は許されているということよ!許したのは他でもないこの私!そして私が許したなら、私を創り私にこの任を与えた始まりの神がお許しになったも同じこと」
「ほう。ならばどうだと?」
「結論を言うと、その坊やと同意見ということね。だから乙女の話を先に聞きたかったのよ」
 ちらりと横目で見られたプレアスタンは、さっきからまだ、怒った顔のままでした。
「でもねえ、坊や、勘違いしないことよ。私が許した恋ならば、あなたが何を画策しようとしまいと、もともと結ばれるものだったのよ。自分のせいだなんて、ちっぽけな自惚れはおよしなさい。神の娘の、《かわいい坊や》!」
 それだけ言うと、ニルノはどかっと腰を下ろしました。
「けれど……そうなってくると、あの男は、いったい何者なのかしら?今の話といい、神々を前にしてのあの立ち居振る舞いといい、取るに足らないただの人間とは到底思えない」
 首を傾げたのは美のパシュミアでした。
「さあ?乙女こそ、それをお知りになりたいようでしたよ。そのためにファルニエルを巻き込んだんですから」
 坊や、と呼ばれた不満顔が、ややぶっきら棒に答えると、皆がその名の持ち主を見ました。不意に視線が集まったので黄金竜の子は怯んだように身震いしました。今この場に残っていることだけでも精一杯だと言わんばかりでした。
 と、
「恐れながら」
 それを庇うように声を上げた者がありました。
「今はあの男の素性よりも、我が主ニーロニィの御身について、お考え頂きたく!」
 今度は白狼ラハトハスでした。
 今までずっと、血の気の失せた険しい顔で沈黙を守っていた神の娘の従者筆頭は、ここへ来て漸く引き結んだ唇を開いたのでした。
「お祭りプレアスタンは白の乙女の無罪放免を、或いは減刑を望んでいるようですが。私はそれを訴えるつもりはございません」
 きっぱりと言い切りました。
 引き合いに出された青年は、物言いたげというよりも、いっそ憎しみとすら思える激しい顔つきで、話し手を睨みました。
 エルシルとファルニエルも、意外そうにラハトハスの顔を見ました。
「罪は罪、罰は罰───それが神のご意思なら、受け入れるほかないでしょう。しかし、あのお方に、たったひとりで苦しみを味わわせるなど、私には到底許せないのです」
「許せなくて何とするつもりだ」
「どうか、この白狼ラハトハスに、贖罪の旅路への同行許可を」
 眉間の皺の深さがヴィーギルの内心を物語っていましたが、神々の間からは唸りにも似た称賛の溜め息が聞こえました。何と大それたことを言うのか、しかしこの見上げた忠義の心はどうだろう!
「それを許可するは我に非ず」
 審理の神はにべもなく斬り捨てました。実際、その権限はヴィーギルにはなく、始まりの神のみがそれを持っていました。
「……埒も明かぬ。白狼ラハトハスよ、そなたまでも神に叛かんとするか」
 神に叛く!その言葉は、白狼の喉をぐっと詰まらせました。
「白の館は恙無くあり続ける、それが神の御所望するところである。従者筆頭が館におらずして、何故に恙無くと言えようか。そなたには職務があり、義務があるのだ。さあ、白の従者たちよ、今一度言おう、退出せよと。此度の裁判はすでに閉廷した。この場において、これ以上の審議は不要である!」
 お待ちください、と口々に言いかけたのを、「くどい!」法廷の主は遮って一喝しました。そして神々にも解散を言い渡し、自らも席を立ちました。こうなっては今度こそ、四人も出て行かざるを得ませんでした。
 それぞれ沈黙のまま裁きの間を出ましたが、その胸中は決して穏やかではありませんでした。
 神に連れ去られた主が今どのようなことになっているのかと思うと居ても立ってもいられない気持ちであったし、叶うことならば神の御前にひれ伏して思いつく限りの弁護の言葉を主のために叫びたいと思っていました。
 そんな心のうちを知ってか知らずか、白の神殿の不思議な扉はこんな時でもやはりその性質を発揮しました。つまり、退出する四人をそれぞれ別の場所に導いたのでした。



 ラハトハスが扉を潜ると、そこは神殿の入り口付近、表の塔門に続く玄関でした。他の者たちの気配は消えていました。
 白狼は足を止めました。忠実な従者としては言われた通りに白の館へ帰るべきでしたが、どうにもこうにも後ろ髪を引かれて、従うのが躊躇われました。かと言ってここで引き返すことは神の意思に従わぬことになり、すなわち神への謀反であるというヴィーギルの言葉も、ラハトハスを悩ませました。
 白狼には弁えるべき立場がありました。青い衣を纏っていたら、あるいは今頃既に迷うことなく己の心に従って行動していたかも知れませんでした。しかしラハトハスは、神の娘ニーロニィの従者筆頭ラハトハスなのでした。
 ラハトハスの足はいつの間にか止まり、沈黙のまま立ち尽くしていました。背後には神と、その娘のおわす、燦燦と輝く太陽に照らされた美しい神殿が聳え立っていて、眼前に続く道の先には外へと続く塔門が待ち構えていました。どちらにも足を踏み出すことが出来ず、唇を引き結びました。
 ――─不意に後ろから、ト、とひとつ、足音が聞こえました。
 振り向くとそこには、何時の間に現れたのか背高のっぽが立っていました。
「……迷っておいでですね、ラハトハス」
「エルシル……」
 きれいな銀の髪をさらりと揺らして、この大事だというのに司書長はいつもと変わらずおっとりと笑みました。
「けれど、わたくしの心はもう、決まってしまったようです」
「エルシル」
 先程とは違う色を含んだ声音で、白狼はもう一度目の前の青年を呼びました。驚き、戸惑い、叱責、それに焦りがほんの少しずつ交じり合っていました。
「そういうわけですので、わたくしはこれで」
 司書長は穏やかにそう言って白狼に背を向け、ふと振り返ったかと思うと、
「……また、お会いできると良いですね」
 ほんの僅かな沈黙のあと、ふわりと微笑みました。その顔は、己の知る司書長エルシルよりも、もっとずっと大きな人物であるような、何かを乗り越えたような、そんな顔でした。肉体が年齢を重ねることはなくなったはずであるのに。
 ラハトハスは衝撃に打たれました。我に返り呼び止めようとするより早く、迷いない足取りの後ろ姿は扉をくぐり消えてしまいました。
 ラハトハスは今の言葉を、エルシルが己との今生の別れを、つまり死をも覚悟の上で、始まりの神に従わぬことを選んだのだと理解しました。始まりの神に目通り、主の許しを請うつもりに他なりませんでした。
「私は……」
 大きな手がきつく握り締められました。
 もしも司書長エルシルがこのまま戻らないようなことがあれば、と、ラハトハスは顔を青くして拳を震わせました。従者筆頭としてのラハトハスは、決して後を追うわけにいきませんでした。もし己がエルシルを追って、ふたりとも戻らなかったなどということになれば、前代未聞の大事件でした。白の館の要職が二席も同時に空席になるなど、万が一にもあってはならないことで、否、空席云々よりも、絶対である神のご決定にふたりして異を唱えるなど許されることではありませんでした。
「しかし……」
 想像したくもない未来だけれども、ここでエルシルを置いて白の館に帰還し、本当にエルシルが良からぬ結果を得てしまったとき、神の娘がどれほど悲しんで、どんなに苦悩することか、思い描いただけで胸が張り裂けんばかりに痛みました。そしてラハトハス自身、エルシルを失いたくないと強く思いました。
 そこまで考えて、あることに気付き、白狼は思わずハッと息を飲みました。
 知らず知らずのうちにラハトハスは、神の娘はたとえ重く厳しい罰を受けたとしても、そのあと必ず帰ってくるものと思い込んでいました。が、そもそもその前提に保証がないのだということに、たった今、気付いたのでした。エルシルが失われるかも知れないなら、乙女もまた同様なのでした。始まりの神の娘であり、神々のいとし子であるニーロニィなのだからと、まだどこかで安心していて、本当の最悪の可能性にまで思い至っていなかったのでした。
 その瞬間、心は決まりました。
「私は、神の娘ニーロニィの従者筆頭、ラハトハス」
 誰にともなく、否、あるいは神へ、あるいは自分へと向けて名乗りをあげ、意を決したようにラハトハスはその足を神殿内部への扉に向けました。



 ───一方、同じ頃、ファルニエルはひとり廊下の隅、柱の影に蹲って下を向いていました。急展開に次ぐ急展開にろくに言葉も出ないまま、なんとか自分の足で退出したものの、廊下の途中で眩暈がして、ふらふらと柱に寄り掛かり座り込んでしまったのでした。
 過度の緊張でどうにかなってしまったらしいファルニエルは、辛いのをそのままじっとしてやり過ごし、たった今ようやく、やや重たそうに顔を上げました。
 初めて神殿の中をまともに知覚しました。今までは神の娘のことと己のことで精一杯で、とても周りを見ている場合ではなかったのでした。やっと意識が自分の外側へ向かいました。
 廊下はしんとしていました。空気は雨上がりのようにひんやりとしていて、肺の中まで清潔になる気がしました。辺りを見回しましたが、もう人影もありませんでした。誰かがまた面倒を見てくれていたような気がおぼろげにしましたが、それらしい者も居ませんでした。
 ファルニエルは立ちくらみがしないように気を付けて、柱に手をつきながらゆっくり立ち上がりました。膝を伸ばしきってからもまだ少し様子を見て、本当に大丈夫なのを慎重に確認しました。そして頭痛や眩暈のやってこないことにほっとひとつ息を吐いてから、おもむろに廊下の奥、出口とは逆の方を見ました。
 この幼い黄金竜の子は、裁きの間を出るときからもう、この後の行動を決めていました。腑甲斐ない自分に出来る精一杯の努力でした。
 裁きの間の扉を出てから僅かしか歩いていないまま座り込んでしまったはずなのに、廊下は長く奥へ続いていました。その先にひとつの扉があるのがわかって、ごくりと喉を鳴らしました。白の神殿の不思議を聞き知っており、また同じ扉から退出したはずの他の三人の姿が当然のように消えている不思議を味わったばかりのファルニエルは、あの扉をくぐったときどうなるのだろうと思うと、恐ろしくて恐ろしくて、足が竦みそうでした。
 だめだ、と、ファルニエルは思いました。
 脳裏にデューセリンの自信に満ちた顔が浮かんできました。愛すべき友ディディはいつでも溌剌として勇気があり、行動するために生まれた子のように思われました。引き替え自分は優柔不断でぐずぐずとして、いかにも臆病者でした。
 ディディならきっと顔を上げて行くだろう、それに比べて自分はどうだろうかと思うと、もともと自分などに見合わない大それたことだというのはとっくに承知していたはずなのに、今更ひどくいたたまれない気持ちになりました。
 しかしそのとき、
「えっ?」
 思わず声を上げました。
 廊下の先に、小さな人影を見たのでした。それは少年と青年の間のような身体つきをしていて、金色の髪を持っていました。
「……?」
 少年はこっちを向いていました。そして、ひとつ頷くと、名残惜しそうにも誘っているようにも思える仕草で、二、三歩後ろに下がってから、片手を上げて身を返し、一気に走りだしました。
「あっ。あれっ?」
 驚いて、見間違いかと目を擦ったら、後ろ姿は忽然と消えてしまいました。
 ファルニエルが驚いたのにはわけがありました。少年の仕草や走り方に、妙に覚えがあったからでした。細い体つきといい、髪の色といい、走るときのくせといい、何もかもが自分そのものでした。
 ファルニエルはぽかんとした顔のままで、今見たものが幻か現実かわからずに、しばし突っ立っていました。が、ふと気付くと、あんまり驚きすぎて忘れてしまったのか、先程まで恐怖に萎縮していた心が、解き放たれたように自由を得ていました。
 俄かに勇気が湧いてきました。
「あれは僕だ!僕の心が僕を叱咤しているんだ」
 頬を上気させ両手をぎゅっと握ってそう呟くと、唇を引き結び、顔を上げ、ぐんぐん大股に歩きだしました。



 ───ファルニエルがそんな風に意を決した頃、プレアスタンはひとり、他の者たちとはまた異なる扉の前に立っていました。
「ねえ、始まりの神よ、聞こえておいでなんでしょう。あなたがもしも、意地悪でわからず屋の頑固者でないなら、俺の願いをおわかりでしょうね。おわかりなら聞いてくださるはずだ。いや、本題の返事がどうかは別として。流石にそこは弁えてますが。ね。でも、頼みますよ……地上じゃこういう時、後生ですからって言うらしいですけどね」
 プレアスタンはいかにも彼らしく、あまりにも畏れ多い言葉を、悪戯っ子のような、それでいて切羽詰った顔で言いました。それからちょっぴり困ったような、ばつの悪そうな顔をして、
「……まあ、どのみち今更傅いたところで後の祭りってやつなんですが……だが、この通りです!どうか、俺に機会を!」
 語気を強めて言いながら、言葉と一緒に勢い良く頭を下げました。
「………」
 そのまましばらく固まっていたかと思うと、今度は急にがばりと顔を上げました。そして勢い良く扉に飛び込んでいきました。どこかで、大丈夫さ、と声が聞こえた気がしました。



 裁きの間から連れ去られた乙女と人の子が、いったい何を語ったのか、あるいは語らなかったのか、そして神の意にさえ背いても乙女のためを思った従者たちが、扉の向こうに何を見たのか、それらは後の記録には一切残りませんでした。
 事実だけを言うならば、乙女と人の子は甘んじて罰を受け入れ、四人の従者たちは贖罪の旅の同行許可を得ました。
 ただ、その経緯(いきさつ)は当人たちがそれを記憶するのみであり、外の者に打ち明けられることは、なかったのでした。



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2013.05.17 公開